N さんの例会・集会リポート   2005.2.26 例会
 
  
 最終場面の問いかけるもの――ケストナー『ファービアン』の世界(五)


 文教研のNです。

 すっかり春らしくなりました。けれど目には見えない花粉のおかげで、窓を締め切りガラス越しに花の咲き始めを眺めています。

 さて、だいぶご無沙汰しました。
 二月第2例会は「ファービアン」を二十二章から最後まで読み進めました。

 親友ラブーデの死。傷心のファービアンはベルリンを後にし、ふるさとへ帰ります。大都会ベルリンの「熱」とは違う「平温以下」の現実。そこには懐かしさも含めた昔ながらの、しかし、意識と体を麻痺させるようなものがありました。1990/ちくま文庫版『ファービアン』
 小学校へ行ってみて彼は思います、「昔とちっとも変わっていない」。久しぶりに会った校長は彼に言います「相変わらず昔のままだな」。そして、失業中の彼に相も変わらず「人格を完成したまえ!」と諭すのです。変わらないものは何で、変わったものは何なのか。変わろうとしないものは何なのか。
 I さんは、こうした問いかけと黒井千次『時間』、また、芥川『大導寺信輔の半生』の「学校」との共軛性を指摘しました。

 訳の問題として「体験話法」ということが話題になりました。
 たとえば二十四章の一行空けの後、「ファービアンは……考え込んだ。ファービアンが計画していたことは」から始まるような段落です。ドイツ語の表記では「彼」ということになるのだそうですが、そこがニュアンスとしては「オレが計画していたことは」といったモノローグ的な感じになるのではないか、という指摘でした。
 この点については小松太郎訳以外の訳がないので比較対照してみることができません。この人称、あるいは主語の問題はHさんがずっとこだわられてきたことでした。文体の問題としてこれからの継続課題となりそうです。

 もうひとつの大きな話題は、最後の場面の問題でした。
 Iwさんは見物人のたくさんいる中でファービアンがおぼれていくこと、彼自身は精神と行動が結びつきながらも、連帯すべき仲間と連帯できない状況が象徴的にイメージされる場面として語られました。
 それに対しI さんは、次のような意見を述べています。確かに傍観者でないファービアンが描かれているが、同時にその思いのために泳げないのに飛び込んでしまう姿も描いているのではないか。つまりそれは否定的なものとして描かれているのではないか。
 そして、そこに登場する子ども像。この子は実は泳げたわけで、結果的にいえばファービアンを殺したようなものだ。自分からおっこって、助けようとした人間が死んでいく。この子どもが果たしている役割とは何なのだろうか。
 ケストナーが児童文学の中で問題にする「勇気」と「賢さ」の問題ともつなげて考えたい。というところで時間切れになってしまったので、春合宿に『ファービアン』の総括を持ち越すことになりました。
 太宰『御伽草子』にはいる前に一こま設けたいと思います。合宿参加される方は『ファービアン』もご持参ください。

 〈文教研メール〉より
 

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