N さんの例会・集会リポート 2005.3.27-29 春合宿 |
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明日のない状況の下で――ケストナーと太宰治
文教研のNです。
例年どおり3月27日から29日、春合宿が行われました。初日は暖かでしたが、雨が降ったり寒かったりの三日間でした。大学セミナー・ハウスの杉からもだいぶ多くの花粉が飛んでいるそうで、個人的には厳しい合宿でしたね。 初日は、ケストナー『ファービアン』最後の場面をめぐっての討論と課題の確認でした。焦点は、ファービアンという人物像への共感が軸になるのか、それとも、そこへの作者の批判的な視点が問題になるのか、ということであったように思います。 ファービアンが泳げないのにもかかわらず、目の前の子どもを救うためにとっさの行動に出ること。あえて単純に整理すれば、人間的な行動だ、ということに力点があるのが前者の流れ、人間的な行動ならそれでいいのか、その結果を考えて歯止めをかける必要はないのか、というのが後者の流れだったと思います。 その中で、I さんは次のような点を指摘されました。泳げないファービアンが飛び込めば結果は見えている。それに、結局この子どもは泳げたわけで、もし、数秒踏みとどまっていれば泳ぎだす子どもを見て違う結果もありえただろう。 ある一瞬において、どういう結果をもたらすかを考える踏みとどまり、理性と感情を統一的に生きていく問題が投げかけられているのではないか。 センチメンタリズムを突き放しているから、この作品には希望がある。その点、鶴田知也『コシャマイン記』(1936年)の最後との共軛性も感じられる。 このパートの最初には、前回例会の中で紹介された「ファービアンと芸術審判者たち」(『ファービアン』後書き その二/T、I氏による、おそらく本邦初訳)について話題にされました。その中でケストナーは、「情勢は、今やますます偶然によって左右されている」と述べています。人々は間違った列車に乗って旅をしている。さまざまな可能性があるといいながら、人生にはただ一度の事実しかない。理性が追いやられている現状の中で、そこでは何が起きるかわからない。机をたたいて「こんな状況は変わらなければならない!」と心のそこから揺り動かされるように、どう読者へはたらきかけていけばいいのか。……この後書きを改めて読み、こうした極めて切羽詰った状況下におけるケストナーの問いかけとして読んでいったとき、作品最後の場面から何が見えてくるのか考えさせられました。理性を麻痺させ体制に迎合していくミュンツァーたちのような人間とは違う生き方を選ぼうとするものに対し、しかし、そこで破滅せずに未来へ続くにはどうしたらいいのか。ケストナーの深い倦怠の思いと同時に、忍耐強い問いかけが響いてくる気がしました。 春合宿二日目からは、太宰治『お伽草紙』四作品の検討に入りました。 前書きには、防空壕の中で語り手が子どもに絵本を読んでやる、という設定がかかれています。 この作品においても、頭の上から爆弾が落ちてくる、「偶然」が生死を分ける、そんな太平洋戦争最末期の現実が場面になっている点が改めて指摘されました。 精神の問題としても肉体の問題としても、明日のないぎりぎりに追い込まれた状況の中で、太宰は何を問いかけているか。 そうしたことが四作品の検討の中で明らかになっていったと思います。 実際の検討の中では、四つの作品にはそれぞれ作品としての完成度に違いがあるのではないか、という点も指摘されました。 『お伽草紙』については、全国集会へ向けてこれからも検討の対象にされます。その折、また話題にしたいと思います。 次回は全国集会で取り上げる予定の作品、ケストナー「長靴をはいた猫」(ちくま文 庫『ほらふき男爵の冒険』所収)の検討です。 【〈文教研メール〉2005.4.8 より】 |
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