N さんの例会・集会リポート   2005.2.12 例会
 
  
 モラリストの死――ケストナー『ファービアン』の世界(四)


 文教研のNです。

 日常の雑事に追われ、例会報告が遅れてすみません。

 二月第一例会は、全国集会へ向けての研究プラン発表と『ファービアン』の続きでした。
 最初にI さんのほうから全国集会テーマについての原案が出されました。去年に引き続きテーマは「喜劇精神を支えとして」、副題は「未来に生きる過去」です。この副題は乾孝氏の戦前の論文(「文学と教育」200号に掲載)のタイトルになっているものです。内容は研究企画(案)のレジュメにあるとおりですが、今回の特色はリメイクということに一つの焦点があたっていることだと思います。

 芥川・太宰・ケストナーが、厳しい言論統制の中でどのように昔話や民話など伝承されてきた物語をリメイクしているか。そして、その中にIwさんから紹介のあったDVD、ケストナー脚本「ほら男爵の冒険」(1942)や日本で太平洋末期に製作されたアニメ、「桃太郎 海の神兵」(体制側によって製作された、当時における最高水準のアニメ。当時高校生だった手塚治が感動したという一作。)といった映像を含めて考えよう、という提案です。文教研事務局では早速この二つのDVDとビデオを入手しました。春合宿(3月27〜29日)では、みんなで見たいと思います。たいへん興味深い企画だと思います。ぜひご参加ください。

 さて、『ファービアン』のほうは、二十章・二十一章を読み合いました。あまり時間がなかったの1974/東邦出版社版『ファービアン』で、多くを話せませんでしたが、そこでの大きな問いかけは、「ラブーデの死とは何だったのか」ということであったように思います。それはファービアン自身の問でもあります。ラブーデの、今までの自分を否定するような恋人とのわかれ。政治状況の行き詰まり、そして、自分の存在証明の全てをかけた研究における挫折。しかし、なぜ、彼はあんなにもろく崩れ去ってしまったのか。たった一人の嫉妬深い小役人の嘘が、彼の息の根を止めるほどであったということは、どういうことなのか。

 次回への問題としても、提起された問題をご紹介します。
 ラブーデもあっけなく崩れていってしまうが、ファービアンもまた、あっけない死を遂げる。副題に「あるモラリストの物語」とあるように、ファービアンも、そしてこのラブーデもモラリストであるだろう。しかし、ケストナーはその二人の死を、茶番として描いている。作者ケストナーにおいて、モラリストはそのようにさらに突き放されて、問題とされている。
 ケストナーが『点子ちゃんとアントン』や『飛ぶ教室』において、子どもたちに向けて語りかけた「勇気」と「賢さ」。それはモラリストとして生きることが破滅に繋がるのではないような、そうした生き方を考え続けたとき、ケストナーの中に生まれた、子どもたちにどうしても伝えなければならない大切な人生の課題だったのではないか。

 次回は二十二章から読み合います。 I さんからは、最後の場面に出てくる子ども像についても問題にして欲しい、という要望がでています。ファービアンという作品の最後を、私たちは今、どういう眼で読んでいくことが必要なのでしょうか。

 〈文教研メール〉より
 

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