N さんの例会・集会リポート   2004.12.26-27 冬合宿
 
  
 モラリストは「ゆがんだ鏡を突きつける」――ケストナー『ファービアン』の世界


 文教研のNです。

 毎年のことながら、年の瀬も押し詰まった26・27日、冬合宿が行われました。12月第一例会から読み始めた『ファービアン』を六章まで読み進め、26日の夜には、内輪での『ケストナー文学への探検地図』出版のお祝い会を持ちました。

 『ファービアン』は現在、絶版で古本屋や図書館でしか手にするこ1938/改造文庫版『ファビアン』上・下とが出来ません。『終戦日記』とともに、是非、再販してもらいたい本です。ちくま文庫、岩波の同時代ライブラリーあたり、頑張ってくれないですかね。

 今回みんなで読みながら強く思った事は、ワイマール末期、という場面規定が非常に深い問題を投げかける、ということでした。この作品の副題は「あるモラリストの物語」。前書きを読み合ったとき、この「モラル」ということが話題になり、I さんから次のようなことが指摘されました。

 『ファービアン』が出版されたのは1931年。その頃日本でも、戸坂潤がやはり文学の課題はモラルの探求だといっている。そうした自己一身上の課題としてのモラルの問題こそ、文学的認識の課題だという問題意識が、海を隔てたドイツと日本で、同時に追求されていた。なりふりかまわぬ軍国主義へ突入していく国にあって、真に文学の課題とは何なのかを真摯に考えた知識人の問題意識。真のモラルとは何か。こうした歴史的場面を押さえて読んでいくと、この課題がまさに今日的な課題である事も実感されてきます。

 さて、作品を読み進めていく中で、はっきりしてきたことの一つは、ファービアンという人間の持つメンタリティーのありようです。ファービアンは非常に神経が麻痺した部分と覚醒した部分とを持っているのではないか。
 冒頭の事件の羅列、しかし、それを「格別変わったこともない」と感じる神経。電車にぶつかりそうになっても気付かず、自分がどこを歩いていたかもわからなくなる。その一方で、一瞬に自分自身の姿を空の上から眺める眼を持ち、また、レストランから追い出される貧しい男に、迷いなく助けの手を差し伸べる。
 
 ここでも1930年ごろの日本の若者であった乾孝氏のことが話題になりました。当時、日本の若い知識層において「判断停止」ということが流行語であったこと。その中で、若き日の乾青年はポケットにいつもサイコロをしのばせ、物事を決める手段にしていたこと。……

 そうした教養市民層のまよいと、それでも「始末が悪い」生き方はけっして選ばない自己選択のあり方。それらのことが大手新聞社で出世していくミュンツァーマルミーとの対比の中で語られていきます。そして、6章まで来たとき、そこに登場する親友ラブーデという存在。彼との関係がこれからの大きな話題の中心となるでしょう。

 もう一つはっきりしてきたことは、そこに描かれていくエピソードが現実をえぐる「ゆがんだ鏡」になっているという点でした。例えば、弁護士夫婦として登場するモル夫妻。彼らの間では、妻が自分の寝室に連れ込む男は夫の許可を得る事になっています。それはこの夫婦の間で取り交わされた契約なのです。この契約で妻の暴走を止めようとする夫。しかし、現実にはこの契約で妻を押さえる事は出来ないし、この夫婦関係はなんと言っても異常です。
 また、カフェでファービアンが聞いた話。連れの男の手を握りながら、別な男に色目を使う美女、実は彼女の連れは盲だったという笑い話。ファービアンは「人類の進歩のすばらしさに驚いた」と書かれています。
 
 ここに描かれた、いくら法律や契約で縛ろうとしても暴走していくモル夫人、そのゆがんだ夫婦関係。そして、相手の男が目の見えないことをいいことに甘い言葉でだましながら、別な男と通じていく女。
 そこにはナチスに引きずられ、自ら変態的性格を持つにいたっている民衆の姿。民衆に擦り寄りながら、資本家と手を結ぶナチス、その民衆を愚弄した神経。そうしたメンタリティーが映し出されているのではないか。モラリストは「ゆがんだ鏡を突きつける」。そこには読者への厳しい問いかけがある、と感じました。

 さて、まだまだ『ファービアン』を読み進めていくわけですが、今まで読んだ中で多くの合宿参加者が印象に残る部分として指摘された部分をご紹介します。
 第4章、母親からの手紙の後です。「ヨーロッパはいま大きな休暇をしているのだ。教師は行ってしまった。時間表は消えてしまった。古い大陸は教室の目的を達しなくなった。どんな教室の目的も達しなくなったのである!」
 I さんは『飛ぶ教室』との関係の中で、ケストナーにとっての教室とは、という問題提起をされました。また、今の私たちにとって、日本という社会はどのような教室なのだろうか、と。本当にケストナーは、私たちの”今”を抉り出す作家だと感じます。

〈文教研メール〉より
 

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