N さんの例会・集会リポート   2004.11.27 例会
 
  
 「先生たちも答えが分からないんだ」――小さな可能性を求めて


 文教研のNです。

 先日の例会は、秋季集会*総括でした。[*秋季集会ではケストナー『飛ぶ教室』を取り上げました。]
 参加者のアンケートなどを読みながら、会は進みました。アンケートの内容についてはHPでご覧になれます。秋季集会参加者の声

 そこにない、当日参加した高校二年の女生徒さんの一言をご紹介します。彼女は文教研の会員とは関係ない、同学年の友達に誘われての初参加です。ケストナーは好きだそうですが、参加しての一番の印象は、「先生たちも答えが分からないんだ」ということだったそうです。
 「自分は今まで、先生はいつでも答えがわかっていると思っていた、でも、ここにいる先生たちは答えが分からない」。なんだか笑ってしまいますが、ともかく彼女には、大の大人が一生懸命自分の課題について考える姿は新鮮に映ったようでした。

 こうした教師に対するイメージ変革の大きな一端を担ってくれたのが、Seさんの話題提供であったかもしれません。Seさんは「テオドールは五人組に対する正義先生の話を聞いて変わったか、それとも変わっていないのか」という問題提起をされ、「自分はわからない」と率直に話題提供されました。
 この話題提供に触発され、テオドールについては色々な意見が出ました。整理して言えば、テオドールが変わっていく可能性は0パーセントではないけれど、他の子どもたちとの対比の中で見ていったとき、本質的に変わったとはいえないだろう。その場の雰囲気に大きく飲まれる、センチメンタルな心の動きではないのか、という方向へ討論は進みました。この討論の中で特に、「優等生としてのテオドールに自分を感じる」という意見が印象的でした。

 例会の中で、I さんがこんな事を話題にされました。
 今回の集会の討論を振り返り、また、アンケートをみて、今回は討論のレベルが高かったと思う。それは、参加者一人一人が、自分自身が抱える今日的な課題と正直に向き合った討論がなされたからだろう。そして、そう考えてみると、テオドールにそこまで思い入れてしまう現実がある、ということは非常にたいへんなことだ。学校の中で、生徒も教師も、みんなが優等生にさせられている。真面目に考える若い人ほど、大きな変革を内側から迫られる。そして、周りに仲間を発見するのは非常に困難である。そうした中では、持続的に連帯を志向し続けること自体が、とても難しいことだ。

 さて、その一方で、次のようなアンケートの文章も話題になりました。
 「8年前、10代だった私は子どもの視線でこの作品を読み、たくさんのことを学びました。でも今、一人の社会人として、どう生きねばならないかを考えあぐねていた時に、もう一度読み返してみて、正義先生や禁煙先生の存在が大きく感じられました。同時に、私自身が尊敬し、大好きになった大人の人たちの中の集合体のようなものを二人の中に見出した自分に気づき、これからの自分に行き方の道しるべを得られた気がします。」

 この方はSdさんの教え子さんたちのお仲間の一人です。もう一人見えたSdさんの直接の教え子の方は、小学校の教員になり、子どもたちを教えています。Sdさんは彼女にこうアドバイスしたそうです。ケストナーの「小さな男の子の旅」は教科書(東京書籍『新しい国語』4年生下巻)にも取り上げられている。困難な現場でも可能なものを見つけて教材化していったらいいんだから……。
 こうした時代の中でも、自分を支えてくれる大人、仲間に出会えた人間はやっていける、そう思わせてくれる出来事です。そして、こうした私たちの心の内側に咲いている小さな花に、ケストナーは一生懸命、水遣りしてくれているわけです。

 私たちは日常の些細な場面、仕事でも、家庭でも、そして、こうした集会でも、心のそこから連帯を志向できる人間になりたいものです。そのためには危険を感じ取る鋭敏な耳、本物の仲間を探し出す嗅覚、自分自身を見つめ返せる多角的な眼が必要です。そして、こうしたことこそが、文学の本質的な関心事なのだと考えさせられました。

〈文教研メール〉より
  


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