N さんの例会・集会リポート   2005.1.8 例会
 
  
 ワイマール末期の人々――続、ケストナー『ファービアン』の世界


 文教研のNです。
1948/文芸春秋新社版『ファビアン』
 冬合宿に引き続き、「ファービアン」第七章から読み始めました。

 ファービアンラブーデの二人は、こんな奇妙なキャバレへやってきます。
 「頭の好い男が半気違いを拾い集めて、そいつらに歌をうたわせたり、ダンスをさせたりしているんだ。二・三マルク日給をやって、その代わり見物は悪口のいい放題、いくら笑ったって、からかったって構わないんだ。本人はまるでご存知ないだろうがね。とても大入りだそうだよ。そりゃそうだろうよ。何にしろ世の中に自分よりもっと気のふれた人間がいるってことが分かりゃ愉快だからね」

 ここにやってくるお客は一様にエレガントな服装をしている人々です。その人々が精神を病んだ人間を舞台に上げ、罵声を浴びせて面白がる。しかし、ここの主人である「頭の好い男」は、観客に向かってこう言い放ちます。「(気が狂った)この貴重な芸術家をわがキャバレが獲得するためには、巨額の費用を厭わなかったのであります。なぜかと申しますと、観客席にだけ気違いがいるのは、我慢ができないからであります。」この言葉に一人の観客が激昂します。するとこの主人はこう返す。「あなたのような人はなんていうか知ってますか。阿呆っていうんです!」
 「ところがですな、私がいまいったのは、侮辱的な意味でじゃなくて、特徴としていったんです!」そして、この男の言葉を聞いた観客たちは、笑って拍手するのです。

 このキャバレの主催者は、とても「頭の好い男」です。彼は観客が何に喜ぶかよく知っている。その弱点を知り尽くしている。彼が観客から取る笑いは、そこに参加している全ての人間を愚弄した笑いです。観客は彼の手玉に取られ、うっぷん晴らしに人を愚弄しながら、自から愚弄されることを喜ぶ。
 例会の中で、この愚弄され愚弄して喜ぶゆがんだ人間像、これがワイマール末期市民層の一つのあり方として描かれている点が指摘されました。

 もう一つの話題の焦点は、ファービアンコルネリアのことでした。彼女は司法官試補の試験をパスしたギムナジウム出です。二人の間にはある共通する感覚がある。道で出会って時間を聞いたあと金を無心した男について、彼女は「教育があるのね」といいます。一定の教養をもった人間のやりきれなさが、二人の間には共通感覚として流れている。

 と同時に、コルネリアとファービアンの違いも見えてくるのではないでしょうか。コルネリアは一見新しい女性です。しかし、実際のその男女観、人間観は古い女性のそれを出ていないのではないか。男は全ての権利を持ているが義務をもたない、女は権利を持たないが義務をしょわされている、と古い男女間を批判的に語りながらも、好きになったというファービアンに「あなたはいつでも来たい時に来て、行きたい時に行っていいのよ」というコルネリア。そこには、さばけた新しさがあるようで、とらわれた古いメンタリティーの延長があるだけではないのか。また、人が好きになるとお腹がへる、という彼女にしたたかさも感じる、という意見も出ました。

 一方、ファービアンについて、その変化をKさんが指摘しました。
 「ベルリンのように功名心が早く実を結ぶ土地では俺も功名心の種を一袋くらい蒔くべきだったのかも知れない。……俺のように人生を愛しながら、その人生となんら厳粛な関係を結ばないというのは、ことによるとこれは一つの罪悪だったかもしれない。」彼はコルネリアと出会ってから変わろうと思った、現実と折り合いをつけようとし始めた。
 しかし、その直後、一枚の紙切れで失業してしまう。……I さんは、その場面の前の表現を指摘し、これが教養的中流下層階級者の貧困というものではないか、と話されました。「この分でゆくとどうやら一生貧乏書生で終わりそうな気がした。ファービアンの貧乏は、ほかの人間が爪をかんだり、猫背になって腰をかけたりするのと同じく、一つの悪い習慣だった。」

 さて、どうでしょうか、ワイマール末期の人々の姿そこに生きる若い知識人たちの姿今の私たちを映し出す鏡として、私たちは何をそこに見るでしょうか。

 次回例会は十一章から十九章まで読む予定です。

 〈文教研メール〉より
 

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