N さんの例会・集会リポート   2004.04.10 例会
  
 
 場面規定を押さえて読むことの必要──ケストナーの三作品


 文教研のNです。

 先日の例会は、合宿のような趣でした。仙台からAyさん、広島からNnさんが参加、春合宿に続けてSzさん、そしてIwさんも駆け込んできて、総勢20名。丸く並べた机の、三人がけに三人座っての例会というのも、なんだか嬉しいものでしたよ。
 
 今回は、「ケストナー手帖(仮称)」の執筆へ向け、例会で今まで取り上げていない作品についての検討会、第一回です。作品は「五月三十五日」「一杯の珈琲から」「サーカスの小びと」。それぞれ1500字程度で作品紹介をする、ということが前提です。話題提供は執筆者で、それぞれSeさん、Ayさん、Nnさんでした。
 
 「五月三十五日」で、Seさんの「苦悩」の一つは、あそこにもここにもケストナーの社会にたいする批判がある、といった式の評価の仕方になってしまうことへの躊躇であったと思います。子どもたちに楽しいお話として、媒介したいけれど、そのためには……
 しかし、返って来るべき一つのポイントは、やはり1931年という場面規定の問題であったようでした。ケストナーの作品は、子どもが夢中に読んだのは当然としても、大人もまた真剣に読んだもの。その時点において強く響いてくる表現が随所に使われているわけです。
 しかし、同時に、あまりにその風刺が表に出すぎているのがこの作品の特徴なのではないか。その意味で「エーミールと探偵たち」のような作品と同質に扱えないのではないか、という問題意識をもちながらの作品媒介が必要だ、ということです。
 Stさんが、作品の媒介ポイントとして、大人に向けてはここ、子どもだったらここ、というふうに具体的な箇所を上げていけばいいのでは、と提案。Seさんの「すぐは、ムリ!」(笑)ということで、先に進みました。
 
 「一杯の珈琲から」のAyさんは、用意されたレジュメにそって「失ってはならないもの・受け継いでいくべきもの」が語られている作品として媒介したい、という話をされました。ここでの話題のポイントは「変装」ということでした。
Izさんはこの話が春合宿で読み合った「オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」と同じ1938年に出版されている点を指摘。ティルのペテン師的な「変装」と、ここでのコンスタンツェの父親が考え付く「変装」との間にははっきりと質の違いがある。二つの作品で、この「変装」という問題を対照的に描いていることの中に、ケストナーのユーモアの質を感じる、と発言されました。
 この話に続けてStさんは、時代的な制約の中でそのままでは描けないのだが一部の人たちにはすぐ分かる表現、あの太宰や井伏にとっての「更衣」の季節に通じるものがこの時期のケストナーにもある、彼の苦渋の選択なのだ、と語られました。戦争と文学、その中における<喜劇精神>の問題の一端を感じます。
 
 「サーカスの小びと」のNnさんも、レジュメを用意され、挿絵の面白さなど 、現在持っておられる小学校障害児学級の生徒さんたちにもケストナー文学に対するいい導入になるのではないか、そして、大人にとっては安易に子どもの意見を受け入れるのではなく、時には対立も恐れず時間をかけて信頼関係を作っていく、ということを問い直される作品にもなるだろう、と話されました。
 この作品は1963年、「二人のロッテ」から14年もたっての出版でした。彼も65歳になり、彼の小さい息子を読者に考えて書いたのでは、ということも言われます。しかし例会では、それまでのケストナーの児童文学と比べて文体に変更がある、ということはなさそうだ、という話になりました。
 
 
 さて、次回は「雪の中の三人男」「消えうせた細密画」「二人のロッテ」です。一例会で三作品というのは、準備するほうもたいへんですが、作品相互の関係が立体的に見えてもきますね。それぞれ自分自身が抱えている課題と関連させながら、課題が出し合える場面なのでしょう。 〈文教研メール〉より
  

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