N さんの例会・集会リポート   2004.04.24 例会
   

 単なるユーモア小説ではなく──ケストナーの二作品


 文教研のNです。

 前回に引き続き、「ケストナー手帖(仮称)」の執筆へ向け、例会で今まで取り上げていない作品についての検討、第二回が行われました。今回は前回の「一杯の珈琲から」(創元推理文庫)とともに、ユーモア三部作といわれる、「雪の中の三人男」と「消え失せた密画」です。

 「雪の中の三人男」(創元推理文庫)の執筆担当者はHさんです。Hさんは、ともかく楽しんで読めたこと、登場してくる三人や、青年とヒルデの恋のやり取りなど、とても魅力的だ、と語られました。意見交換の中で、そこには「人間としての面白さ」が描かれている、階級対立ではなく一人の特殊な個としての人間が問題にされている、ということがあらためてはっきりしてきて、「やはり、あの雪だるまの場面がクライマックスでしょう」(Sさん)ということになりました。

 このことに関連して大きく話題になったのは、Sさんが指摘した序の部分でした。「第一の序文 芸術的主題としての億万長者」。「――読者諸君は太陽が地平線の彼方に没する瞬間に、偶然空を見上げたことが、かならずあるにちがいない。日没後数分にしてたちまち西の雲が燃え始める。雲は紅くなる。たそがれていく灰いろの地球の上に雲は寂しく光っている。/雲は薔薇いろを帯びた紅の微光を放っているが、太陽は没している。百万長者はこの雲に似ていないだろうか? すでに沈んでしまった過去の残照ではないだろうか? それだから流行にとり残されたのではないだろうか?」

 Sさんは、チェーホフの『桜の園』や太宰の『善蔵を思う』などに通じる思いがそこにあるだろう、と指摘されました。「残照」としての「面白みのある人間」の存在。Iさんは、この時期ナチスは国家社会主義の名のもと、金持ちの最たるものとしてのユダヤ人から財産を没収していく、優れたサロンの支持者としての百万長者、その教養のあり方に光を当てていくことが、そうした時代への批判にもなっているのでは、と話されました。
 
 私自身、この序の意味はどういうことなのかなあ、と考えていましたが、こうした討論を経てもう一度読み直してみると、たとえば雪のカシミア(Siさんは「雪人形」であって、「雪だるま」ではないのでは、と指摘されていましたが)が、だんだんと解けて壊れていく姿など、深い悲しみを感じさせます。没していく太陽とその残照。そうした「倦怠」の思いが、その底にある作品なのだ、ということがあらためて実感されてきました。

 次の作品、「消え失せた密画」(創元推理文庫)の執筆担当者はKoさんです。Koさんは実際に1360字という字数でこの作品を、「本物」と「ニセ物」に「思い込み」が絡んで人々が翻弄される物語、という角度からまとめてきてくれました。ミステリー仕立でなかなか複雑な構造です。これをうまく媒介するには、大分技術がいりそうですね。

 さて、Kaさんは、この作品には副題として「または或るセンチメンタルな肉屋の親方の冒険」とある、と指摘しました。やはりこのキュルツという男の苦悩と魅力が一つの媒介ポイントかもしれません。彼の人間としての面白さは、奥さんのエミリエやイレーネなど女性に弱い一面や、色々と揚げられると思いますが、基本的に「肉屋の親方」してどういう人間であったか、という点が押さえられる必要があるでしょう。この点についてIさんは次のように話されました。

 ヒットラーの支持基盤は基本的にキュルツのような職人層だった。肉屋の親父といっても、彼は職人の親方、マイスターだ。親方は親方らしく、ということを求められる、そうした同質化を求められる中で、彼はそこからはみ出していく人間だ。彼の人間の見方は、偉い親方の立場から等し並に人間を見るのではない。家族の一人一人を一人一人の長所や短所をそれとして、特殊な一人としてみる人間だ。

 そして、Sさんは、これは難しいことだけれど、と前置きして、ケストナーの「笑い」の質、「ニセ物」に翻弄されている民衆の姿を突き放している「笑い」を媒介する必要がある、ということを話されました。ケストナーの作品は、手放しの民衆賛歌ではない。ケストナーの中にはもっとニヒリスティックな感情がある。これらの作品は確かにユーモアをたたえているけれど、「たあいないユーモア小説」というものではない。そこには作品全体の中に、ワイマール期からナチスによって崩されていくよきもの、そうしたものへの風刺が隠されている。

 私自身、もう一度この作品について考えてみました。キュルツやヨアヒムはとても魅力的な人物です。でも、同時に彼らは追い詰められている。生真面目に自分の関わったことに本当に責任を持とうとすると、例えば自分の財産のすべてをなげうって責任をとるしかない、あるいは若い有能な失業者があふれているの現実の中で、あえて自分の仕事をなげうたなければならない。大切な人のために、そして、与えられた仕事に一生懸命にやって、これではやりきれない。しかし、この作品はそうして自己崩壊しそうになる彼らを引き止めます。そして、その引き止める人物もまた、資産家であり資本家ではありながら、世間の常識からははみ出した人間たちです。

 ちょっと横道にそれますが、イラクで人質になった人たちへ「自己責任」論が湧き起こる日本社会についても考えました。生真面目なだけでは、自己崩壊してしまいます。世間にスミマセンと頭を下げなければならない彼らや私たち自身を突き放す「笑い」が、今、必要なのではないか……、そんな事もまた、この例会が終わってから考えました。〈文教研メール〉より


Nさんの例会・集会リポート前頁次頁