N さんの例会・集会リポート   2004.03.27-29 春合宿


 権力者の発想につながるもの──ティルの場合、黄村先生の場合


 文教研のNです。

 27日から二泊三日の春合宿が行われました。今年は暖かで、大学セミナー・ハウス受付の前の枝垂桜が濃いピンクの花をたくさんつけていました。熊谷先生記念のミツバツツジも大分芽吹いていましたよ。
 
 さて、今回は私の個人的な事情で、合宿二日目の午後からしか参加できませんでした。一日目には「ケストナー手帖(仮称)」の題名の検討などにも随分活発な意見が飛び交ったそうです。
 夜の部からのケストナー「オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」(『ケストナーの「ほらふき男爵」』ちくま文庫)は、Iさんが中世ドイツの民衆本(『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』阿部謹也・訳、岩波文庫、絶版)との対照表を作ってくれて、それを読み進めながらゼミが始まったようです。私が実際に参加したのは、第5話からでした。それ以降の中で話題になったいくつかをご紹介します。
 
 一つは、この物語が人をだますティルという人間を描くと同時に、だまされる側の人間が鮮明に描かれている、という点です。丁度、私が途中参加したあたりのところで、Kさんが発言したので印象的でした。第5話はパン屋の親方をティルがだます話です。まんまとだますティルのやり方はある種痛快であると同時に、やられる親方の滑稽さも浮かび上がらせます。親方はいい人かもしれないが、何故こんなに徹底的にやられてしまうのか。また、この土地の人たちはこの親方を笑いものにしているけれど、その実、自分だっていつやられるかもわからないのに、そのことには一向、気づかない。しかし、また読者はこのティルを、やはり面白がりながら読んでいくわけで、「けしからん!」となってしまっては見えなくなってしまうものがある。これらの問題は「序」のところで大分突っ込んで話し合われたようでした。
 
 さて、ティルが「まともなピエロではな」い、「いてはならない人々の生活の中にいた」(序)ということについてです。そのことは第6話でも強く実感されました。ティルが仕えた伯爵は、見張りのティルの食事のことなんか忘れてしまいます。それに対してティルは仕返しする。ティルは盗賊団が人々に乱暴の限りを尽くしているのを見ても、窓辺からのんびり眺めている。確かにそれは伯爵に対しては痛快な事かもしれない。しかし、この暴力や人の苦しみに何も感じない感覚はどうでしょう!
 
 同時に、このティルの行為によって、だまされる側の姿が鮮明にされることについて。第8話の教授たち、そして、ロバの姿。またもや手玉に取られる教授たち、そして、カラス麦ほしさに頁をめくる生徒のロバ。Iさんは、こうした「イーア、イーア」しか繰り返さない、自分の頭で考えないロバの姿に、ナチス政権下、ナチスの言うままに本を焼いた学生たちの姿が強烈に重ねあわされる、と指摘しました。この点についてHさんなどは、その印象についてはまだ保留にしたい、と述べられましたが、そのような事も含みながら、私にはとても刺激的でした。
 
 作品最後の一文。「ティルは年をとってもいたずらをやめなかった。相手がどっさりいたからだ。いつの世にも、バカが死に絶えたことはない。」――ああ、本当にそのとおり。ケストナーの<喜劇精神>は、少しも古びていないじゃないですか!
 
 さて、ケストナー作品の話が長くなってしまいましたが、このあと、太宰「花吹雪」つづき、「不審庵」の印象の追跡が行われました。
 ケストナーとの対比の中で鮮明になってきたことは、ティルの精神構造、黄村先生の精神構造、そうしたものが権力者の発想と繋がっている、そして、それに振り回されることによって起きる笑いと、見えてくる真実……。
 また、黄村先生シリーズの三作品について、以前お伝えした<日本型自由主義者のメンタリティー>という角度からみたとき、やはり、「黄村先生言行録」の完成度が飛びぬけていること、その他二作品がドタバタの笑いに流れている面などが、指摘されました。

 以上、春合宿の「簡単な」ご紹介です。
 
 4月例会予定。
 ○第一例会(渋谷)ケストナー「5月35日」「サーカスの小人」「一杯のコーヒーから」
 ○第二例会(渋谷)ケストナー「雪の中の三人男」「消えうせた細密画」「二人のロッテ」
 いずれも「ケストナー手帖(仮称)」へ向けて、執筆担当者の話題提供による検討です。
 
〈文教研メール〉より


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