N さんの例会・集会リポート   2004.02.28 例会
 
  
 戦時色一色の中で──太宰治『花吹雪』


 文教研のNです。

 先日の例会は、久しぶりにSさんが参加。前半は今度の『ケストナー手帖(仮称)』の企画と全国集会について、あらためて提案がされました。内容については臨時総会のお知らせとともに、郵送されていますのでご覧下さい。熊谷先生が亡くなった後、初めての単行本出版です。会員みんなの総意で、先生に喜んでいただけるような本にしたいものですね。
 
 後半はIさんの前回までの総括に続き、『花吹雪』の印象の追跡に入りました。
 その折、新たに紹介されたのは、佐川映一『兵法家の言葉−松宮観山について』(「青少年の友」小学館/1943.7)という論文です。この佐川映一というのは熊谷孝氏の戦時中のペンネームです。年号を見れば想像はつきますが、目次を見れば戦時色一色の中での記事です。そうした中で「兵法家の言葉」を取り上げるわけですが、どういう角度から熊谷氏はそれを取り上げているか。『花吹雪』にも武蔵の「独行道」の記述がありますが、それらの描き方を考えるうえで重要な資料として、Iさんは資料提供されました。(この資料については「文学と教育」200号で掲載の予定があります。)
 
 さて、『花吹雪』のほうはの印象の追跡に引き続き、の武蔵「独行道」の前(新潮文庫83頁4行目)までの朗読で時間が来ました。春合宿二日目は、この朗読の続きから始まります。
短い時間での事でしたが、話題になったことを二点ほどご紹介しましょう。
 一つは、「百姓の糞意地」ということを指摘したSさんの発言でした。
 
「わからんか。僕はこんなに震えているのだ。高足駄がこんなにカタカタと鳴っているのが、君にはわからんか。」
 
 こういう「私」のダメな男としての描かれ方。しかし、こういえること自体、本当はすごい事ではないのか。やり方は無様だけれど、やっている本人は本当に真剣だ。こういうことをやる人がいない、やれない、言えない、というのが現実ではないのか。そして、それはその実相手の態度をも変えさせるほどのものなわけで、これが太宰の言う「百姓の糞意地」というものなのではないか。……太宰の喜劇精神のありよう、そして、その骨太さ、そんなことが、また少し見えてきました。
 
 もう一点は、「武術」ということに関してのIさんの発言です。「私」が今回は随分と実証的に「男は腕力が強くなければいけない」ということを語ります。曰く、鴎外もそうだった、漱石も、イエスも、ブッダも。しかし、彼らは「武術」があったからそうした行動に出たのか。むしろ、人間として許せないものに対する怒りがそうさせたのではないか。「武術」といいながら、読者には違うものが伝わってくる、その面白さをIさんは指摘しました。
 
 最後に、司会のSさんが春合宿へつなげるためにまとめた4つの論点がありますので、ご紹介します。
 @ 佐川映一『兵法家の言葉』との対比の中で、現実を切り取る発想のありようを考えること。この文章の中で、筆者は「真心」が大切なのは当たり前だが、それを言うときにも「真心の生かし方」というのが特に重要なのだ、ということを松宮観山の言葉をかりながら述べています。『花吹雪』で言えば、「武術」の生かし方ということでしょうか。そのあたりの事を対比しながら深めてみよう、というのが、まず一点。
 Aそうした中で太宰世代の発想を探っていくこと。
 B「私」のメンタリティーの面白さについて。
 C太宰の〈喜劇精神〉の問題。
 
 春合宿1日目にはケストナー『オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』の印象の追跡もあります。ケストナーと太宰の〈喜劇精神〉について、きっと深まった討論がされることでしょう。 
〈文教研メール〉より


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