N さんの例会・集会リポート 2004.01.24 例会 |
「二八論争」のことなど──太宰治『黄村先生言行録』(1943.1) 文教研のNです。
先日の例会は、前半で、『ケストナー文学手帖』(仮称)の出版の呼びかけが行われました。出版社からの強い依頼で、「今だからこそケストナー」という思いから、出版はこの秋。秋季集会を出版記念集会に、という、なかなかたいへんなスケジュールの企画です。 スタンスとしては、ケストナーを教室に持ち込む気になれるような、読みやすいものに。Iさんの紹介された井上ひさしさんの言葉をかりれば、「難しいことをやさしく。やさしいことをおもしろく。おもしろいことを深く。」というイメージだそうですよ。これは文教研の新たなる挑戦ですね。 詳細は次回ニュースで。ご意見もどうぞお寄せください。
後半は太宰治『黄村先生言行録』印象の追跡、途中まで。朗読しながらの印象の追跡で、あまり時間はありませんでしたが、この作品の〈笑い〉の質が少しずつ見えてきたと思います。 一つは「二八」論争というのがありました。「にはち」と読むか、「にっぱち」と読むか。
場面は井の頭公園で、先生、ちっとも風流心などないのに、女性には目が早い、というところです。 「美人だね。」という先生に、
「美人じゃありませんよ。」
「そうかね二八と見えたが。」
呆れるばかりである。
というところです。
「にはち」なら2×8=16で16歳。「にっぱち」なら28歳。黄村先生のイメージによるところですが、結論的には「にはち」では、というところに落ち着きました。一つには初出に「にはち」とルビがあり、総ルビではないので作者の意向ではないかということ。また、「私」の眼から見ればおよそ16には見えない、たとえば24、5ぐらいの女性をそんな風に言う、女性の年もろくに分からない先生に「呆れるばかり」ということになるのではないか、というHさんの意見に多くの人がうなずきました。
ともかく、全く「私」の話題に興味がなく、かみ合わない会話。わが道を行く黄村先生が、突然、この山椒魚に異常な興味を持つわけです。このギャップ。その先生にとっては自然な事が、周りから見れば非常に不自然で、それが笑いを誘います。などなど。
今回は、最初の一行空けのところまで話し合い、次の一行空けのところまでの朗読と読み方の問題で時間がきてしまいました。次回後半が楽しみです。
【〈文教研メール〉より】 |
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