N さんの例会・集会リポート   2004.01.10 例会

   
 太宰治『禁酒の心』(1943.1)を読む


 文教研のNです。

 新年最初の例会が10日に行われました。
 Fさんからのメールが紹介され、「例会を大切にがんばっていきましょう」という委員長の言葉が、参加者の共通の気持ちだったと思います。参加者の顔ぶれは以下の方々。(16名、略)

 さて、誰がお酒好きで、誰が一度は禁酒を決意した事もありそうでしょうか。なんて、別にどうでもいいんですけどね。「酒飲みの人だと、こんな時、やっぱり目盛りをつけて晩酌しますかね。いっそ一気に飲んじゃったりしないんですか。」と、Szさん。「最初は大体何等分かにしておいても、結局、飲み出したら駄目ですねえ」。Stさんが、そういうときの酒好きの心理を語る。と、こうした場面なども織り込まれつつ、論議は進行したわけです。

 酒好きの、いや、そういう問題ではなく、今回太宰治『禁酒の心』読み直した私にとって、印象に残った点を二点挙げてみます。

 一つは、ここで問題になっているのは、酒を飲むか飲まないかではなく、酒を飲むことを楽しんできた人たちの、その酒の飲み方がゆがまされている事なのだ、ということ。Szさんは「楽しく語り合う仲間がいるってことが楽しいわけでしょ」。Izさんは「『私』は禁酒しようとは思っていない、こういう状況にあっても〈いい飲み方〉をしたいと言っている」、と指摘されていました。本来お酒は「浩然の気」を養うはずのものなのに、「このごろの酒は、ひどく人間を卑屈にするようである」。大切にしていた事を、忘れてはいけない。そういう、痛めつけられた弱い者へ向けての呼びかけが、ここにはある、ということを発見しました。

 もう一つは、「笑い」の問題として、これがお酒の話だから笑えるのだ、という指摘でした。しかし実際は、お米をはじめ、生活物資がみんな配給だったわけです。これがお米の話だったら笑えません。でも、それは本来の読者にとって、重なりあって見えてきた問題なわけです。(本当は、この「本来の読者」と「当時の読者」という概念は、もっと丁寧に使わないといけないのですが。)ごく当たり前に生きようとする人間の日常を卑屈にしていく、そうした人間の意識をゆがませていく現実への抵抗の姿勢、それがこの作品の底に深く流れている、という点にも気づかされました。

 次回は『黄村先生言行録』を中心に『花吹雪』『不審庵』です。楽しみですね。
〈文教研メール〉より


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