むかしの「文教研ニュース」記事抜粋 
 1983                *例会ごとに発行されるニュースから、部分を適宜、摘記したものです。

   
1983/1/8 225

文教研機関誌「文学と教育」 国際的に登録される
 このたび「文学と教育」が国際逐次刊行物として登録されました。このことによって、国際的な交流の道が開かれたことになります。国際逐次刊行物登録記号〈ISSN 0287-6205


1983/2/26  227、228 [同日発行] 

井伏鱒二『川』についてのメモ
 本号と次号は、1月以来三回にわたる例会の記録をS氏のノートより抜粋したものであって、あくまでもメモの類であることを了承しておいていただきたい。会員各自が作品の読み直しをされる時に多少でも参考になればと思って載せたものである。例のS氏のことだから、思いちがいやモレがあるかもしれない。そのような時にはご一報をお願いしたい。〈ニュース部〉

『川』――この作品により、明治の文学が逆照射のかたちではっきりしてくるのではないか。
〔第1章〕「その山の山腹には……」
○「六年前には一どきに三人の人物が通行した。」――(ここでけからではないが)定住者の眼で見られている風景である。
〔第2章〕「谷川の淵といふものは……」
○「元来この一基の石像は……」以後の段落――「お地蔵様」がなぜここに居るのか、それは「詮議するまでもない」ことである。そんな事よりも、こんな地蔵様が「村にやってきた」ということに読者として面白いと思うかどうかである。とにかく、眼の前に存在している、ということに意味があるのではないか。「オタキを追いかけて来たものらしい」のであって、「来た」ではない。このあたりも注意して読んでいかなくてはならない。こういう表現が他にもたくさんある。(―にちがいない)
○「……あたしに危害を……不幸な人間なのです。」――帰ってきたオタキではない。返されてしまったオタキではないのか。いったいこれは誰に向かっての言葉だろうか。そして、これをきいているのは誰か! オタキのこの言葉がわかる読者であるのか、ということが肝腎である。それがわかるというのは、「教養的中流下層階級者の視点」に立った時はっきりきこえてくるのではないだろうか。そして、このナレーターはそういう視点に立った定住者の眼でみつめられている。だから、この場合「定住者」とは単にそこに永く住みついている者、ということではなく、民衆サイドに立った階級的なものである。文学的イデオロギーの問題である。
○「帰休女工の苦悩」――だから、それは一人の女工の苦悩としてではなく、庶民のそれである。
○「その次のときにも、やはり……」以下――この笑い、それはセンチメンタリズムに流れないための歯止め。
〔第3章〕「さきほど二人の壮丁が……」
○「どうしても、オタキは覚悟の自殺……」――自分の意志で選びとった死、〈精神の自由〉。では、いったい誰がオタキを追いつめたのだ。
〔第4章〕「それから一週間ばかりたって……」
○「どの頁にもまるきり同じじことばかり書いてあつた。」――そうとしか書きようがなかった疎外された現実。それは単に観念ではない。〈リアリズム〉。プロ文学の書き方と違うところである。
○「禿頭の親父」と――こんなにもわかり合えないのか。〈山椒魚と蛙〉がここに在る。
○「何といふ極端な貧乏人ばかり……」――これはただ程度の事だけ言っているのだろうか。〈教養的―〉
○「一番貧乏人は澤田伍一」――それでもなお人間的たろうとする。好きで貧乏人の家に生まれたのではないではないか。その貧乏人の内面がみえる〈ナレーター〉とは、単なる貧乏人からは見えてこない。それは「教養的中流―の視点」に立つことによって見えてくる。
○「家がこんなところへながれてきたので」以下――おかしくてたまらない、そう思って読んでいきながら、生きられない現実がうきあがってくる。
○「貧乏者澤田伍一……死体となつて」以下――ひとりの人物をきめつけた眼で見ているのではなく、ナレーターの温かい眼でみつめられている。「女の名刺」、やはり大事にしていたものがあったのだ。〈登場人物〉がおもしろみのある人間として描かれる。リアリズムを志向する眼、それは〈教養的中流―〉
〔第5章〕「ここでは山脈の切れつぱしが……」
○「楕円形の島」「鉄砲型の島」――こんな所に住まわなくてはならない現実、〈貧しさ〉。
○「愚劣な水害」――これはいったい誰に何をしたというのであろうか。「愚劣」! 水害をそう見る眼、〈怒り〉。読み手はこれを見落としてしまったら『川』そのものがわからなくなってしまう。
○「かういふ類の、舌つたるい系統に属する田園風景は、現代では何等の価値もないといはれてゐる。」――(いろいろ議論になった所である。)この「田園風景」とは誰にとっての、つまり、どんな主体にとっての何なのだろうか。「定住者」というより、「教養的中流―の視点」に立つからこそ見えてくるもの。「倦怠感」をいやしてくれる風景として見えてきやしないか。それは次の事と重ねて考えてみよう。
○「……仔馬がとびまはることなど考へてはゐられなかつた。」――それほどのどかな田園風景でありながら、そんなものなど眼に入らないほど、眼に入らなくなってしまっているほど、ここの住民は追いつめられている、ということなのではないのだろうか。(この点は、もう一度各自の読みを確認してほしい。)
○「ほっといてくれ」――この言葉につきる。
〔第6章〕「川の堤防には小さなペンキ塗りの家がある。」
○読んでいる時はおかしかったり……。でも、そのうちにズシンと残ってくるものがある。それはいったい、こっけいなのか、悲惨なのか。悲惨さを描くだけで、文学は勝負がつくわけではない。勝負がつくかに思い込んだのは、三流プロ文学の犯したあやまちである。そこでは文学的イデオロギーが問われなければならない。人間は現実を「加工された言葉」でとらえる。――文学のことばは加工されたことばである。〈ゴーリキ)
○「彼は……無造作に水の中にとび込んだ。」――読み手の眼にはそれがどう見えてくるか。自殺か、他殺か。
〔第7章〕「溺死体は途中で……」
○「若しも死人の遺族がこれをきいたとすれば、感謝するか怒って泣き出すかどうかであろう。」――これ、ヤマバではないのか! 〈芥川への接近〉
○「実に無造作な笑ひ方であるが、人間はどんな暮しむきのつらいものでも、笑ふことができるのである。」――読者の視座において、やさしく温かい眼を感じる。自然の法則を形象の眼でとらえていく、そこに、実はそれは芥川文学の受け継ぎではないのか。
○ドイツ語の講座をめぐって――(議論百出。)「講習生として彼(工場主)くらい善良な生徒もめずらしいのである。」ということは、工場主以外はあまり善良ではなかったらしい、ということですよね。
○「自然が意志を持っている」、そういった場合の「自然」とは、人間の「自然」のことをいっている、ということにならないか。太宰の『右大臣実朝』をみるがいい。生まれたくて生まれたのではない(リアリズム)。ではそんな人間がどんな生き方をしたのか(ロマンティシズム)。このことは井伏文学の“テンダネス”につながっているというか、井伏文学の中にある“非情な精神”とつながっていると思われる。「自然の法則」とはロマンティシズムそのものである。それは確かに「法則」かもしれないが、実はそれが、どんな“眼”でつかまれているのか、ということなのだ。


1983/5/28 230

速報
 このたび、文教研は日本学術会議の協力団体として認知されました。それによって、機関誌に掲載された論文は今後学問的業績として公に認められることになります。尚、機関誌の郵送料は現行の二百円に対して五分の一程度で済むことになります。また文教研会員は全員この「会議」の「有権者」(現、二十二万六千人余)となります。現在「会議」の在り方をめぐって、大きな問題が起きていますが、こういうことに対して、間接的にではあるが、私たちにも発言権が得られたということになります。


1983/5/28 231、232 [前号、前々号と同日発行] 

『草枕』 
 5月第一例会で話題になった問題を、以下メモ風に列記します。なお、今回はいつものS氏のノートではなくI氏のノートからの抜粋です。I氏はノートをきちんととらない人なので、重要な問題を書きもらしていることもありえます。そんな点は今後どんどん補足していきたいと思います。
[このI氏自身によるのコメントは、S氏がいつも「S氏のノート」に添えるコメントの流儀にならって書かれたものと思われる。] 
T.『草枕』 (K.K氏の報告と討議内容はいっしょにしてまとめてあります。)
@ いまなぜ『草枕』か?
 教育の荒廃に象徴的にあらわれているような個の喪失・画一化の中で、真っ当な個の自覚をうながすような近代散文芸術として再評価されるべき作品。
A 写生文の摂取の仕方
・自然描写の文章――自然の描写がそれ自体、作中人物の思索の描写である。
・漱石文学における散文芸術の成立過程――芭蕉(連句中心)⇒蕪村(発句中心)⇒子規(短詩型の近代詩としての俳句)⇒写生文、という流れにおいて漱石の小説の成立過程を考える必要がある。
B この作品はどのような“夢”をどのように追求した作品か?
・那美さん――家族制度の重圧の中で自己の“個”を大事にして生きようとする。そういう意味で異端者といっていいのではないか。那美さんが最後にみせた“あわれ”。夫の苦しみを理解しつつも自立した生き方を求めていく。
・那美さんの姿は、それ以前の場面でも一応“絵”にはなっていた。が、この場面まできて本当の“いい絵”になった。那美さんの内にひそむものを―いままでもそれはあったのだが―はっきりと画工はつかむことができた。
・漱石の夢の追求は現実への強烈な怒りと結びついている。三重吉との違い……。
C 『千鳥』(三重吉)と『草枕』との関係
・文章論的にみて、初出『千鳥』と『草枕』とではさすがに三重吉の先生漱石という感じがする。だが、改稿『千鳥』とではどうなのか。『草枕』はほとんど改稿されていない。文体の完結性と可能性の問題としてどうなのか?
D 『草枕』段階の漱石と三部作段階の漱石
・『草枕』のもつ可能性がどう実現されたのか。またその違いは何か――今後さらにつめていくべき問題だ。
・小説史という視点からみた場合――『草枕』のもつ欠陥は……、画工が漱石自身とほぼイコールである点。〈私小説的なもの〉を多分に内包している。それに対し『三四郎』は作中人物の目で見るとどう見えるかという視点から描かれている。〈本格的小説〉への歩み。井伏の『川』につながっていく側面。
E その他
・文学作品の文章を評価する場合、観念的概念的とを区別する必要がある。前者は(つまり観念的な文章というのは)文学的な意味をもちうるが、後者は非文学になってしまう。そうおさえた時、この作品の、たとえば画工が美術論を展開する部分はどう評価すべきか……。
・漱石は『草枕』を“非人情”を追求した文学だとしているが、文章の具体的なありように即して考えた場合、“非人情”とは何なのか?
[232を探索中につき、この続きは、後日補充する予定。]


1983/6/25 234、235 [同日発行]

「ホトトギス」誌連載の一連の漱石作品について
(『吾輩は猫である』、『幻影の盾』、『坊ちゃん』)
5月第二例会の I 報告と討論の模様を記します
K.K
 一人の作家が書いたものでも、同じリズムではない。「私の中の私達」のどの「私」が主人公になるかで、作品のリズムが変わってくる。この三つの作品の特徴をそういう視点から考える必要がある。『吾輩は猫である』を中心に近代散文の可能性をさぐる、というかたちで報告がなされた。
『吾輩は猫である』
明治38年1月〜39年8月、「ほととぎす」に11回連載された。
@ 語り手の問題から――語り手は「猫」、猫の眼を通して語られている。
 この作品は前半と後半に分けて考えていいのではないか。
〈前半〉猫の視点で、周囲の事象が実に良く写生されている。登場人物の会話も、明治のインテリゲンチャの会話として、生き生きと感じられ、楽しく、おもしろい。
〈後半〉になると、語り手の猫が猫らしさを失ってくる。どちらかというと、登場人物に関心が移ってゆき、主人公の心の中まで「読心術で見ぬいた」などと猫に言わせて描いている。冗談に感じる議論もある。
 以上のことは、書きはじめた時は一章分だけのつもりであったが、思いがけず、長く続けるはめになったという事情とも関係があろう。長編になってしまうと、「猫」の視点だけでは無理になったのではないだろうか。『幻―』『坊―』そして『―猫―』最終回の一ヶ月後に書かれた『草枕』へと向かう作家の必然性が出てきたと言えないか。
 前半と後半をどこで区切るかということは、いろいろと意見、感想が出されたが、「少なくとも三章までは緊張感があり、斬新なものがあるのではないか」という熊谷先生の意見に一同うなずいていた。
A 人物形象の面から  (ことばのあり方)
 会話のおもしろさ――会話している人自身がウソを楽しみあっているような所がある。凡俗とは違うみたいに話しているが、一皮むけば愚昧大衆と自分たちも同じではないか、という認識を描いているのではないか。
 言葉の芸、ことばのおもしろさ、という言葉のあり方を、作者は実験しているのではないだろうか。
 後半の九章、十章あたりでは、議論のための議論、作者漱石の生(ナマ)の意見が出てきてしまっているように思う。漱石自身、あの人々との会話では描けないものを感じたのではないか。連載十回目に登場する『坊っちゃん』の中で、坊っちゃんと清とのあたたかな交流を描くことは、漱石の内的必然だったのではないか。
B 小説(短篇、長篇)という視点でみた場合
 『―猫―』には長篇的統一性はない。自分の思ったこと、考えたことを、ある状況に入れて、あれやこれや描いてゆく。しかし又、短編小説といった統一もない。この作品は小説としての構成、あるいは小説意識は薄い作品であるが、漱石文学の源流と言ってよいのではないか。今までなかった文学のおもしろさを実現した。そして、ここからいろいろな方向に発展してゆく要素をもっている作品である。
『幻影の盾』
 この作品は『吾輩は猫である』の三回めの「ホトトギス」に掲載された。短編小説としてみた場合、まとまった構成と統一がみられる。盾の描写が同時にウィリアムの内面の動きを描き出すものとなっている。
 夢でしかクララとの再会を実現できない。夢を夢として追求していく――こおういう形で描くことで、ウィリアム、クララという人間の内面を描いてゆく。緊密な、緊迫した表現が実現している。
――以上の報告に対して、いくつかの疑問が出された。この作品は本当に緊張したすぐれた作品と言ってよいのか。又、『―猫―』前半を書いている時、この作品は書かれたのだが、その意味は? 等、今後に課題を残した。
『坊っちゃん』
 人物の描写ということで考えると、人間の単純化があり、善玉・悪玉がはっきりしているという描き方になっているが、それが生き生きしている。「うらなり」=善玉、「マドンナ」=悪玉というのは、「うらなり」の側から、「うらなり」に同情をよせる「坊っちゃん」の視座で描けば当然そうなる。しかし、別の角度から見れば、「マドンナ」は別の姿を見せるのではないか。
 生き生きしているのは、リアリティーを生み出す原因は「坊っちゃん」の言葉になりきっているからだろう。人間として失ってはならない“怒り”を単純だが類型化を通して描いている。『―猫―』よりまとまりという点ではまとまっている。二つの作品はユーモア・風刺の面ではつながるものがある。
●《I 報告を受けて》
 熊谷先生からたいへん新鮮な興味ある指摘があった。女性像の中に近代小説への道があった、というのである。
 『坊っちゃん』の「マドンナ」はテーマの切りとり方で、ああより仕方がなかったろうが、悪しき単純化と漱石は感じていたのではないか。そして、切り口を変えて、意識的に失地を回復していく。その中に近代小説が実現していく。『草枕』の「那美さん」、その後で『三四郎』の「美弥子」……。
 近代散文の可能性を作中の女性像の中に見てゆく、という指摘に驚くとともに、これからが楽しみになってきた。


1983/8/1 236

準備合宿
 全国集会のための準備合宿が7月26、27日の両日にわたって、大学セミナー・ハウスで行なわれた。
 ここでは、まず最初、当日(26日)手に入れたばかりの機関誌125号掲載の熊谷先生の報告レジュメ「文学的イデオロギーとしてのリアリズムとロマンティシズム」に即しながら、この問題のについて、テッテイテキに検討・討議が行なわれた。
 なお、この準備合宿に広島のN.Toさんも参加されました。Nさんはこの参加に際して、広島(鈴木三重吉出生の地)の図書館に行き、三重吉に関する重要な資料を持参され、N.Taさんがそれを密かに手に入れた模様である。


『芥川文学手帖』〈仮題)
 みずち書房から10月初旬に出版予定。46余項にわたる執筆陣が決定。編集委員会も委員長は熊谷先生を先頭に、荒川、夏目、山下、佐藤ッの各氏に加えて、高田さん。体制については言うことなし。ただ原稿締切は8月25日! これには血も涙もなし……“死守”。


1983/9/10 237

『芥川文学手帖』出版記念研究集会
11月20日(日) 渋谷勤労福祉会館 (予定)
〈テーマ〉 なぜ、今、芥川文学か
1.今次集会の課題―挨拶にかえて―  夏目武子
2.講演 歴史小説の発見―『羅生門』を中心に―  熊谷 孝先生 〔朗読〕金井公江
3.特別報告 芥川と児童文学―『蜘蛛の糸』から『杜子春』へ―  山下 明
4.ゼミ 『奉教人の死』  〔チューター〕佐藤嗣男、荒川有史
     〔報告〕高田、内貴、沼田、井筒
     〔朗読〕森山、村上、川浦
5.挨拶  福田隆義
                   〔進行〕佐伯、鈴木


1983/9/24 238

9月定期総会
(9/10) 報告
〔福田委員長提案〕
研究姿勢の確立を!
 研究会に参加するということは、人がしゃべったことを、ただ丁寧にノートに書いて、覚えておいて――などというものではないはずです。ノートをとり過ぎやしないでしょうか。むしろ、mっと思索を深め、討論に参加することではないでしょうか。
機関誌「文学と教育」の読者を広めよう!
 みずち書房との協定で文教研の分担は五百部となっています。現在会員には四部ずつ配られていますが、それをどう処理しているかは別として、ひとり平均二部(以上)を拡大の目標にしたらどうでしょうか。これはあくまでもめやすであって強制ではありません。ひとりでも多くの人に私たちの考えを知ってもらおうというのが提案の真意です。販売数が五百を越えれば文教研の財政にもプラスになります。


第一期(9月〜11月)研究企画をめぐる討論から
・例会参加のためには、少なくとも『芥川文学手帖』にとりあげた作品は、もう一度読みかえしておく必要がある。
・今回の研究企画は、芥川のいろんな作品をひとつひとつ、しかも、できるだけたくさんコナシていこうというものではありません。これらを通して、文学史(意識)文芸認識論を深め、つかみ直していこうということではないでしょうか。


「山会」を位置づけよう―編集部提案―
 「山会(やまかい)」とは、子規が言いだしたことばで、自分が書いた原稿を持ちより相互に検討をする会、ということです。
 文教研も機関誌原稿を締切り日前に持ちより、お互いに検討しあおうではないか、という提案です。
 機関誌が みずち書房 から発行されるようになった頃から既に始められています。
★ これ大事なことです。単なる原稿直しではなくて、自分の発想を点検することとつながっているんです。(S編集部長)
★ 自信とウヌボレとは違う。たまには自分の腕で一つぐらい文章をまとめてみろ――と言いたい気持。(ニュース部 多少意訳)(熊谷)
★ 山会に出す前に原稿をコピーして置いたらいいと思います。そうしたら完成原稿と比べてみた時、自分の文章感覚のズレがわかるでしょう。こういうことを合評会の時に出していただくと他の人にも参考になると思います。(Nm)
★ ほんとに楽しい会です。その日に原稿を持ってくるだけのことですから、ほんとに……。(Nk)


1983/9/24 239

会員の諸活動

夏目さん/講演 去る8月24日、「人間教育としての文学教育」というテーマで、神奈川民教連。
井筒さん/「日本文学」9月号に 「母国語文化論と『最後の授業』(ドーデ作)」を発表。
佐藤嗣男さん/「文学草子」80号に 「クリスアーネへのレクイエム」を発表。これは「文学界」(文芸春秋社刊)9月号の「同人雑誌評」にとりあげられています。
樋口さん/「稿」5 「‘文学作品’教材化の視点について―『羅生門』他」(10.8号外)
「近代文学試論」20(井伏鱒二特集)に、熊谷先生をはじめ、文教研会員の諸論文がリストアップされています。


1983/10/8 240

9月第二例会「芥川文学と私 その一」メモ
I.M

○“善悪一如”から“善悪不二”へ――『羅生門』の創造過程
“一如”――善と悪との故郷は同じという発想。その点、新しいが、善は善、悪は悪と分けてしまっている観念性を払拭しきれていない。
“不二”――観念性の払拭。その人間が直面しているその場面、疎外状況との対応関係において、その人間の行為の倫理的意味を問う。
○『羅生門』と『鼻』
・『鼻』にもまた人間疎外の問題が……。
・あんな“鼻”に生まれたくて生まれてきたのではない。そんな鼻に生まれついた人間がなんとか生きていける僧侶の世界へ。が、それも“たてまえ”として、ということにすぎないのだが……。
・内供の悟りの境地。こういう状況の中にいて“悟る”こと以外に嘲笑に耐えて生きることが可能だろうか?
・『羅生門』とは違った意味ではあるが、ここにも深刻な疎外の世界がある。
・『鼻』のこうした意義を充分に認めたうえで、『羅生門』の改稿過程のなかに芥川文学の本流の姿をさぐっていく必要がある。
○歴史小説とは何か?
・現在を過去の曲面に投影し、逆にそのことで現在的現実像の持つひずみを的確な遠近法と適切な距離感において自意識にもたらす、という方法。
・歴史的現実は、必然的に歴史的個性としてひずみ=曲面をもっている。現在的現実の持つひずみを映し出すのに適切な曲面をもった過去を選択する。そこに歴史小説は成立する。
・現在の現実に取材した作品であっても、歴史社会的意識において現実をつかんでいなければならない。本格的な現在小説『秋』と私小説的な“保吉物”との違い。
・ところで、では、歴史小説という方法によって明らかにされる現在的現実の側面とはいったいなんだろうか。教養的中流下層階級者の視点における歴史意識とは?
○『貉』について
・『貉』の発想は、小説の中でより随想文学の中で発展していったのではないだろうか。


1983/11/12 241

10月第一例会(10/8)「芥川文学と私 その二」
M.T
○小説と随想文学の方法意識
・作家がナレーターを設定してナレーターに語らせる。『地獄変』『糸女覚え書』『雛』。
随想文学『本所両国』はナレーターではなく、文学の創造主体としての芥川
・『羅生門』をはじめ、初期の作品には意識的に作家が登場していることは、効果の点では“表現効果”がある(特に『葱』においては)。
方法意識の自覚という点で、芥川龍之介は(井伏鱒二の)「文学史1929年」を準備するところに立つ。
・『貉』の再発見(随想的発想の小説)の中で、喜劇精神は『ロビン・ホッド』につながり、『侏儒の言葉』につながってきた。
○《叱られたこと》
・文教研の会員でありながら、「文学と教育」をきちんと読んでいない。外部から反響もあり学問の上からも無視できない力を持っているのに……。
・『芥川文学手帖』執筆原稿を見る中で感じたことは、大学の文学部・教育学部卒業の教師で、時には生徒の作文まで教えているはずなのに、原稿はメタメタ……、わずかの例外を除いて。
  ☆一同、声なく、ただうつむくばかり。


1983/11/12 242 [前号と同日発行]

10月第一例会(10/22)「芥川文学と私 その三」
I.M
○A報告について
・第一例会のS報告と同様、『芥川文学手帖』の執筆分担であった「評論―教材化と授業の視点」の初校と改稿を対比させる中で報告がおこなわれた。
・芥川の評論の魅力を真につかむためには、小説と同様、場面規定が決定的に重要だ。
「精神の自由」という芥川の主張にしても、それは「ブルジョア文学=芥川文学」というような中傷に対して、文学の真の意義を解明するという姿勢でおこなわれているのであって、それをぬきにして、この言葉をもってまわることは意味がない。
・また、場面規定をふまえないと、芥川が提出した概念を、安易に現代の芸術認識論が解明した概念と同一視したり、また、ないものねだりの批判をしてしまったりすることになる。
・評論の意義を明らかにするために、作品から具体例を引く場合、その例は本当の意味での必然性をもったものでなくてはならない。
○討論のなかから
・芥川の評論を評論文学という視点でとらえていく必要があるのではないか。
芸術科学の成立条件は何か。法律学や経済学と違って芸術科学は、その研究主体の形象的認識体験を前提にしないかぎり、成り立たない。
・宗教学が成り立つためには、研究主体の側に宗教真紅体験は必要か。むしろそれは科学としての宗教学の成立をさまたげる条件になることが多いのではないか。それに対して、芸術体験は芸術学が成り立つための必須の条件である。
・芥川の評論・小説の双方をつうじて、さらに形象とは? 概念とは?……を問いつめていかなくてはならない。
○その他――『芥川文学手帖』の次の仕事は『井伏文学手帖』!
・編集長は熊谷孝先生。編集委員は『芥川―』の編集委員を担当した方々。
・なお、熊谷先生からは構想として、@『黒い雨』の評価に決着を与える。A『かるさん屋敷』などの、井伏文学の真の達成点を示す作品を積極的にとりあげる。Bいくつかの作品をコミにしてとりあつかう……等の点が出されました。
・また、『井伏文学手帖』以後のプランとして『太宰文学手帖』を、さらに、『歴史文学手帖』を刊行すること。また、『歴史文学手帖』は、岩上順一『歴史文学論』の現代に於ける発展的継承をめざすものであること、等が話されました。
[『芥川文学手帖』は1983年11月に みずち書房から刊行された。ついで『井伏文学手帖』は1984年7月、『太宰文学手帖』1985年11月に 同書房から刊行。『歴史文学手帖』の刊行はまだ実現していない。]


『芥川文学手帖』の大量注文
長崎から40冊、仙台から12冊の注文がありました。


1983/11/20 243

『奉教人の死』をめぐって(11月第一例会メモ)
S氏のノートから
[例により、視覚的効果をねらった形式は再現できないので、平板な形に変えて記す。]
§1 ナレーター  と  作者 の視座
      ▽
    「でうすの御愛隣」
    「まるちりぢゃ」
・この言葉はナレーターか、それとも作者の気持を表しているのか――などとせんさくする前に、まず、自分自身(読み手としての)が感動したのか、感動できる人間なのか、どうかが問題なのではないですか。
・これが文学の原点 だろうと思うが、どうでしょうか。自分にとって、それが文学になる かどうかは、そこだと思うのだが。それがたとえひとりよがりだろうが、どうであろうが、感動したかどうかでしょう。
・瞬間の感情(感動)が「絶対」になるということがあるじゃないですか。
・だから、それはそんな事に感動した自分自身を否定することもあるでしょう。
・どんなイデオロギーを持っていようが、ここんところ に感動しないような、できないような人間ならオシマイだ、ということがある。(以上、熊谷)
§2 信仰 とは芥川にとって何か
・だれでも可能性を持ってる……はず(『羅生門』のテーマ)。
・⇒傘張の娘はハレンチ娘のなれのはて……なのか。
・それは、「善悪一如」から「善悪不二」へ、ということとの関連でみたら、どうなるか。
・なにか、童話の『白』につながっているみたい……(H)。成人文学と児童文学の関連、文学史と児童文学の問題として一考に値する。
§3 「善悪一如」から「善悪不二」へ
・人間的に生きた「ろおれんぞ」のその生き方は、この「善悪不二」の考えから生まれたのではないでしょうか。(N)
・それはナレーターが、そう考えていたから……じゃなくて……でしょ。(熊谷)
・「ろおれんぞ」は死んじゃったけれど、「奉教人」は今も尚生きている。ポイントは、この辺じゃないかと思うんだけど。(熊谷)
・「ろおれんぞ」――「持命院基久」と同じ生き方をした人物だ、と言えないだろうか。
・「奉教人」、これは狂ってる! もっとも、この作品は、これがテーマだということではないだろうが。
     ※宗教者のドグマ――ナレーターはこれに疑問を感じてない。
                   (しかし)作者は疑問を感じている。

★二章は、あった方がよかったか、無かった方がよかったか。


1983/12/26 245

12月第一例会のまとめ
I.M
 S、T両氏の資料探索の過程が紹介され、井伏文学の成立過程の具体的あり様と従来の研究史の問題点、さらに熊谷孝氏の1929年画期説の意義が明らかにされた。
[初期井伏文学の年譜 省略]


会員の活動
沢井充子さん「再び八.六の鐘を打つ」(「セミナー・ハウス」87-88合併号)
[昭和58年11月25日発行の「セミナー・ハウス(SEMINAR HOUSE NEWS)」同号から、その記事を転載させていただきます。]

■再び八.六の鐘を打つ■  文学教育研究者集団 沢井充子

 8月6日の広島をはなれるわけにはいかない――これが、被爆者である私の信条でした。が、「文教研の全国集会では8月6日8時15分に黙祷し、『原爆許すまじ』を歌うのです」と聞き、初参加したのが、七年前です。あの日も鐘をつかせていただきました。
 その後、広島の新しい仲間を迎えるたびに、鐘つきの役をひきついでもらいました。
 ことし、久しぶりに鐘をつかせていただくにあたり、教師館屋上にお集まりの方に、思いつくままに次のようなことを話させていただきました。 「私は被爆者手帳を持つ被爆者ですが、みなさまは、手帳をお持ちにならない被爆者ではないでしょうか。今や、地球上の生きとし生けるものは、みな、核保有国の核実験による死の灰をあびせられています。けさは、広島を代表して、同じ小学校の仲間と鐘をつかせていただきます。長崎からご参加の方々をも前にして、想いを新たにしております」と。
 健康に留意し、これからもセミナー・ハウスでの合宿研究会に参加しつづけたいと思います。

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