むかしの「文教研ニュース」記事抜粋 
 1984                *例会ごとに発行されるニュースから、部分を適宜、摘記したものです。

   
1984/1/28 246

冬合宿から
Y.H.
 文教研'83年冬合宿が、12月26日から28日までの3日間、八王子の大学セミナー・ハウスでもたれました。'83年の掉尾にふさわしい“もとをとった”合宿でした。

現在のことばは自然に生まれたものではない。
――日本の近代語を美しくしたのはだれか。――

〔熊谷論文「言文一致と近代散文の可能性」、機関誌126号の合評を中心に据え、真の言文一致をさぐった。以下、熊谷先生の発言より。〕
○ ヨーロッパやロシアで、よく近代語の確立者の名があがる。では、日本語は? ⇒そのケルン(核)は文学者。特にその世代は、ホトトギス派の寅彦・三重吉であった(現在の内容主義の文学史は、この点をみすごしている)。
○ 今のことばは自然に生まれたものではない。単に今の話しことばをそのまま書いても美しいものにはならない。言文一致とは、〈文〉が問題なのだ。〈文〉を媒介に〈言〉を組みかえていく。
○ 戦後の国語教育史の大きな欠陥はその発想がなかったこと。はなしことば重視主義は、実際に使われている言葉を重視することで〈文〉を軽視し、その結果、実は〈言〉をもダメにした。
(今やここまで来た! という一例。『平家物語』を読んだ中学生のツカミカタ。〈富士川の合戦で、源氏の軍勢のド迫力に、平家の軍勢、ビビッちゃった。〉
○ 言文一致教育とは、文によって、すぐれた日本語(美しいことば操作)をつくりあげてきた歴史を、自覚化し学ぶことである。


普通の人のマジメになっちゃってね
――『黒い雨』の文学意識――

〔'83年12月27日、『黒い雨』〕の評価とその評価の仕方に、“決着をつけた”日。それは同時に、文学とは何かをも、明らかにするものであった。〕

T.〈オリエンテーション〉(熊谷先生から)
○ 「『黒い雨』……あれはあまりに問題が深刻すぎて、普通の人のマジメになっちゃってね……」(NHKテレビでの井伏発言)。これは、井伏の意識においては、文学になりきれなかったと語っているのではないか。虚構意識をもつ余裕がなかったということだろう。文学とは何か、井伏文学とは何か、を考える上で、きわめて重要なことばだ。
○ “普通の人のマジメ”とは、経験主義的な発想でまにあわせてしまうこと。それは、“事実”ではあるが、真実といえるほどのつかみ方をしている事実かどうか、という所までは問い返さない。準体験まで高めえない。なまなましいのだ。
○ したがって、普通の人のマジメでは、文学は生まれない。結果として文学になりえる場合もあろうが、文学意識(虚構・典型の意識)の問題として、それは、文学への条件を欠いている。……以上『黒い雨』を検討するにあたっての前提に。
○ 次に、この“普通の人のマジメ”になってしまってまでリポートした作品『黒い雨』から逆照射して、戦後井伏文学の展開の軌跡をさぐると、そこには、井伏文学の戦後特有の倦怠が見えてくるのではないか。その方法で井伏の戦後作品の検討を。
○ 井伏の戦前、戦中の苦しみ、倦怠は、深まりこそすれ、いっこうに解決されない。その点では連続する面がある。しかし、この深まる倦怠の中に、核状況下の(20世紀末固有の問題――山室英男NHK解説委員長)、戦後特有の問題がみいだせないか。その非連続の面に、この合宿では注目したい。

U.〈話題提供〉から
T.M.さん……〔『黒い雨』は井伏文学展開の軌跡の中に、どう位置づくか〕
○ 初期の作品から親しんできた井伏文学の読者の印象からすると、あの“ことばの芸”に徹して、おもしろ味のある人物を造型してきた従来の方法が、ここにはない。
○ 後半の語り手と重松が区別されないのも欠陥。部分のおもしろさはあるが、記録の寄せ集め。虚構意識が弱く、ルポルタージュではないか。
S.T.さん……〔先行「原爆文学」と『黒い雨』〕
○ (『夏の花』1947年、『屍の街』1948年 に即して述べたあとで)『黒い雨』は、反戦・反核イデオロギーによる“記録”作品。文学的イデオロギーに賭けて作品化していない。
A.Y.さん……〔『黒い雨』研究史〕
(@作者自身の証言 A三大新聞における文芸時評 B作家たちの反応 C批判的な論評 D高い評価の論評 以上五点から史的整理がされた。いずれ文章化されるとのこと。たのしみに。@の中から二、三紹介。)
○ 1970年、野間賞受賞のとき、「これは編著とすべき」「文学作品として、小説部門でいただくのは気にかかる」と発言。
○ 1970年、作品集『八月の六日を描く』という本のシリーズのはしがきに、「ルポルタージュ風の雑文」「消化不足」と、反省のかたちでのべられている。

V.〈討論〉から
○ 戦後の倦怠の中で、核状況下のヴェトナム戦争が井伏の眼前にあった。そこで「戦争推進者へむけて、効力はないかもしれないが、ともかく書く」のだ、という反戦イデオロギーで書いた。文学的イデオロギーでつかんだのではない。
 したがって、創作過程で構成上の挫折をしたのではなく、つまり長篇の必然性が、この作品の構成には、はじめから欠けていたのだ。典型の造型をなしえなかったのも、その故だ。
 しかし、あくまで、あの現実にむけて、倦怠のメンタリティーで出発しているのは明らかだ。『黒い雨』の場合、それがプシコイデオロギーにまで煮つめられなかったのである。(主にS.Tさんの発言でまとめました。)
○ 作品評価の仕方も、『黒い雨』の場合、その多くは「イデオロギーでなされている」(T.M)、「“普通の人のマジメ”で評価しているのだ」(I.M)。


井伏文学の戦後特有の倦怠をさぐる
――『黒い雨』からの逆照射による井伏の戦後作品(『橋本屋』『山峡風物誌』)の検討――


〈課題の提示〉(Y.A.) 上記二作品を検討する際に、『黒い雨』の基調になっていた反戦のメンタリティー、しかし文体的には定着しなかったその井伏の課題が、この作品ではどう実現しているのか、『黒い雨』から逆照射する形で、さぐっていきたい。
 その課題に取りくむためにも、井伏の戦後の出発点を定めた作品『侘助』の位置づけを確認したい。(熊谷孝『井伏鱒二』P.244〜)
 井伏の関心は、戦後的現在にあったが、『橋本屋』『山峡風物誌』のように、すぐ眼の前の現在的現実に素材をとらず、江戸幕藩体制下に材を求めていく。
 そこでは、「生類憐みの令」に苦しめられる庶民のサイドから語られる。が、それは同時に戦中の治安維持法に苦しめられた庶民の倦怠とつながっていく。これは戦前・戦中の井伏文学とつながった作品として実現している。
 しかし、また同時に、「島のなくなった川は、のっぺらぼうで間が抜けてゐるやうに見えた」という言葉からは、“日本沈没”のイメージと重なって、まさに戦後日本の姿がイメージされてくる。ここには、戦後特有の倦怠がかかわっているように思う。新しい現実と対応していくものとして創られはじめているのではないか。
 以上のような点から、井伏文学の戦後の出発にとって、はずせない作品である。

〈『橋本屋』の検討〉
〔戦前・戦中につながりながら、戦後の問題が……〕
○ 戦前・戦中の連続面が感じられるが、戦後を生きられない磯松老人の苦しさも。(A.H)
○ 「耐え抜いてきた戦争が終ってみれば、その痛苦の代償はより大きな痛苦でしかなかった」(『井伏鱒二』p.257)という実感をこの作品にもつ。(K.T.)
○ 磯松老人が典型になりえている。親子兄弟を分断する状況。大滝というボスのああしたやり方の中に戦後の典型がさぐられている。戦中の痛苦がさらに増幅されたもの、それが戦後の倦怠の特質ではないか。(O.F.)……以下、紙幅の関係で、討議内容をまとめた形で記録します。

〔“より大きな痛苦”――2.1スト前夜の倦怠〕
 熊谷先生より『橋本屋』の場面規定となる2.1スト前夜の体験が語られました。出口のない戦後的倦怠の普遍的体験として語られたこれは、読者の問題をも提起しました。
○ 戦中の痛苦に耐えてきて、大きな期待を持ちながら新しい解放をむかえた。ところがそこに来たものは特高や憲兵の本質と変らない占領下の痛苦でしかなかった。いや、期待していただけに、「より大きな痛苦」となってはねかえってきた。期待した自己への痛恨をともなって。「あげくの果の発狂」。これはひとり磯松老人のものではなく、こうした戦後、発狂寸前にあった人々の思いにつながるだろう。

〔核状況下の倦怠とそれを生み出すもの――その典型〕
 次にS.T.さんの読みをキッカケに以下のような展開を見せました。
○ 洋太郎も老人もすべてを奪いつくされ人間でないものになっていった。そうした悲劇が描かれると同時に、変態階級・大滝のこうした倦怠・悲劇を生み出す姿が、核状況下の典型として描かれている。疎外するものと疎外されるものが統一的につかまれているのだ。「磯松・洋太郎の苦しみと核状況下の問題は不二のもの」(熊谷)として文体的に実現している。

〔『黒い雨』から逆照射すると……〕
 上記のようにつかまれてきたとき、特に核状況下の権力の側の退廃をその顔役にみる、一つの典型像を描きえたということは、『黒い雨』の素材の要請する主題というものの一方向を的確に描きえた作品形象だと、この作品を評価しうるだろう(熊谷)。

〈『山峡風物誌』の検討〉
○ 独占状況下の戦後日本の民衆の倦怠が、米山さんの語り口でつかまれている。(O.S.)
○ 単に井伏調で楽しいのではなく、楽しい構造がある。その構造の一つがO.Sさんから示された。“独占状況を正確につかむことが、核状況を正確につかむこと”になる。こうした認識の文学的つかみ方を、この作品で井伏は実現している(熊谷)。


1984/1/28  248 [246と同日発行] 

井伏鱒二『かきつばた』(1/14、1月第一例会メモ)
《A.H.報告から》
★ この作品の中で取りあげている(扱われている)素材は深刻なものであるのに、何かおもしろい作品になっている。……それは、同じ作者なのに『黒い雨』とは違う。「おもしろい」というのは、語り手であり主人公でもある「私」のメンタリティーが読み手に伝わってくるからではないだろうか。

★ その「私」とは、どんな人物なのか。
・旅館の庭に忘れられたように置いてある古い水がめへの愛着と執着──「私」にとって、その水がめは、いったい何だったのだろうか。それは空襲、敗戦の経過の中でまっ二つにわられ、そして、こなごなに砕かれてしまう。
・敗戦を境に、胃が痛くなる、そんな「私」──たかが胃であっても、イタイものはイタイのである。虚構意識に支えられた眼で、戦後の現実をつき放してみている。

★ 「わらい」の中に怒り。
・〈放出物資〉──山奥の人たちに、車一杯のスタンプインキ。
・原爆病もお灸をすえればなおる。
・池にとびこんで死んだ娘。ばかばかしい花が咲きやがった。──何かに脅かされ、結局そういうことにならざるをえなかった、その「何か」への怒り。

★ 個が問われなければ、戦争体験も意味がないし、はっきりしないだろう。「私」がとらえた現実とは何であったか。それが普遍に向けて語られた時に、文学になる。『かきつばた』はそういう作品ではないのか。

《討議から》
★ 個としての倫理の問題が追求されている(太宰との共軛性)。文学史的事象としての「原爆体験」の問題をこの作品はつきつめている。(S.T.)
★ 「私」にとって、あの水がめは何であったか、──〈民族の文化〉。それにあくまでもこだわっている、そのメンタリティー。(Y.H.)
★ 具体的には、昭和二十六年の読者に向けて書かれた作品だろうが、被爆者の怒りを身にしみて感じている読者へ向けて訴え続けている作品である。そういう意味では、近・現代文学の持つ普遍性をもった文学となりえている。(熊谷孝)

1984/2/11 249

井伏鱒二『侘助』(1/28、1月第二例会メモ)
 報告Y.A.さん。レジュメにそっての報告だったので、印象深かったポイントをメモしてみました。
@「忽焉として消え去った」波高島
・『定本侘助』(昭和45.2 青娥書房)で大きな改稿をしているので、全集も昭和49.6の増補版による。
・シチュエーションも十月から六月へと書きかえているので季節感が違ってくる。
・「波高島」は地図にもある島で、身延線の駅名にもある。

A人民恐怖の禁令──「生類憐みの令」
・この「狂気の沙汰」が二十数年間も日本列島を支配。
・「波高島への遠島」──滑稽でおかしくても、支配者の恣意、狂気のままに押し通してしまう権力支配の体制。
・生業を奪われた庶民の塗炭の苦しみを怒りをこめて告発。

B徹底した言葉の形象的操作において、
・「小野八」のシグサ、シナのつくり方の仕入元の系譜をたどると権臣柳沢吉保(公方様)にゆきつくという支配者の構造がイメージできる。
・「下々のものは至って勘が鋭い」──小野八のわなを見抜く、民衆の抵抗・一発屋の藤吉像。
・好きな場面──オスギと侘助(p.284〜5)オスギの汗の匂い、突然泣き出すオスギ、「さんざん言っておくれ……犬公方様がことを」、「……贅々尽くしか。……」

C本来の読者の視座における、ダブルイメージの喚起
・戦中の治安維持法体制──ことば刺激からそう感じられるものになっている。
・8.15の敗戦を聞かされた時の民衆、“いったいあれは何だったのだ”という共通の思い。
・もののみごとに権力が消滅してゆく、悪夢だったのか。水没、「日本沈没」。
・流人たちの解放としては位置づけられていない。
・支配権力、場面規定の中で温存されて残っている。
・ダブルイメージの中で天皇を免罪にしてはいない。告発の照準の対象に天皇を含んでいるように感じる。

○ 以上、終章の「のっぺらぼう」まで読んできたところでの、そのインプリケーション。
○ 『侘助』は戦前の本流につながりながら、戦後の井伏文学の出発点になった作品である。

《報告に対する質問・討論から》
○改稿によってテーマの切り取り方が変わったのか、どうかは今後の課題。
○井伏的世代の普遍性──「解放」に批判的眼を持つ。
○ 「一発屋の藤吉」像、さわやかな人、繊細な感じ、侘助の思索の過程で一発屋の助言は生きている。
○ 「のっぺらぼう」の自覚がされていない時にこれを描いた。読者へのショックを喚起している。
○ 8.15、核状況下に「普通の人のまじめ」に陥らず、豊かな文学的イデオロギーにおいて、みごとに形象化し得た作品である。
○ 戦後の混迷・倦怠の中で元禄期の倦怠が追求された。現代小説としての歴史小説の真骨頂。


1984/3/27 252

『開墾村の与作』(続き) (2月第二例会メモ) 
★ 元禄期の最底辺の人たちに眼を向けた意味
・どうしようもない百姓達の現実。ところが、そこに暗さを感じない。楽天的な明るさが見られる。自分のした事に、居直りといったものではなく、いかにも自然な形で陳述がなされていく。(無知と一体のものかもしれないけれど。)(K.K.)
★ 与作の眼から見えてくるものがどうも弱い。(O.F.)
★ 虚構に徹しきれていない。どうもイデオロギッシュなものが強い(天皇制、戦争)。(S.T.)
★ おもしろい作品にはなっている。底辺の人たちと役人との対立、この両者の意識のちぐはぐさのおもしろさ、それが問答法による記述の仕方とマッチしている。井伏の作品の中で「分岐点」に立っているとはいえ、それなりの作品として成り立っている。(Y.A.)
「分岐点」──『開墾村の与作』については、これまでに次のような押さえがなされている。すなわち、『かるさん屋敷』以降『武州鉢形城』へ展開していく、その分岐点が『開墾村の与作』あたりにあったのではないだろうか。文学的イデオロギーに徹したメンタリティー追求の文学の道と、イデオロギー主義・素材主義的なものへの道との二つのコースへの可能性を内包していると考えられる」。]


文教研・24周年誕生を祝う会(だんめんず)[図式的に表現されたものを平板な記述に変えた。]
 熊谷先生の欠席で残念でしたが、去る2月25日、恒例の祝う会を持ちました。
△イブ セブ ンガ クテチョウヘムケテヒタハシリノイマデ ショウカ。オタンジ ョウビ オメデ トウゴザ イマスコトシモユキノナカデ イワッテオリマス。(A.Ym.)
△文教研の方々はよくお飲みになりますが、飲んでも勉強できる方法を教えて下さい。(S.H.)
△いや、マッタク昔の会員もそれなりにきびしかったですよ。頂上が見えずに登山する苦しみですよ。熊谷先生の著作リストを作っていてわかったんですが、先生はいかに寝る時間もけずって勉強されたか……。(A.Y.)
△かつてわれわれがやってきたように、問題別の研究会をやらないとだめだ。(I.M.)
△いったい例会前日の金曜の夜はどんなふうにして過ごしていらっしゃいますか、みなさんは。(T.J.)
△むずかしいと思ったことは、とにかくどんどん質問すればいいのよ。(N.T.)
△ホンネとタテマエがないから、討論がはずむんですよね。(S.M.)
△ここ一、二年は例会、確かにむずかしいかもね。でも、一つの作品を長時間かけてよみあううち、おもしろさがわかってくるんでしょうね。(A.H.)


1984/4/14 253

春の合宿研究会メモ(3/27〜29)

◎夏に全国集会へむけて−前提の確認− 熊谷先生のおはなし

〈文学・教育の対象としての“人間”について〉
▼文学も教育も“人間”をはなれて、無い。▼その人間とは、行動の系に直結したプシコ・イデオロギーである。
▼ところで、全国集会の中心は、「人間として面白味のある人間」の発見と創造──その発見者・創造者としての井伏という文学者とその文学を、現代史としての文学史の問題として追求する。→この“人間”とは、プシコ・イデオロギーである。
▼プシコ・イデオロギーとは、イデオロギーの主体化されたもの。……個人にとっての精神のアスペクト(表情・光景)である。あるいは、イデオロギーがイデオロギー(固定化して干からびた教条)になる以前の“人間精神の原風景(生・基礎)”だ。
▼文学とは、その“人間の精神的風景”を描くことなのである。
▼自分の精神の面(かお)つき(プシコ・イデオロギー)を鍛えなくては、相手の面(かお)つき(プシコ・イデオロギー)は見えてこないだろう。
▼文学教育でいえば、行動の系につながっている、その精神の面つきを、画(絵)として、子どもたち、若者たちの心に焼き付けるには、教師自身のそれを鍛えなくては……。


◎現在の教育問題
〈文教懇提言──大学の一般教養課程廃止の方向〉 許せない!

〔感想メモ〕アメリカ渡りの新制大学は、その基本に社会への適応(産学協同)の思想がある。文教懇(首相の私的諮問機関)の提言は、“大学は専門知識重点”にということで、教養過程を廃止しようというが、結局は、社会=産業界に適応する人材をはやく作ることでしかない。精神のアスペクトを鍛える“教養”、おもしろみのある人間をつくる“教養”を切りすてる中で実現しようとしているこの提言は、やがて、小・中・高などの現場へ、おもしろみのない人材としての教師が送り込まれてくるということである。──黙視できない!


◎『山峡風物誌』から『かるさん屋敷』へ
──「人間として面白味のある人間」の原像を、米山老人にみる──


報告者:N.T.
(ここには、文責者が受けとめた検討の流れのみを載せました。発言者名を記せませんでした。お許しください。)
▼米山さんの語り口が媒介する山峡。▼その語り口は、生活実感に即しているが、その実感のありようは、他の山のぬし、常さんや髯の爺さんとは異なる。
▼地方定住のインテリの教養がにじみ出ている。「猿は昼寝の名人です」と言うようなユーモア。──それはインテリジェンスをもった「私」への安心感。かよいあうメンタリティーを「私」に見つけて、自然に湧き出てきた米山さんの、そうした教養・メンタリティーである。▼1929(『朽助のゐる谷間』)につながる方法がみられる。▼米山さんの語る中に、米山さんの自然を見る眼の確かさ(“純血種の犬はずるい”など)が見えてくる。それは、現実の切り取り方の確かさとつながっているのも(疎外されているものへ向く眼、そして“むくつけき”ものへの憤り)また、見えてくる。▼こうした米山さんの自然や人間の見方の中に、米山さんの人生が滲み出ている。米山さんの人生──その過去のこと、その過去のつかみ方に生命をいとおしむメンタリティーの原点をみる。
▼「私の心の持ちかた一つによりますが……私を救ってくれた人たちに感謝する気持は私の一生を通じて不変不動のやうで御座います。」(全集Cp.30)ここに、「士は己を識る人のために死す」と治郎作の語る『かるさん屋敷』へのつながりをみる。
▼また、「生れたくはない」(『河童』)という言表にみせる芥川の、その歴史場面で闘った“自己確認”という現実凝視の視点を、ここに受けつぎ、「生れた以上どう生きるか」というところへ展開した井伏の文学的イデオロギーをみる。「生き苦しい」現実にあって、倦怠に耐え、人間らしくありたいと連帯を求めるこの米山さんに、教養的中流下層階級者の視点をみいだした。▼「人間として面白味のある人間」の原像としての米山老人の発見である。 以上


1984/4/28 254

4月第一例会メモ(文責 I)
 私(I)が話題提供者だったのだが、例会の課題が十分とらえられておらず、非常に不十分な話題提供しかできなかった。熊谷先生の発言をとおしてこれからの例会で何を明らかにしていかなくてはならないかが明らかになってきたので、その点を中心に以下まとめてみることにする。

○『山峡風物誌』などを一つの材料として今私たちが明らかにしなければならない理論的課題は、文学がわかるとはどういうことかという問題である。

○井伏文学がわかるためには、教養的中流下層階級者の視点をくぐらねばならない。“くぐる”というのは当然くぐろうとする主体の自己変革をともなっている。ところで世の多くの井伏論はこの視点をくぐることなしに井伏文学について論じているのである。

○たとえば、「世界」の五月号にのった大江健三郎の『かきつばた』論はどうか。私たちは『山峡風物誌』にそくして、そこで米山老人が語る“自然”について、それは自然そのものであって人生が託されているのではないこと、がしかし、その自然のつかみかたに自ずと米山老人の人生がにじみでている点を確認した。大江は、しかし、『かきつばた』の文章を“託す”というかたちでしか見ていない。これもつまり大江が上記の視点をくぐっていないところからくるのである。

○文学がわかるとは、という問いかけはあらためて文学とは……という問いかけを喚起する。またそれとともに文学教育において文学をわからせるとは、という問いかけを喚起する。文学をわからせるためには、少なくとも、教師は“自分の言葉”で教育できなくてはならない。がこの点については、古在由秀氏の論文「教育目標はもっと遠くに」(「世界」五月号)を読み合うなかでさらに検討したい。

○「教養的中流下層階級者の視点」をくぐることによって見えてくるのは井伏文学の世界だけではない。様々な古典の世界が新たな照明のもとにとらえ直される。たとえば『難波土産』の発端で穂積以貫が記録した近松の言葉はどうだろうか。〈正根なき木偶にさまさまの情をもたせて……〉〈我浄るりの精神(せうね)をいるゝ事を悟れり……〉ここで使われている〈正根〉〈精神〉とは、プシコイデオロギーのことではないか。

○人間として面白味のある人間……これもまた「教養的……視点」をくぐることではじめてみえてくるものだが、こうした人間像が井伏文学に登場してくるのは戦後である。「『さざなみ軍記』の覚丹などは、「人間として面白味のある人間」ではない。実践的知性の人ではあるが。彼はどんな人間関係のなかでもそれなりにうまくやっていけそうだが、「人間として面白味のある人間」はそうはいかない。その人間としての面白味は、人間関係次第で発揮されたりされなかったりする。

○文学を評価する、評論するとは、その批評家が“文学する”ということではないのか。もちろんそこに同時に“科学する”ということがともなっているわけだが。評論も文学だという小林秀雄の主張はその点では評価できるが、しかし小林の場合彼の考えている“文学”が問題だ。


1984/5/26 258

5月第一例会のまとめ/文学教育とは?
・ 戦後、文部省が文学教育を称揚した一時期があったがそれは単に配給された文学教育の自由にすぎなかったためにすぐにたち消えになった。文教研はそういう潮流に抵抗し真の文学教育を実現するために、作品を発掘し教材体系を構想した。一本勝負では文学教育は実現しないからである。が、今それをそのままくり返すことは意味がない。私たちが異端の文学系譜の視点から再度、教材体系をくみ直す必要がある。そうした、新たな視点からの発見と発掘という電気をたえずとおしていくことが必要である。

・ こうした視点から、とらえ直すならば、たとえばアンデルセンも異端の系譜にたつ作家であることが明確になる。また、この視点は前近代の文学の新たな評価を可能にする。定家の文学の偉大さが見えてくる。そしてこうした評価は、文学史的事実を徹底的に追及することで構築された永積安明氏の定家論とも結果的に一致しているのである。

・ 教材体系論をとらえなおすとは、また〈人間として面白味のある人間〉の魅力が理解しえるようなメンタリティーを創造するために、教材体系のありようをとらえ直すということでもある。

・ 作家の資質とは、〈精神の原風景──土壌としてのプシコイデオロギー〉である。戦後、井伏が〈人間として……〉を創造しえたのは、その資質が、核状況という客観的条件にぶつかって狂い咲きした結果である。“作家としてのまじめ”にもとづく正当な反応の仕方が、この〈狂い咲き〉である。その後の“普通の人のまじめ”にたった『黒い雨』が書かれる。だが、重要なことは、“普通の人のまじめ”でしか書けなかったにしろ井伏は〈文学者〉だからこそそのような対象にたちむかったのである。『黒い雨』が文学として実現していないことを一番よく知っているのは井伏自身である。『黒い雨』を傍観者的に批判するのではなく、井伏が提出した問題をどううけつぐのかが問題なのだ。


1984/10/13 268

9月第二例会まとめ 『井伏文学手帖』合評
〈話題提供 S.T.〉
定例総会(9/8)確認のアピールで反省がうながされたことであるが、最近、やや研究のための研究に傾くところもあった。文学研究意識にささえられた「文学教育研究の一環としての文学研究」という私たちの原理に立った姿勢を持続したい。

○ 『──手帖』は、しかし、その姿勢に貫かれている。これは、熊谷先生の研究とそのテーゼに導かれて、生み出せたもの。ただ、それを私たちがどこまで“発展”させえたか……。その反省もあるが、井伏研究の現況に対しては、自負しうるものを提示できたと思う。
・ 井伏文学の時期区分。その倦怠の質の変化まで含めて、作品に即して明らかにした。
・ 井伏文学における「人間としてのおもしろみのある人間」の創造過程を追跡しえたこと。(『かるさん屋敷』の研究が、一般にほとんど見当たらないのは、文学史意識の欠落である。)
・ 文学史一九二九年もまた、文学史意識・文学教育意識において、つかまれたもの。文学における対話のもつ本質的意味が解明された。
・ さらに、芥川から井伏へという文学系譜が作品に即して明らかにされた。等々。

○ 今後の課題としては、鴎外から井伏へ、そして、井伏から太宰へ、という文学系譜を、この『──手帖』を土台にして、追求したい。


1984/10/27 269

10月第一例会
 「井伏と児童文学」

−報告 F.T.−
井伏が情熱を傾けた「ドリトル先生」とはどういう文学か
@  「三十年たって、とうとう成功したのですが」(「文学的立場」'70年9月、井伏談)、このことばからもわかるように、井伏は、この作品に三十年の年月をかけている。その間、成人文学におとらぬ改稿を重ねている事に驚きを感じた。

A 冒頭部分──日本の昔話のリズム、日本語の語感、音のひびきを生かしきっている。人間のスケールや、人柄のにじみ出たことば選びになっている。共同報告者の一人であるM.M.さんの訳、ほかに飯島訳など、いろいろな訳を対比しながら、井伏訳をみて、人間のつかみ方の温かさと、それに見合ったことば選びの素晴らしさが、いっそう明確になった。眼の前の子どもの日常生活、まっとうな庶民感情をくぐることで(=日本文化を大事にする姿勢によって)、はぐくまれたものであろう。井伏の翻訳の見事さは、そういう対話姿勢を貫いているところから生まれている。「ドリトル先生」は井伏自身の発想をくぐった日本の文学 として位置づけられる。

B 「ドリトル先生」の魅力は、登場人物や動物たちの個性を、彼等との徹底した対話を通して再創造しているところにある。完全人間ではないドリトル先生の人柄の魅力、この先生あってこそ、あの動物たちがある。思わず笑ったあと、はっと自分の常識が問い直されてくる。ドリトル先生の人間性と共に、人間のつかみ方の温かさが読む者(子ども)の中に定着するのではないか。またこの物語(『──アフリカ行き』)自体が、バルドビーからアフリカへという雄大なスケールを持っている。

C 『山峡風物誌』の「米山さん」と「ドリトル先生」とは共軛する面を持っている。これらの作品を書くことで、『かるさん屋敷』の「信長」と「治郎作」の温かい人間関係が形象出来たのではないか。“人間として面白味のある人間”の創造は「ドリトル先生」によって育まれた、と言えないだろうか。同じ年に発表された『増富の渓谷』の話──やさしい心を持った人たちには、信じられない事が起こる。──を想いおこさせるものがある。三十年の間に、井伏の創作主体が、どう変革されてきたのか、それを問題にしたい。

−討 論−
系譜論から見た『ドリトル先生──』の位置づけ
○ この作品は昭和十六年に出版された。その後、度々改稿されたが、井伏の発想に大きい転換はないといってよい。

○ 『ドリトル先生──』は、井伏文学の戦前・戦後をつなぐ役割を持っているのではないか。この時期、井伏は太宰と「選手交替」をしている。これまで、作家活動としては、「空白の数年」としておさえられていた。しかし、『ドリトル先生──』がその空白をつなぐモメントになりはしないか。
  太平洋戦争中、井伏的対話精神を支える作業として、やったのではないか。戦時下、そこには書きたくても書ける条件がなかった。敗戦後、その井伏は書きたくて書けるものへ、ひた走りに走って書いていった。それが『橋本屋』以下の三部作であり、『侘助』『かきつばた』であった。核状況への確認が『かるさん屋敷』にも向かわせている。その意味で、アンデルセンにおける成人文学と児童文学の関係、藤村の童話における対話精神の回復(→『夜明け前』)の関係とは基本的に異なる。(熊谷)

○ 児童文学としてのファンタジーの質について──ファンタジーには幻想性がある。子どもの抱くファンタジーは子どもにとって“現実”である。「ドリトル先生」は子どもにとってのリアリティーとして成りたつと同時に、それを大人の眼から見ると、“子どものファンタジー”として心うたれるものがある。「童話の季節」(小学校低学年)からみたファンタジーの在り方と比べて、より豊かなもの、ひろがりを持ったものが実現している。やはり、ファンタジーの概念規定が必要である。

○ 「ドリトル先生」にひきつけられる子どもは、『マーシャとくま』のような「童話の季節」的なファンタジーを“現実”として読みふける子どもたちではない。いわば、それは「ロビンソン・クルーソー・エイジ」(小学校高学年)の子どもの世界である。──フィクションと知ったうえで、井伏の文章の美しさ、確かさにひきこまれるのである。
 ただ、今の子どもたちが、ことば自体で思索できるだけの、ことば操作についての訓練を受けているかどうか、系統的な指導の問題は残る。(文責 Mo.Ma.)


1984/11/10 270

10月第二例会報告
〈K氏のノートより〉

 この日は、『多甚古村』の文体の魅力──冒頭の部分を中心に、緻密なT.M.報告をめぐって、討論された。特に、例会後半でのいろんな方々の発言は楽しいものであった。
 『多甚古村』という作品は、言葉と文章を楽しみながら、じっくりと読みあじわう余裕をもった人でなければ見えてこない作品ではないか。
 12月15日の日記、「閑居して不善をなすようになっても困りものだと考えるが、いまは悠々と英気を養っているという逃げ口上もある。英気というよりも、志を養っていると言った方が大人らしい ようだ。」皆様、この「大人」を何とよんでいらっしゃいましたか。私としたことが、おや?とは思っても、「たいじん」とは読めていなかったのです。K氏は、ダメですね。なっていませんね。(ここだけの話ですが、夕食後のロングの休憩の時、「『大人閑居して、酒を飲む』という逃げ口上もある。」などとつぶやいていた大人 もいらっしゃいました。)
 12月8日の日記の最後、「汽車が出て群衆が散ってから、私たちも散った。」いかがですか、このリズム。
 12月9日の日記の結び、「温帯さんと寒帯さんの部屋で戦争の話をする。……私たちに定見があるわけではなし、新聞に書いてない話になると、双方とも意見はない。そのうちに煎餅がなくなって帰ってくる。」笑ってしまいますね。でも良く考えてみると、このK氏だって新聞の域を出るような定見なんてなさそうです。何か言いっぱなしのような文体、それが何とも魅力です。
 この作品が載った昭和17年発行の新日本文学全集「井伏鱒二集」は113,000部売れたという。決して深刻がらずに、この作品のリズムで読まれたからであろう。が、笑いっぱなしでない、先に行ってその笑いの意味が問い直される、喜劇精神とはそういうものであろう。読者もこの「精神」で読んでいかなければ、『多甚古村』の世界は見えてこないのではないか。I氏は木下順二の言葉を引いて「音とともに考える」ということを言った。朗読を大事にしようということになった。
  「音楽を聴くのに解説は無駄ではないが、山登りに案内書は必要ではあるが、音楽を楽しみ、山登りを楽しむということとは、別の事であろう。文学を楽しむ、主題を掴む、それは自分でしかできないことなのである。主題の説明と主題とは違う。報告は、いわば主題の説明、鑑賞の手助け、それがソッポだったらとんでもないが、所詮、手助けである。」(Ku氏の弁より)

 T氏の報告は丁寧なレジュメに沿いながら、まずプロローグの、のどかで淳朴な世界から一転、12月8日、歳末非常警戒の世界に移る所から始められた。
 強調されたことは、この日記の書き手は昭和13年当時、30歳前後の巡査であるということ。(決して「井伏」ととるなかれ)その人の言葉・文体であるという点であった。この巡査を現代にひきずり出してもいけないし、理想化しすぎることも注意しなければならないだろう。甲田さんの目で見える所だけを書く、セミ・インテリの甲田さんだから見えてくる、それを大切に書いていく、見えない所は書かない、という井伏の姿勢を確認しつつ、以下、甲田さんのイメージが追跡された。
 どうかレジュメをゆっくりお読み下さい。


1984/12/26 274

常任委員会決定より

太宰文学手帖』についての取りくみ
・ 可能な限り早い時期に刊行する。(来秋11月下旬という声もあり)
・ 太宰文学の全体像を[今年度研究計画]第二期の中ではっきりさせる。
・ 編集委員はこのたびの冬合宿中に発表する。


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