むかしの「文教研ニュース」記事抜粋 
 1982                *例会ごとに発行されるニュースから、部分を適宜、摘記したものです。

   
1982/1/23 210

9月第一例会 「不可知論と芸術学」(1947.4「文学」に発表)
A.H
 例会の課題を的確に把握し、全体像をお伝えするという総括が出来そうもないので、私なりに学んだ点を中心に報告するということで、総括に代えさせていただきたいと思う。
 例会が終ったとき、私は目からうろこが落ちたような、さわやかな感動を覚えた。それは神秘的なベールでおおわれていた“美”という言葉の正体見たり、という気がしたからだ。熊谷先生は言われた。「百でも千でも別の言葉を使ってでも、“美”を追放した方がよい。他の一つの言葉と置き換えようとするのは、言語主義である」と。私達がやってきた文学鑑賞、作品研究は、“美”にこだわってきたわけではない。しかし、私は、文芸認識論として、“美”にこだわることの無意味さを整理してきていたわけではなかった。“美”という言葉のもつ神秘性、というと何かありそうだが、実はあいまいさがあるだけであること、“美”という概念で考えようとしても、迷路に入りこむだけであること、そして、芸術から歴史性を抜き去ってしまい、芸術的体験が単に美的体験として考えられ、芸術的享受、即、美的享受としてしまう。人々は芸術の目的を“美”と考え、それを解釈し、理解し、ついて意見することになる。“人間みな同じものです”である。自分を同化させ、一体化し、陶酔する。おのれをむなしうすることしかない。太宰をナルシシストと決めつけ、作品鑑賞とはほど遠い所で、太宰文学を滅茶苦茶に“味わった”評論家達。教育界の読解指導。根源的には、哲学の系譜の中で初めて探れる問題なのかと、今さらながら思い知らされた。
 人間の“生”は一回的なもの、偶然なものであり、それに迫れるものは芸術だけであるとし、その神秘的なもの、不可知なるものへと我々を導くのは、直接的方法のみであるとする精神科学、そして、その枠の中に生まれた芸術学、それへの批判を展開する場面で、熊谷先生は“感性”という言葉を使われている。先生は、この感性という言葉にどんな概念を託しているかを考えてほしいと言われた。“美学”は本来、“感性の学問”と訳すべきであること、ところが感性というと、哲学の訳語の歴史があり、カントまでいってしまう。感性とはSensibility のことであり、知性の高さ、深さ、豊かさに比例するものであること、“美”という概念を否定することが目的で使われた、というお話であった。
 その他、“世界観”という言葉も、イデオロギーと言い切るには幅があり、よい意味で未分化性のある言葉として使われている。プシコイデオロギーを中心として、イデオロギーメンタリティーが一体となったものを託していると言ってよいよいう御指摘があった。こうして、この論文を検討する過程で学んだのが、論文を読むときの場面規定ということである。戦前の思想弾圧による空白、戦争中の空襲、疎開といった生活の空白、戦後の嵐の中での空白、先生が三十三歳の時の論文だが、二十三歳の時点で書かれたものとして読んで欲しい、とのお話だった。空襲で焼かれて読む本はなく、防空壕の中では、考えることしかできなかったという生活、そして戦後の2.1スト前後に書かれた論文。2.1スト前夜にこのような闘い方をされた先生の闘志のあり方は、この論文が文教研理論の原点であるという意味を強烈に私達に語って下さっていると思う。

(A.Hさんありがとうございました。――この席を借り、年頭のご挨拶を……。ニュース部がはりきればその分だけ皆さまを苦しめる、そんな関係をより一層強化したいと念願いたしてオリマス。今年もよろしくお願いします。 ニュース部一同)


1982/8/3 214

「文学と教育」bP18 受けとりました 
近代文学研究者の I氏から礼状が届きましたので、ご紹介します。
 
「文学と教育」一一八号御恵贈頂きありがとうございました。「小さな貴婦人」論拝読いたしました。一つ一つの文学作品の現在の姿につき、キチンとやらなければなりませんのに、つい徒労感や怠惰からうち棄てがちな私自身の日常について反省させられました。又、それ以外にも、このような仕事をずっと続けていらっしゃることを知り、敬服すると同時にたいへん心強く思いました。今後ともの御活躍を祈ります。取急ぎ御礼まで。


1982/10/9 220 [前号と同日発行]

9月第一例会 文学認識論の基本概念―第31回全国集会の成果をふまえて
Y.H
〔A.Y報告〕
 Aさんの報告は、第31回全国集会をふまえて、@文学教師の条件、Aリアリズム志向のロマンティシズム、B文学的イデオロギー概念の深化、C内容と形式、という四つの柱立てで、文教研がこれまで深めてきた文学認識論(文芸認識論)の基本概念を整理し、新しい解明にむかわせるものでした。(以下、報告要旨)

 ……“作品の魅力を再認識し、媒介しうる資質づくり・条件づくりに徹すること、これが文学教師の条件だ。”という理解の得られたことが、まず第一の成果であった。つぎに、“環境条件によって屈折・変化する一定のキャラクターを与えられた人物の、そのプシコイデオロギーの要求するところを書いていく”というエレンブルグのリアリズム論から学ぶ点、大いにあるが、熊谷先生が指摘されているように、彼の認識論には、典型概念の弱さがめだつ。また、“夢をもとう”とは言っているが、そのロマンティシズムについても明確でない。
 今年の集会では、その典型性を追跡し実現しえている井伏文学のリアリズムをくぐることで、リアリズム概念の解明に前進をみせた。
 第三に、文学的イデオロギー概念の深化がはかられたことである。
 “文学は科学の証明のため……”という位置づけを、かつてしていたことがあったが、文学的イデオロギー概念をもつことになって、文学の独自性がますます明確につかめるようになってきた。
 「受け手の形象的認知に置いてのみ実在性をもつアピアランス」(機関誌109/p.19)としての文学は、まさに文学的イデオロギーにおいて発展的受け継ぎがなされる。この理論が「文学史の方法」などによって、今年つかみ直されたと思う。異端の系譜がはっきりみえてきた。
 第四に、「内容と形式」についてだが、今や私たちは、“送り内容が客観的に存在する”という〈実体説〉を、あらゆる角度から批判しなければならない。
 つまり、“受け内容においてのみ内容は実現する”という発想に徹して、表現形式と表現内容をとらえていくのでなければならないということだ。 “送り内容”と“受け内容”の、実は、押えなおしである。
 私たちはよく“文体的定着”ということを話題にするが、その場合、“作者の送り意図 は、かならずしも、内容的に文体的定着をみせるとはかぎらない”という確認は共通にできると思う。……では、“文体的に形象として定着したものに対してはどうなのか”という点になると、私たちはまだ充分つかんでいるとはいいがたいのではないか。
 “送り内容が客観的に存在する形式とは、いったいなんだ”ということをつめなくてはなるまい。
 しかし、「イメージや観念に形を与えるその瞬間に内容が生まれる」という熊谷先生の指摘――「内容が形式を規定する」という唯物論的原則は押えながらも、そういうダイナミズムをはっきりさせよう、という指摘と、文学的イデオロギー概念の導入によって、私たちは、言語形象的客観化は、同時的なのだということの押え直しは、はかれたといえよう。今集会の大きな収穫だ。
 この発想に立って、読みの方式としての追体験、文芸研の提唱している共体験、教科研の読解主義等を検討してみると、結局それは“作者の送り内容が客観的に存在する”という〈実体説〉であった。
 一方、外山滋比古氏の読者論は、読者の数ほど読みがある、という主観主義である。つまりこれには、「本来の読者の体験をくぐることで問題をつきつめる」という発想、「普遍につながる個として、自分の心を、メンタリティーを位置づける」という発想がないのだ。
 私たちは私たちの理論を、愛情をもって育てましょう。(以上)

〔討論から〕文学的イデオロギーは作品の文章か?
〈S.T〉 文学的イデオロギーは、受け手において実現する、と言い切っていいのではないか。
〈Y.A〉 確かにそうなのだが、プシコイデオロギーの言語形象的客観化としてある文学的イデオロギーは、作品の“文章”である、というつかみ方もあるのではいか。
〈熊谷〉 作品の文章とは何か、言語形象的客観化とは何か……、『羅生門』を具体例に検討してみてはどうでしょう。
〈Y.A〉 芥川のプシコイデオロギーがまずあって、送り内容というのは文学的イデオロギーではないのか。この文学的イデオロギーの表現が、作品の文章なのではないか、と整理するとすっきりする。
 内なる読者との対話というかたちでとらえていったとき、受け内容として実現するというのは正しいとは思うのだが……。
〈熊谷〉 少し論理的につめると、表現以前が文学的イデオロギーで、表現されると、それは文章になる――ということになりますか。
 「下人は……強盗を働きにいそぎつつあった。」という言表が「下人の行方は、誰も知らない。」と改稿されたとき、文学的イデオロギーが変わったといえませんか。
〈S.T〉 初出の言表が、「下人の行方」云々の第二次改稿になるわけだが、実はそのことばに託したプシコイデオロギー、文学的イデオロギーもかわるのだと思う。そしてことばになったものの中にそれは封じ込められるのではなく、あくまで媒体・媒介として託されるのではないか。
 したがって、「イメージや観念に形をあたえた瞬間に内容が生れる」というダイナミズムの中で、受け内容として、同時に、送り内容として、そこに文学的イデオロギーが実現するんじゃないか。
 たとえば、三好行雄氏は「下人の行方』云々をスケプティシズム(懐疑主義)だとするが、芥川の託したものは、そのつかみ方では実現しない。あくまでも「読者が創造の完結者」だというダイナミズムの中で文学的イデオロギーもアピアするのだという所までいかないと、文学的イデオロギー自体も、作品の中に封じ込められてしまうという客観主義にすべるだろう。
〈Y.H〉 ことばは信号だという点にいちど立ちもどって考えてみると、「下人の行方」云々の文章に託されている芥川の発想、文学的イデオロギーは、受け内容として実現する、ということがみえてくるように思います。
〈熊谷〉 文学的イデオロギーの表現が文学になるというのは、誤りですね。しかし、こういう誤り、お互いもっていませんか。
 ところで、一方、“受け内容においてのみ、すべてが存在する”“文学的イデオロギーというのは、受け内容においてのみ存在する”という見解がS.Tさんから出された。
 そこで考えたい。“送り内容”というものが、形の上で、いったいあるのか、ないのか。……
 よく「『羅生門』という作品をもってきなさい。」などと言うが、正確にいえば“作品”はもってこられない。文章になっている本をもってくるだけだ。つまり送り内容というのを客観的にとらえるとすれば、“文字の羅列”という意味の文章があるのみだ。
 だから、外山氏のいう百人の読者がいれば百の内容があるというのも、そのかぎりでは正しい。たとえば「下人の行方」云々を三好氏はスケプティシズムという文章 にするし、私が読むと私の文章 となるのだ。
 つまり、送り内容は、あくまで“文字の羅列”という他ない。しかし、芥川がどう思って書いたかは別個の問題である。これは、“送り意図”である。この送り意図は、誰に対して的確に定着 したか、誰に対して定着 しなかったか、というつかみかたになるべきだろう。あるいは、誰に対しても定着 しなかった、という押え方に認識論としてはなるだろう。
 このへんをいいかげんにすると、受け内容の外側に客観的内容とかいうものがあるという論になるのではないか。
〈S.M〉 定着とも関連すると思うが、作者自身が第一の読者――第一次完結者なのでしょう。その受け内容として顕在化したものが文章となる……。
〈I.M〉 “文体的定着”ということだが、定着一般などはない。読者の主体ぬきにして、「まず“定着”しているんだ。それをどう読みとるか。」というのは、送り内容と受け内容の分裂だ。
 で、一般的定着ではなく、〈誰に対して定着したのか〉ということを問わなければならない。でないと、作品を客観的に 評価するというときに、ともすれば一定の内容がそこにある、というところへ、すべってしまう。
 『羅生門』の改稿は、自分のプシコイデオロギーを表現の中で客観化していく。その時“内なる読者”との対話を通し、作家自身、普遍を含みこんだ鑑賞者となって、文章を書いていく。
 つまり、内容とは作者自身の鑑賞によって成立しているのだ。
 したがって、“送り意図”ではなくて、本来、作者が対話に選んだ、普遍的な相手というのが、誰であるのか、それをふまえつつ見ていくことが大切なのだろう。“受け内容”でみたとき、ぼく自身、身についたプシコイデオロギーというのがある。それが媒体としての作品にふれて、イメージとして自己の内に顕在化されてくる。この成立した受け内容を、批判のモメントを含んで自己のそのプシコイデオロギーで検証していくという方法をとるのだろう。……受け内容が実現したとき、送り内容が成立する。同時的なのだろう。
〈熊谷〉 I さんの〈誰に対して定着したのか〉と言ったところは、正しくは、〈誰をどう変革しつつ、その誰に定着したのか〉ということでしょうね。
 また、その前にSさんが指摘した「作家が第一の読者」という点、大切でしょう。
〈Y.A〉 “受け内容”といったとき、作者を除外した読者を考え、“送り内容”といったときは、作者を考える、という機械的な結びつけ方をどこかでしていた。「文学的イデオロギーの表現が文章である」と考えたのも、自分の中に実体説的なものが、あったからだろう。
〈熊谷〉 納得できます。ところで、Yさんが送り内容に作者を結びつけた、というが、確かに、送り内容の“送り手”は作者ですよね。ただ、送り手(作家)とうのは、我々一般大衆の代弁者(代行者)であるわけです。つまり、送り内容に我々の訴えや何やが入っている。――そういうダイナミズムで送り手をつかんでおきたいですね。
 では、古典の送り内容を、我々とどう関係するのか。そこで〈世代〉が問題となる。紫式部なら紫式部の、あの世代の、その送り が、しかし、わが世代の受け において実現するほかない。その秘密はなにか、というふうに、次々、具体的に追求していくと、ごまかしのない文学認識論がつかめてくるだろう。課題にしましょう。


「文学と教育」(機関誌) 出版ルートにのせる
 9月総会(9/11)と第一例会の2回にわたっる慎重な検討の結果、機関誌を出版ルートにのせることが決まりました。
 今、可能なかぎり、文教研の理論を拡げていくことが大切だということで、――また、編集方針は、従来通り、一切文教研にあるということで、ふみ切りました。
[1983年2月20日、「文学と教育」(季刊)通巻123号が新たな装いで発行された。「編集発行」は文学教育研究者集団、「発売」は みずち書房。88頁、定価350円。]


井筒満さん、府川論文に反論!!
 「日本文学」8月号に載った〈『最後の授業』の教材史的検討〉という府川源一郎氏の、文学の論理を無視した論文に対して、この第一例会でもとりあげ、井筒さんが、それへの批判を展開します。
井筒満氏の「母国語文化論と『最後の授業』(ドーデー作)」は、「日本文学」1983年8月号に掲載された。また、「文学と教育」126(1983.11刊)に香川智之氏の「『最後の授業』奪還―井筒論文を読んで」が掲載されている。以下は、香川論文からの引用である。]
 蓮見重彦氏や田中(克彦)氏によって、この作品に対する疑問、あるいは否定的見解が提出されてから数年が過ぎた。アメル先生は、アルザス人にとって他人のことばを「国語」として強制する加害者であり、「言語的支配の独善をさらけ出した、文学などとは関係のない、植民者の政治的煽情の一篇でしかない」(田中克彦『ことばと国家』)というのである。そして、その方向を基本的に支持する府川源一郎氏によって、「(アメル先生の)姿勢を問い直そうとする読み手の構えをひき出す」ための国語教育の“実践”が行われているのだ。
 それにしても、このような作品理解が常識のようになっているとは驚きであった。言語社会学の立場が、圧倒的な力をもって私たちのあたためてきた文学作品を踏みつけているといった印象である。しかし、井筒満氏の「母国語文化論と『最後の授業』(ドーデー作)」(「日本文学」一九八三年九月)は、こうした動きをはね返すばかりでなく、この作品の本来の姿を明確にしている論文であった。


1982/11/13 221

「年若き教師」の位置について―国木田独歩『源叔父』―
H.M
 10月第一例会(10/9)で『源叔父』を検討した際、報告者のSさんが、源叔父のロマンティシズムの特徴として、過去の思い出を実践へ踏み出す契機とした点を指摘された。
 周囲の人々の嘲りをよそに、「紀州」を我が子として育てようとした源叔父の夢は無駄かも知れないと思いつつも、人間の可能性にかけるというひたむきなものであり、そこにこそロマンティシズムに値いするものがある。「紀州」を動物の次元にまで追いやってしまった母乞食や町の人々とは異なり、新しい愛と人生に全身をかけた源叔父。人間からあまりにも遠いものにされはてた「紀州」を前に、源叔父の夢は破れ、絶望のあまり縊れて死んでしまうが、彼の夢と行為のありようは読む者の胸に迫る。世間から忘れられている人々の中に、ひとりの人間 を見、それらの人々と自己を対決させている独歩の姿勢は、リアリズム志向のロマンティシズムと呼んでいいのではないか、とSさんは結ばれた。
 深い感銘と共に報告を伺いながら、私は、源叔父と対比して触れられた「年若き教師」のことを考えていた。源叔父をただ哀れとしか思わない「年若き教師」は自己の見聞・体験を美化しているのではないか、という指摘によって、私の中でひとつ整理されたものがあるように思えたのである。それは「年若き教師」形象化の意味についてであった。
 討論の中で、Tさんから、作中の教師をむしろ作者に近いものとして受けとめていたのだが、という感想(疑問)が出された。そこで私は、教師の描写には作者の自己否定があるのではないか、と発言した。“自己否定”ということについて、Aさんから疑問が出され、時間切れのままその日は終わった。私の考えは次の如くであった。@ Sさんの指摘の通り、教師の姿勢には多分にセンチメンタルな要素が含まれている。A そういう教師の目には見えなかったものが、「中」「下」で展開されているのであり、作者の明確な構成意識が感じられる。B だから、「年若き教師」の姿には作者につながるものがあると同時に、作者主体の自己否定の契機が内包されていると言えるのではないか。
 10月第二例会での再検討の冒頭、Sさんから、教師の「詩」の最後の一節を書こうとしたのが、作者・独歩ではないのか、という見解が出された。それは前回の論を修正されたもののように私には聞こえたが、そうではなかったのかも知れない。私は依然として自己の印象にこだわった。「年若き教師」の源叔父への思いには甘さが認められること、それは彼が源叔父のその後を知りうる立場になかったことによるばかりでなく、その現実凝視の質に由来するものであること、そして、源叔父の死を描いた後に、作者があえて「都なる年若き教師は源叔父今も尚一人淋しく磯辺に暮し妻子の事思ひて泣つつありと偏に哀れがりぬ。」と書きつけているところに、「年若き教師」の評価の視座がはっきりと据えられていると思われること、等々。けれども又、私の中には、教師の像イコール作者自身の過去の姿という短絡的な思い込みがあったことや、「年若き教師」が源叔父のことを宿の主人に尋ねた最初の人であった点など軽視していたことへの反省もあった。
 Aさんからは、「上」と「中」「下」との間には共通面が強く大きくあり、「中」「下」には現実凝視・自己凝視の深まり が見られるということではないか、という指摘があった。そして、徹底した自己凝視は自己否定につながるのだろうかという考えから、私はAさんに同意し、討論は閉じられた。
 家に帰ってまた読みかえした。「年若き教師」の目に映じた源叔父と、見えなかった源叔父との懸隔の大きさを感じた。源叔父の「嘆息」と「涙」に胸をしめつけられるような切なさを感じれば感じるほど、「年若き教師」の「詩読む心」の感傷性が気になってくるのである。(未完)


1982/11/27 222

『千鳥』から「赤い鳥」へ―熊谷報告要旨(10/23、11/13例会)
 それは、ぼくにはかなりのショックであった。瞬間、頭の中が痺れたように思った。
 鈴木三重吉といえば、ああ、あの「赤い鳥」の……という程度にしかわかっていなかった。彼についてのぼくのチシキがどんなにいいかげんなものであったか、思いしらされた。
 熊谷先生の話を、今、自分なりの言葉でまとめるなど、とうてい出来る仕事ではない。しかし、これは何とかしなければ――そう思って、例のS氏のノートをたよりにまとめたものが、以下の記録である。(S) 
[これをそのままの形で再現するのはウェブ上では無理。レイアウトを変えておおよその内容を示す。]

『千鳥』論から――
○三重吉、数えで24歳の時の作品である。(1906年、M39)
日露戦争(M37〜38)での戦後という時期、そういう時点でのある種の回想(それはある種のメンタリティーと言ってもいい)をしている一人の青年の夢の、かなりアンジッヒな形象化だと言っていいだろう。
○その夢は、すべての時代に通じるの夢一般ではない。けれども、そこには持ってほしい夢、そういう条件がありはしないか。――持ってほしくても持てない夢があった(芥川『仙人』)。失ってはならない夢、というものがあるのではないか。三重吉がこの『千鳥』にかけた夢、それは何か。
○『千鳥』を礼賛した漱石の視点――自然描写(自然観照)のみごとさ
○その自然をみている人の、じつはパーソナリティーが描かれている。そこに眼を向けている人、その人のメンタリティーが描かれている。
○俳誌「ホトトギス」(M30〜 子規、虚子、…)の姿勢は漱石のアマチュアリズムと一致するものであった。
○硯友社(紅葉、鏡花、…)、自然派 (天渓、抱月、…)等の文壇を越えるもの。
○その文壇が自然主義 の頂点に立った時――三重吉は成人文学から児童文学に入っていく。
○『千鳥』にみた、見果てぬ夢を児童文学(「赤い鳥」)に求めていく。
※今次全国集会の中の「文学史の中の児童文学」というテーマを思い出してほしい。(S氏註)
○しかし、『千鳥』における限界が、「赤い鳥」の限界になっている。
「赤い鳥」の限界=童心主義、〈人間みな同じもの〉
《まとめ》
1. 『千鳥』論を、『千鳥』から「赤い鳥」の運動へ、というスケールで組むことの必要。
――『千鳥』 には、少なくとも6回にわたる改稿がなされている。その改稿過程で『千鳥』の想像・虚構・典型の変容が見られる。
2. 文壇状況と漱石たちの対文壇的姿勢。
――硯友社から自然派への転換期。
――大逆事件に際して、自然派はついに無反応。漱石たちは、自己の苦悩として受けとめる。
――漱石たちの対文壇的姿勢=アマチュアリズム
3. (仮説として、三点が提示されています。)あとで。


1982/12/11 223

それなら絵になる
―夏目漱石『草枕』―
K.K
 『草枕』の最後の場面は、今度読み返してみて非常に印象が強かった。漱石は大好きで、大学一年の時、オレンジ色の新書版全集を買い込み、かなりの作品を読んだ。『草枕』も好きな作品の一つだったのだが、この最後の場面は覚えていなかった。それならあの時、『草枕』のどこがどうして好きだったのだろう。自分の読みのいい加減さにあきれる。
 『草枕』をこんなふうに読む人が居たのかとまず驚かされたのは、機関誌121の熊谷先生の媒介による「漱石は怒っているんだね、つまり」という(前田)千寸先生の言葉だった。驚いた。全くそんなふうには読んでいなかったのだ。今度の読み返しで、最後の場面が強く印象づけられたのは、こんな読み方の姿勢、構えが私の中に少しはできていたためかもしれない。
 そして今回の研究会で、最後の場面からの逆照射のような形で、この作品が見えてきたという気がする。こういう読み方はルール違反なのかもしれないが。
 一見奔放に生きているように見える那美さん、その魅力に引かれる画工であるが、そこには何かが欠けているとも感じている。那美さんは、何かに勝とう、勝とうとあせっている。画工にもいろいろな技巧で挑戦してくる。が、その那美さんの姿、行動には、どこか作られたものがある。非人情になろうとして、なり切れないものがある。その那美さんが日露戦争に出征していく従弟の久一さんを送る列車の中に、破産して満州に渡る別れた夫を見つけ、その時、見せた表情、その表情に画工は本物を感じる。那美さんが本音を出したのである。平凡な女性にかえったその時、本当に美しさが現われ、人間の「憐れ」が現われた。人間らしい人間の表情である。「それだ! それだ! それが出れば画になりますよ。」画工の胸中の絵はこの瞬間に成就した。
 「それまでの那美さんはみんなウソ! すべてウソなんですよね。そうじゃありませんか。」熊谷先生のこの言葉で二度驚かされた。そして、Nさんの「画工は非人情という言葉で、自分の感情に歯止めをかけることによって、日露戦争下のあるリアリズムをさぐりあてていく」という言葉の意味が胸に落ちた。
 それでは、この“ウソ”とは何なのか。“非人情とは何なのか。“ウソ”とロマンティシズム、リアリズムとのかかわりあいはどうなのか。
 先生のおっしゃった“ウソ”とは夢と言い換えてもいいのではないか。夢とは実践への契機を持ち、不可能を可能にすることに賭けるものである。ロマンティシズムである。「現実には壊れることがわかっている夢を求める。壊れざるを得ないというリアリスティックな認識がある故に、壊れる前にとどまってしまうのが『千鳥』ではないのか。そして、それは三重吉の限界でもある。」と熊谷先生はおっしゃった。『草枕』ではどうなのだろう。
 画工は非人情の世界を求め、それを絵にしようとする。その前に現われた那美さん、Nさんはこんなふうに言われた。「体験的事実なら絵になりそうな場面は何回もあっただろう。が、絵にならない。又、日露戦争下の庶民の現実を意識せざるを得ない場面が至る所に出る。それを絵にするために否定する。が、結局それに戻っていく。那美さんのリアリズムと言ってよいのだろう」と。持たなければならない夢を追いかけ、破れていく。が、破れ方が問題だということだろう。
 『草枕』の冒頭に「住みにくき世から、住みにくき煩いを引き抜いて有難い世界をまのあたりに写すのが詩である、画である。あるいは音楽と彫刻である」とある。「芸術は、倦怠に耐えている人が、それを支えとして生きてゆく、そういうものである。」という先生の言葉の指摘がNさん、Aさんからなされ、それが私のものとなった。


1982/12/11 224

前略、熊谷孝先生

 下のはがきは、今年の8月12日に、熊谷先生宛に出されものです。その頃、何でも、今年のノーベル賞は井伏氏になるのではないかとA新聞社がキャッチしたそうです。
 そこで、かねてから井伏文学に親しみ、また、熊谷先生の著書も読んでいた、記者のT氏が、さっそく熊谷先生に連絡し、“井伏氏 ノーベル文学賞受賞”ということになったら、その翌日に井伏文学についての熊谷先生の論文を載せたいという申し出があったということです。先生は書かないが、書くための材料だけは、と言われて、記者T氏にいろいろとお話しになったそうです(この辺はちょっと未確認)。井伏氏受賞がだめになった時点でのはがきということになります。いずれ詳しくは熊谷先生からおききしましょう。  〈ニュース部〉

 先日は井伏鱒二氏のノーベル賞の件で、見も知らぬ先生に突然おうかがいするなど、お騒がせいたし恐縮至極です。おゆるしください。
 先生のお話を元にした原稿も、空騒ぎが終るとともに幻と消えてしまいました。小説の達人、井伏氏が、骨身を削るような文筆活動を続けているさまを伝えることができたら――と残念に思います。
 一方で、ノーベル賞などは井伏文学とは本来なじまず、受賞しない方が井伏ファンにとってはかえって良かったのではないか、そんな感想も浮かんできます。  右、お礼まで。

  A新聞社会部    T.S


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