むかしの「文教研ニュース」記事抜粋 1981 *例会ごとに発行されるニュースから、部分を適宜、摘記したものです。
▼1981/1/24 191
1月第一例会 「代筆は浮世の闇」(西鶴『万の文反古』)
報告・討論に対しての、熊谷先生のコメントのいくつかを拾ってみた。S氏のノートより。
○「幽霊」をめぐって――“ゆうれい”が出てきたから、というだけの理由で、「小説」じゃなくて、「説話」だ、という見解があるが、これは極めて素材主義的な考え方である。『ハムレット』を説話文学とは言わないだろう。問題は、「出た」かどうかではなく、「出し方」である。「素材」ではなく、「虚構」の問題として考えてみなければならない。
○「説話文学」とか「小説」というものは、それはジャンルの問題であって、「価値」の問題ではない。
○出家すれば……、死ねば……、自分の犯した罪は贖える、と思っているらしい。真に生きることとは――これが問題である。
○意識せざるEgoism。――主観主義=自己中心性。本人にとっては観念と行動とは一致している。しかし、本来の読者にとっては全く一致していないように見えてくる。
○真のRialismは、真のRomanticismにささえられなくてはならない。――“美しいウソ”(民衆の願い)。
▼1981/3/27 194
信濃路から
K.K
淡々とした雪どけの水音に、信濃路への静かな春の訪れを感ずる今日この頃です。
文教研ニュースを送っていただき、本当にありがとうございました。年に一度、八王子セミナリオへ顔を出すばかりの不勉強な私を忘れずにいてくださったお心づくし、嬉しく拝見いたしました。
昨年の三月、卒業と同時に故郷へ帰ったはずでしたが、毎日が過ぎてゆくにつれ、なにかが、ちぐはぐになってゆくような感じでした。そして、その間時は、くすぶり続けたまま、相変らず日を送っております。
文教研ニュースを何度も読み返し、ふっと親友にポンと肩をたたかれたような思いでした。
ありがとうございました。私も元気でこの夏[文教研の全国集会に]参加させていただけるように頑張ります。
とり急ぎ、御礼まで。
皆さまの、ますますのご発展をお祈り致します。
(追伸) 恐れ多くも、文教研ニュースを「親友」などと表現いたしましたことをお許しくださいませ。「神様」と書くべきでした。
大学生から
突然お便り申し上げ恐縮です。
私はI教育大学にて教育学を専攻する学生です。熊谷先生などの著作を読み、文学教育研究者集団の活動に興味を持ったのですが、最近の活動状況、内容などがわからないので、教えていただきたく思います。
できれば機関誌「文学と教育」の最近刊のものを購入したく思っております。
※返信はがきを添えますので、ご指導ねがいます。
文学教育の今日的課題 〔2月第二例会、第一部 発言スナップ〕
★“校内暴力”、それにはまず生活指導。文学教育はそれから!! ……いったい、こんな文学教育って、どんな文学観から出てくるのだろうか。透谷は、文学に自己の生き方を見つけた。(I)
★“校内暴力”→生活指導、それは「管理主義」。……飼いならされようとしている教師自身の自己変革こそ必要ではないか。(N)
★「自己変革」……。私の中にある“教養主義”、それを常に否定しながら、自分がどこまで本物になっているのか、そのゆれ をいつも感じている。(S)
★それがどんな現実であろうが、変革する方法がないのではない。着手していないだけだ。「こんな生徒だからこそ、これを読ませたい。」……そういうことが、ないわけではないはず。(熊谷)
▼1981/3/27 195 [前号と同日発行]
二十一周年 文教研誕生を祝う会(2/28)
★〈A.Y〉今ここに「文学と教育」5号の一部コピーがありますが、これは貴重な文献です。教師の仕事としての、すばらしい読者を育むということは、まず自分自身がすばらしい読者になること。創立時(1960年)、戦後の民主主義の基盤が失われていく時点での、わたしたちの生き方がそこにはあったのです。
★〈N.T〉「表現」と「理解」を分離した形で把えている「指導要領」に対して、一貫した批判活動をしてきました。今、ファッショの動向が急速にすすんでいます。かつて、「言論抑圧はこんな形で……」にあるようなたたかいがあったが、今、形を変えて迫ってきています。
★〈S.S〉その頃「二十坪の教育論」というのがはやった。教室から巣立っていった若者はどこに連れていかれたか……。
★〈M.M〉自己変革しないで、生徒のマイナス面だけをみているような自分になっていはしないかと自戒している今日この頃でございます。
★〈A.H〉熊谷先生から学んだものを、そのすばらしいものを、ほんとにわかったうえで生徒たちに分ちたい、そう思っています。
★〈M.K〉職場は指導法の研究ばかりです。それに対して自分が切込みができなかった、そんな一年でした。私の来年度の課題は抵抗の仕方を身につけたい、そんなふうに思っています。
★〈K.T〉たくさんの“力餅”を文教研からもらっていますが、中学を1、2、3年、また1、2、3年というサイクルでやっていると、どうもマンネリ化してくる、そこの所を何とかしなければと考えています。
★〈熊谷〉芭蕉は寿貞との間を引裂かれ、引裂かれたことでそこに封建制の暗黒性、非人間性を見た。主体的につかみ切った、そこに闘いの決意を持った。
★〈S.T〉文教研、まっとうしなければね。
★〈熊谷〉現象面でなく、本質をとらえること。文学精神で子どもたちに接してこそ本物ということではないか。60年2月、文教研結成。その頃皆さんは何をしていらっしゃいましたか。今の時点でもう一度考えてみませんか。人数がふえても、ふやけないように……。
- 熊谷 47歳
- F.T 32歳――毎日デモに行っていた
- A.Y 29歳――大阪で教師
- N.T フランス [留学、海外勤務などではない。当時フランス・デモというのがあった。]
- H.M 小4年
- T.M 小2年
- T.K 21歳
- I.M 小4年
- N.K 小3年
- S.F 愛知で教師、2年目
- S.N 中3
- A.H 中学生
- M.K 大学1年
- K.T 小6年
- S.S 30歳――(子どもが廊下で“安保ゴッコ”)
- S.T 高1
- S.R 小学生でした
- Y.H H高校に勤めた年
▼1981/4/25 199
準備合宿 7月26〜27日
例年7月末から8月にかけて、4日間をとってやっていた研究会、いわゆる特別週間をなくし、この合宿でそれに代えようとするものです。参加の態勢をつくるために、全力をつくし、今からシンペンを整理しておきましょう。
[全国集会直前の集中的な準備を、はじめて合宿の形で行うことになった。]
▼1981/9/12 200
新年度 八月総会 委員長発言から
昨年の九月総会は緊張感に満ちた総会だった。
あの緊張感をどれだけ持続できたか。その時に確認されたことを、今ここで思い起してほしい。
まず、例会参加姿勢について。
1.もの を言いに来る会にしよう。――私の発言が例会の水準を下げる……、その配慮は善意かもしれないが、参加姿勢に問題がある。
2.気どらない会にしよう。――準備不十分だったら、ここまでしかできなかった、ということが言えるような会にしよう。
3.例会毎回、報告者のつもりで。――毎日、何時間かを文教研の学習に当てられるよう、シンペンを整理して取りくもう。
4.準備、あるいは研究の分野が部分主義にならないように。――文教研の研究はトータルなものだ。全国集会直前になって慌てないように。そのためには、例会に必ず出席を。
▼1981/9/26 201、202、203 [同日発行]
新年度第一期 研究プログラム―課題と展望―
報告:N.T、Y.A
T.“文学的イデオロギー概念”の究明とつかみ直し、という統一テーマで取り組むのだが、次のような課題をもって臨みたい。
@ 『文体づくりの国語教育』な4冊の文献で研究を進めるが、出来上っているものをナゾルのではなく、文教研理論の組み立て直し、「主体化」へ発展させていくのである。
主体化ということで、例えば、
(a) メンタリティー←→プシコイデオロギー・文学的イデオロギー←→イデオロギー
このような構造の中に、
「芸術的イデオロギー」概念を導入したらどうなるか、どう関係づけるか等の課題あるだろう。
(b) 会員個々人、作家論、作品論の理論的構築が出来るだろうか。自己の現在の実践の問い直しの中から、文教研理論の主体化を図りたい。
この中で、中心になる概念は「文学的イデオロギー」である。これを中心に、虚構・典型・想像のとらえ直しをしていく。これがTの@の意味である。
A そうした主体化の過程での私たちの思考の形式や認識形式、それが要求する文学史領域へのアプローチとリサーチという課題がある。これは前年度もすでに、近代文学系譜の本流としての教養的中流下層階級者の文学系譜を、近世に向けてさぐるというとりくみもしてきた。こうした形での研究領域の拡大が今後も進んでいくだろうが、その展開の中軸となるのは、あくまで「系譜論」であることを確認したい。
U.そこで、「系譜論を軸とした文芸認識論の主体化」が課題となる。最初に、1947年熊谷論文『不可知論と芸術学』(「文学」'47.4所載)で基本的観点を学ぶ。それに基づき、つづいて『芸術の論理』ととりくむ予定。
〔オリエンテーション 熊谷孝先生〕
1.企画の動機
会員がもっと自由に、しかも研究に対してきびしい姿勢で会を運営していってほしい。
例えば、9/10付朝日新聞の報道した「中国指導部による“苦恋”(白樺氏のシナリオ)批判」など、文化抑圧の恐るべき事態であり、言うべき時期など配慮すべき点はあるにしても、黙って見過ごしには出来ない。文学関係者はこれをどう考えていくか、検討すべき課題である。また、9/6付朝日新聞日曜版における谷川俊太郎氏の詩教育批判も、ニュース部、編集部で取り上げていくべき問題であろう。こうした点、これまで手薄だった。別の点で言えば、全国集会での講演レジュメ(「近代文学における異端の系譜」)のp.3第2表の表題は、婦民講座の時のレジュメと大きく異なっているのだが、会員からの批判・見解は示されなかった。機関誌117号p.14の芭蕉の句の押え方にも、婦民講座からの大きな発展があったと思うのだが、これも同様な扱いであった。
- いるかいないか/いないかいるか/いるいるいるか/いっぱいいるか/ねているか/ゆめみているか(『ことばあそび』から)
- こういう詩が教科書に採用されたのは画期的だけれど、指導書には『「いるかが何匹いるか数えてみよう」となっている。ぼくは、まさかウソでしょう、と……詩の教育って絶望だなあ。(谷川俊太郎)
- 「地主富農経営の典型的形態」(婦民)
- ⇒「地主富農経営から寄生地主的経営への過渡的形態」(全国集会)
そこで、今回の研究プログラムなのである。こうしてた展開を主体的、自覚的につかむために、プログラムの中に組み込むことが必要と考えた。
2.プログラムに即して
この4冊のテキストも、批判し、主体化してほしい。“テキスト(教科書)で 学ぶ”のである。“テキストを 学ぶ”のではない。
そのためにはどうするか。
例えば「場面規定」であるが、どういう時点で、どういう必要から成立したことばであるのか、学び直すことで主体化するのである。ある概念にあることばを与えたものであるが、その時点の必要性からとらえ直すのでなければならない。
「場面規定」の必要は、弁証法的唯物論を自任している人たちが、文学・芸術に関しては、なんのことはない素朴実在論であって、深さにおいて、存在論に太刀打ちできない現実を眼前にした時に生じた。素朴実在論否定が存在論にすべることのないよう、その歯止めとして「場面規定」が導入された。
ある時点の、ある必要から設定したその概念をつかみ直し、今やその必要性から、必然性をさぐるのである。
3.『不可知論と芸術学』について
1946年冬、2.1ストを組む闘いの最中に執筆。
1947年1月31日、マッカーサー指令でスト中止。
嵐の時代であった。「骨を埋めたかったが、うめさせてくれなかった」「東北の山村の学校を去って、東京へ帰ったのが、その年の冬であった」。(オリエンテーション終り、文責 ニュース部)
★A.Yさんより、
3.の補足の意味で、小牛田農林時代の熊谷先生とその時代状況が紹介された。
ドロボウ二人と格闘して軽傷を負ったエピソードをまじえ、2.1スト中止の時点――嵐の時代を語る。
「2.1スト中止の時、熊谷孝氏の声涙倶に下る演説は感動的であった。」(小牛田農林史より)
『不可知論と芸術学』執筆の時期は、日本の民主主義が私たちのものになるか、圧しつぶされるかの岐路に立つ、嵐の時代であった。
〔参考 1〕
●1947(S.22)年4月 『不可知論と芸術学』(「文学」)
(1954年 「サークル広場」)
●1958(S.33)年10月 「文学と教育の会」(文教研の前身)
〈指導要領の改訂/明確な反動化の第一歩〉
●1960(S.35)年2月 文教研スタート
※大阪の高校で勤務のA.Yさん、特急列車で上京、例会に出席。文教研の“初心”がここにある。
●1963(S.38)年4月 『芸術とことば』 (はじめて第二信号系理論を取り入れる)
【第二信号系理論】〔参考 2〕
- @ 第二信号系理論それ自体は生理学である。大切なものではあるが、文学に直接役立つものではない。波多野完治氏、乾孝氏らにより、コミュニケーション理論への媒介、有効な概念への組みかえが行われた。(しかし、それは「概念」の段階にどどまる。)
- A 文学(伝えあい)――“形象コミュニケーション”への媒介に、この時期、文教研は全力を傾注した。
- B (さらに、それを)イマジネーション理論に媒介。
一九八一年度 第一期 研究プログラム(「文学と教育」118 より)
《統一テーマ》文学的イデオロギー概念の究明とつかみ直し
今年度の課題は、大づかみにいうと次の二点である。
@ 私たちが現に用意している、さまざまな基本概念(=思考の形式)の究明とつかみ直し、その主体化。
A そうした主体化の過程の中での、私たちの思考の形式や認識形式が必然的に要求するところの文学史領域へのアプローチとリサーチ。
この二つの課題の統一的視点が、文学的イデオロギー(その概念の究明とつかみ直し)ということである。
《第一期の課題》系譜論を軸とした、文芸認識論の主体化
上記、@Aの課題を、文芸認識論を軸として考察する。
@『文体づくりの国語教育』('70.6)、『芸術の論理』('73.5)、『井伏鱒二』('78.6)、『太宰治』('79.6)の徹底的な読みかえしを通じて、文教研理論を確認し、深め、主体化する。
A 系譜論の立場から、「文学史の中の近世と近代」を考えつづけ、その本流としての「異端の系譜」を明らかにしていく中で、主体化された文学史の論理をつくり出していく。
▼1981/12/12 204
佐藤嗣男論文(機関誌118所掲)を各方面に送付
文教研常任委員会は11月28日、機関誌118掲載の佐藤論文を関係各氏・機関に送付することを決定した。送付対象は作家、評論家、出版社など百余に及び、12月初め送付を完了した。
尚、同封した添書きは次のとおりである。
殿
佐藤嗣男「文学が文学でなくなる時―吉行理恵『小さな貴婦人』論―」掲載の「文学と教育」118号(文学教育研究者集団・機関誌)を贈らせていただきます。
文学教育研究者集団は文学教育に責任を持つため、自分自身が文学のわかる人間になろうと研究をつづけている一民間研究団体です。“文学史を教師の手に”するために、近世から近・現代文学の研究に、二十数年ほど継続的に取り組んでおりますが、当然、今日の文学の現実に無関心ではおられません。
私たちが生きている今日をどうとらえるか、文学はそれにどうかかわるか、率直な意見交換の中で、今日の文学の課題も明確になると思い、その一環として、第85回芥川賞受賞作『小さな貴婦人』論を試みたしだいです。
ご高覧いただければ幸いです。
1981年11月25日
文学教育研究者集団 常任委員会
これに対し、早速T氏(近代文学研究者)から、手紙が寄せられました。大体のところですが紹介いたします。
……このたびは「文学史の中の井伏鱒二と太宰治」と「文学と教育」118号をご恵投下さり、まことにありがとうございました。文学教育研究者集団の名はきいておりましたが、不勉強で活動の実体も機関誌のことも知らずにおりました。
二冊を拝見しまして、熊谷氏がすぐれた文学理論家であられることは承知しておりましたが、会員諸氏が文学研究をきわめて高度におしすすめる一方で、それを教育の実践と結びつけておられる様子がうかがわれ、正直に申して驚いております。その内容は、たとえば今日の日本近代文学会などの凡百の論の水準をはるかにぬくものであると信じます。
「文学が文学でなくなる時」の御論も拝見。「小さな貴婦人」は小生読んでおりませんが論者のお立場はよくわかります。……
白秋についてのご論をはじめ、「倦怠」の問題について、ねばり強い追求が行なわれていることに、大いに刺激を受けました。また、会員皆さんの特徴として、文献的書誌的調査をふまえた理論の構築という態度が感じられ、特に井伏研究における業績は目をみはるものがあります。……
▼1981/12/26 207[掲載内容に合わせて、号の順を入れ替えた。]
10月第一例会総括
H.S
『芸術の論理』をテキストにしての第一回目の例会は、「主題」についての話題が中心だったので、それを自分のわかる範囲でまとめてみたい。
さて、ぼく自身もあの「非文学的な文学教育」を受けてきたもので、あの漢字二字で主題を言え式のやり方に侵されて、あまり主題というものを重大に考えてこなかったが、先の例会での論議をきく中で、この問題は文学の論理の根幹にかかわるものだということが自覚されてきたわけである。
まず、「主題」概念をどうおさえるか、だが、「作家の表現意図が作品の主題だ」ということだと、結局「追体験による主題把握が作品鑑賞の目的」になってしまうということだ。これでは文学を文学として鑑賞したことにならないし、読者の主体のかかわりも、なんら存在しないということである。ところで、作家の送り意図はその作品の送り内容として現れているわけであるが、あらゆる場合において、その送り内容にに対しての受け内容は、読者の理解した限りでの受け内容であり、そこに送り内容に対する批判のモメントを含んでいるのである。したがって、作家の送り意図(モチーフ)を主題とイコールで考えることは正しくないといえよう。
言葉を重ねるようだが、読者の鑑賞過程に即していえば、「まず鑑賞は自己の反応様式の想起に始まり、そこでその作品の表現がわかりうる条件が成立し、やがて〈わかった〉という新しいイメージ体験において、新しい反応様式が作品形象に媒介されて生まれるという状態、状況」とあるように、こういう鑑賞体験が成立して初めて主題概念も積極的な意味をもってくるのだといえる。主題について指導する場合、単に概念的にことばをまとめたり、素材主義的に取り出したりするのではなく、あくまで読者の主体的な読みを追求し、そのダイナミック・イメージによる感動の中で、主題をつかませることが真の文芸認識論の上にたった主題なのだと思う。
「主題」は一般的な規定に従って言うと、「素材とともに与えられる作品の内容的統一の契機」であり、『芸術の論理』では「――統一の契機としての思想内容」というように、概念内包が発展的に組み替えられている。そして、その主題概念に立つ、読者の鑑賞体験は「そこに与えられた素材に従って、自我の感情を組み替えはぐくみつつ、その内容を再構成、再創造する形で統一する体験であり」又、「バクゼンとした形でしか意識されていなかった、その事物(素材)に対する自己と感情にテーマを与えることでくぎりをつける体験である」と、読者の内面に即して主題概念がおさえられることによって、僕にはいっそう明確になったように思える。
▼1981/12/12 205[掲載内容に合わせて、号の順を入れ替えた。]
10月第二例会総括
N.A
10月第二例会(10/24)は、第一例会にひき続いて、『芸術の論理』をテキストとして、〈文芸認識論――その基本概念〉をテーマに研究会がもたれた。報告はS.T氏、司会はA.Y氏。
報告 (1) 『芸術の論理』という本は、準体験理論を中核とした芸術現象の特性の解明を基本的な課題としていること、またその追求は、鑑賞者(創造の完結者としての鑑賞者)の視点からの追求であることを大きな特徴としている。
「芸術の形象としての完結を実現するのは受け手の鑑賞においてである」(p.4)とう鑑賞者の明確な位置づけ、及び作品のもつ未完結性という性格。また、科学とは違って、芸術の認識は、ある普遍性をもった現実像――典型を主体的・実践的に探るという特性をもっている。先回、話題となった主題論もこの枠組の中で考えあいたい。
報告 (2) S.K.ランガーの芸術論――そこからの発展と深まりを追う。
@ 芸術とはアピアランス(p.55)――作者の内部対話(内なる鑑賞者との対話)。そのような二重構造をもったアピアランスなのだ。
A 芸術は感動において認知できるように創造されているもの(p.55)――受け手の問題。受け手の位置づけかたの問題。場面規定論の導入による大きな展開と深まり。
B ランガーの限界――歴史社会的把握が弱く、ダイナミック・イメージという概念は、未来の先取りという実践的な発想を欠き、典型概念に結びついてこない。ダイナミック・イメージを準体験理論で洗い直し、組み替え、また場面規定論で裏づけていく時、芸術の原点は典型としてのダイナミック・イメージの造型である、と言えるであろう。
熊谷先生からの提言
(1) 「典型」という訳は悪訳ではないか。Vorbild は「先(vor)取りされた形象(Bild)」の意味であって、未知なるものとのとりくみ、格闘において創造される像。文学、芸術、科学もまた未知だからである。「答がでているものをやる必要はない。」(太宰治『葉』/「算術」を想起せよ。)
(2) 結節点(「日常性俄然生活過程の結節点」p.19)をどう押えているのか――ヘーゲルは、量から質への転化の境界を「結節線」と呼んだが、レーニンはそれを批判的に継承して、理論が実践に転化していくポイントをさす概念として、「結節点」を使用。
以上をふまえた上で使用された概念であったこと。
(3) サルトルをくぐることで(『文体づくりの国語教育』p.55)戸坂潤の整理「文芸は実在の認識」の欠落面を補った。――「文学の認識の特徴は想像的意識による実在の認識」、しかも“ことば”の加工による想像的認識である。
(4) 解釈学――なぜこれを否定するのか。批評と変革の意識のない追体験理論の構造と本質の解明。それに足をすくわれている現実の「進歩的教師」の問題として提起。
討論から
(1) @ 主題=素材、表現意図etc.、それらは、文学の特性をはずした把握である。
A 素材とは?――あらゆるものは、我々にとって現実としてある。それを必ず感情ぐるみにつかんでいる。現実像としてあるということは、既に、主観によって加工された事物である。それを素材というのなら、素材主義とは主観主義のことだ。
B 進歩的素材を扱った作品は進歩的作品だという評価は狂っている。芸術は、典型の造型という一点に評価の基準を置いている。
C 作品の完成度に比例して、素材(文学の場合は言語)は消えていく。(文体へ定着)
(2) 結節点――準体験による自己の日常性のつかみ直しの問題。結節点としての日常性の位置づけ。
(3) 典型とは、未知なるものをつかむための現実像・人間像(範型とは全く違う)。虚構とは典型への手段。
以上、こぼれや自分なりの詰めの足りなさがたくさんありますが、これで一応ノルマを果たしたことにさせていただきます。
▼1981/12/12 206[前号と同日発行]
署名の訴え
自民党の“教科書攻撃”に対して、今、民教連が署名活動を展開しています。文教研もこれに参加することを常任委員会で決定しました。(11/28)
目標 1000……30〜40/1人
▼1981/12/26 209[掲載内容に合わせて、号の順を入れ替えた。]
11月第一例会総括
M.K
報告 (1) 文学史の課題と方法意識に即して
@ 〈文体の変革・創造の歴史としての文学史〉(1968.8)から
〈現代史としての文学史〉(1971.1)へ
・文学の歴史は文体の歴史である。文学史とは、それぞれの文体において、人間的感動が保障された人間の現実認識の歴史、人間の精神生活の歴史である。
・現代史としての文学史は、現代をどう生きるか、現実をどう認識するかという視点から、人間精神の系譜の問題としてとらえた文学史である。熊谷孝著『日本人の自画像』の「あとがき」に見るように、文学史と文芸時評との統一は、現代史としての文学史という視点に立つ自覚的方法である。
A 〈文学史の方法意識について〉
・文学史的に普遍性をもった芸術概念、文学概念をめざして、ダイナミック・イメージの概念を組み替え、文学史の方法意識へ組み込む必要がある。
・文学史は、本来の読者を中心に構想し直されるべきである。
・真に生きた文学史は、「別個の世代の文学的個性による文学的イデオロギーの発展的受け継ぎ現象」として、組み立てられるべきである。(「文学と教育」109)
報告 (2) 芥川文学に即して、創造主体の内面のありようの系譜論的事例を明らかにすること。
・作品の創造主体としての芥川の、「作家の内部の主題的発想の展開」を系譜論的に追跡。『芸術の論理』の作家論と作品論に賛意をこめて報告。半面、吉本隆明、寺田透らの“絵解き”的な作品論、作家論は、文学の方法意識のありように問題がある、と批判。
・鴎外的世代の文学的課題の発展的受け継ぎ。
@反近代主義の路線
A教養的中流下層階級者の視点の獲得
B「あそびの精神」、「面白味のある人間の造型」(鴎外)と、「全円的な人間把握」(芥川)
討論から
1) 系譜論に関して
・芥川の作品を系譜論的に位置づけるのに、全部をさかのぼって、そこに原点を求めるというやり方は違う、ということ。手習い草紙(ex.『義仲論』)と原点とは別。
・系譜論というのは、世代論のことでもある。今日、自分がどう生きているかということで、何を受け継ぐべきかを決める。現代を凝視しようとしている時、受け継ぐべきものが見えてくる。まさに、現代の問題である。『されどわれらが日々――』(柴田翔)が、自分にとって、どういう意味があるのか、厳しい問いかけがなされた。
・受け継ぐ、ということは、芥川世代が課題にしていたことを、一歩越えるという格闘があってのことである。自分より前の文化との格闘である。受け継ぎ主体の現実認識があいまいだったら、三島文学にみるような、おかしなものになる。
2) 創造主体の内面のありようの系譜論的分析
・「転向」を文学の問題として考えた時に、どういう系譜論的分析がなされるか、保田、三島、鶴田、清水、太宰が問題になる。
・本来の転向は、太宰に、ある典型をみたこと。太宰こそ本来の転向体験世代。内心(精神)の転向はしていない。
・歴史的な波長の重なりとしてみたとき、まさに否定さるべき系譜。
保田(転向問題の体験的世代、戦争体験世代)
三島(転向問題の無体験世代、戦争体験世代)
戦後世代(戦争無体験世代)
・鶴田知也の場合
「作者の眼は、彼等のそうした感傷をつき放してまばたき一つしないで、彼等の滅びの姿を凝視している。……感傷がないのではなくて、それを抑えているのである。自分が、自分たちが滅びたくないからである……」(『日本人の自画像』p.223)。私たちは『コシャマイン記』に、醜悪な現実を冷徹に見すえる作家の姿勢を見る。そこに実現されたダイナミック・イメージは、保田らのそれとは違う。
▼1981/12/26 208[掲載内容に合わせて、号の順を入れ替えた。]
11月第二例会総括
M.M
11月28日の例会は、作家論の基本的視点を井伏文学に即して明らかにしていく、というテーマで、二つの課題――@「文学史1929年」説の検討、Aここに示される作家論の視点・方法は他の作家の場合にも移調可能か――をめぐって、討論が行われた。テキスト『井伏鱒二』、総合司会はN、Y両氏。
本題に入る前に、文部省による最近の教科書攻撃の話題が司会者から提起され、井伏の作品ですら なのか、井伏作品だからこそ なのか、等をめぐって、情報や意見の交換が行われた。文学の論理、教育現場の状況を無視した攻撃に対して、熊谷先生から――文学を守る闘いは人間を守る闘いである。今こそ批判性を堅持した抵抗の運動を――という提言があった。次いで、課題の討論に入り、『井伏鱒二』そ読みかえして各自がつかみ直した問題を出し合った。以下は、不十分ではあるが、当日の発言の摘記である。
@ 『井伏鱒二』は読む度に楽しくなる本だ。これ自体が文学作品である。自分にとっての文学を明確にした上で(p.212)、何故井伏の文学が必要なのかを追求している。そこに文学へのアプローチの方法が示されている。
A この本では“人間=世代的人間である個”と捉えられている(「人間の発想、世代的人間である個人の発想……」p.87)。“私の中の私達”という言葉がこの指摘でふくよかにつかみ直された。フッサ−ルの相互主観性という概念が発展的にうけつがれているのを知った。相互主観性のダイナミズムが作家の内在的発展として文体 を生む。文体的な意味からの井伏文学の起点は『朽助のいる谷間』にあり、後の作品は、そこを起点に文体の内的発展として築きあげられたもの。
B ここに示された作品論の視点・方法は、文学的イデオロギーとしての認識の系譜を明らかにするための基本的立場を問う時に確認できた。つまり、文学史の縦軸と横軸をかみ合わせた時に、「文学史1929」説が妥当なものとして理解できた。昭和四年という時期のもつ意味が、井伏がプロ文学に奔らなかった事と共にクロースアップされてきた。と同時に、日本の歴史が後に1936年という決定的な段階を迎えなければならない必然性がみえてきた。
C 1929年説は、熊谷先生の膨大な鑑賞体験に裏付けられた提起であることに気付く。同時期・同世代のプロ文学との関連でみると、「形象的対象化の極致」という指摘がうなづける。「作家は万事お見通し」ではなく、プロ文学のように社会科学で探究された真実を、類型化した人間の真実として描くのでもない。『朽助―』では“私”の設定に意味がある。それが、人間を普遍に通じる個として、内側から描く事を可能にしている。人間の感情やメンタリティーを描ききる姿勢に、井伏文学の独自性がある。
D 普通なら、すくい上げる事もできない、疎外され尽くした庶民の、声なき声が“私”を通す事で描きとられている。対話の実現という意味で井伏文学に止まらず、近代文学のエポックを成している。
E ここになされた作品論の基本的視点・方法はきわめて有効。他の作家への移調可能。文学史の研究方法、作家論の方法はこれしかない。この方法で一貫した時に、文学史の再構成が可能になる。
〈熊谷先生からの提言〉
@ 文学らしい文学における人間は、世代的人間である。
A 井伏文学の成立を『朽助のいる谷間』に求めた提言は、強力な主張をふくんでいる。1929年に確立した井伏の構えは『炭坑地帯病院』『さざなみ軍記』『多甚古村』に進むにつれて徹底する。が、後の作品は『朽助―』や『炭坑―』の、狭い意味での方法とは異なる。その問題への注目を。
B 「転向」という言葉(概念)はマルキシズム以後、昭和八年辺りから一般化した。インテリ・労働者・農民の実感がマルキシズムを媒介することで明確化した。が、権力の圧迫で心ならずも、マルキストでなくなるという精神のあり方を言う。のちには共産主義・共産党の問題になる。
透谷の抵抗は何に対するものか、発掘されつつある資料によって検討を。芥川に、転向はない。
井伏は文学こそ政治と考え、ゆがみない政治路線を歩んだ人。その意味で、透谷と共軛性をもつ。
他に、井伏世代の転向の問題、及びそのうけつぎ、「来無精」(S.3)、「贋造紙幣」、狂言回し、典型概念、資料主義、井伏の作品に感じるとまどい等々、ゆたかな問題提起がなされた。
‖頁トップ‖「文教研ニュース」記事抜粋‖1980年‖1982年‖研究活動‖