むかしの「文教研ニュース」記事抜粋 
 1974        *例会ごとに発行されるニュースから、部分を適宜、摘記したものです。

   
1974/4/27 12[前年9月、年度替り以降の号数]

〈5月例会の研究プログラム〉について
 4月第一例会でおはかりした〈5月例会の研究プログラム修正案〉を、その後、さらに、常任委員会で検討を加え、次のような成案を得ましたので、ご報告します。

【5月 月間研究テーマ】
〈十五年戦争下に置ける文学的抵抗〉という視点からみて、太宰文学はどういう評価を受け取ることになるか――について考える。

【5月第一例会 分担課題】
1. 太宰のサイド・ワーク(エッセイ他)を、その小説作品(全集1,3,5巻)につなげながら、この作家に固有な発想法・語り口・文体の基本的性格をつかむ。そのことで、太宰文学の抵抗性を検討する。
2. 上記1の作業の中で、この作家の主体内部における現実認識、文芸認識の深まりをつかむ。
3. 5月第二例会への展望を用意する形で、次の課題にアプローチする。
(課題)戦争史と戦後史との統一的把握の視点を、どこに(何に)求めるか
1)理論的と理論信仰的と/ 2)転向概念と抵抗概念と/ 3)文学史における戦争下と戦後――その結節点を何に求めるか。

【5月第二例会 分担課題】
1. 現象的事実にかえっての問題の再整理を
1) 非転向者の文学――その戦中の戦後(百合子を中心に)
2) プロレタリア文学の私小説的性格(多喜二を中心に) 
3) 転向文学という名の、後期プロレタリア文学――その私小説的性格(たとえば藤沢恒夫などの場合)
4) 後期プロ文学としての歴史小説(橋本英吉『系図』他)
5) 後期プロ文学の種々性と終着点 @島木健作 A村山知義・藤森成吉他 B伊藤永之介
6) 風俗小説派生の必然性 @いわゆるブルジョア文学の側から A転向文学の側から(武田麟太郎)
7) 風俗小説の変形としての兵隊物、農民物、産業戦士物
8) 「現実」派にみる転向の様相
9) 「人民文庫」派にみる転向の様相
10) 完全転向者の文学(論)――そのプロセスと終着点(保田与重郎、亀井勝一郎の場合/「現実」と「日本浪漫派」と)
11) 転向文学(者)批判と、個我拡充の主張――石坂洋次郎『麦死なず』から『若い人』へ
12)  「人生いかに生きるべきか」の文学――山本有三『真実一路』から『路傍の石』へ
13)  わが道を往く(時局無視派)――中島敦、堀辰雄、牧野信一、石川淳、井伏鱒二、嘉村磯多、石上玄一郎
14) 太宰治 @太宰における転向の特殊な意味/A天皇と太宰/B天皇制と太宰/C市民的世界観と文学的世界観
2.十五年戦争下における文化弾圧の実態――太宰作品の場面規定のベースを探る


1974/12/7 2[9月、年度替り以降の号数]

11月第一例会 太宰治『惜別』 個人レポート
T.M
 ○×教育の成果、みごとに発揮して、登場人物をことごとく“いいモン”“悪いモン”にふるい分け、レッテル ベタベタと はりつけていた私にとって、『惜別』のナレーターや周さん、藤野先生はみな“いいモン”でなければならず、ところどころ目につく不都合な箇所(国体の自覚、天皇親政……等々)は黙殺していたのである。ひいきの訳者のトチリを見て見ぬふり、好きな女性はアバタもエクボといったところだったのだ。
 「+も−も含んでいる人間像、生きた人間としてとらえることが必要。それ自身、未分化であるが、ある方向にむかって統一されている。」との指摘はありがたかった。ハッとさせられた。“悪いモン”の津田クンの“カワユイ”一面、ある可能性もすっぱり切りすててしまうところであった。
 今後、小説を読む時の大きな前提を勉強させていただいた例会だったと思っている。

I.M
 『惜別』は非常にむずかしい作品だと思う。少なくとも、善玉悪玉的分裂主義的な読み方をしていると、作品のインプリケーションをつかむことは全く不可能になる。前の例会に参加し、そのことを痛感させられた。
 熊谷先生の未分化の統一という指摘は、ぼくに分裂主義的作品理解を克服する方向を明確にしめしてくれた。
 この作品に描かれた人物は、内部に様々な矛盾を含みつつ生きている。重要なのはその内部にひそむ様々の要素が、どのような方向に統一されているかを見きわめることなのだ。たとえば、周さんのイメージにしろ、それを実際の魯迅と違うからだめだ、といって否定するのはナンセンスなのであって、ここに描かれた周という人間が混迷の中から文学を自己のささえとしてつかみとっていく過程が、この作品本来の読者に何を喚起したかをみることが必要なのだ。そういう視点にたった時、周さんの孤独が本来の読者の孤独につながるものとしてつかめ、また「私」がそうした周さんを太平洋戦争末期の時点でなぜ語っているのか? という問題も明確になってくる。
 以上、一応のまとめだが、ぼく自身、熊谷先生の指摘を作品に即して、十分に具体化していない。これからは『惜別』は歴史小説か? 『惜別』とナショナリズム等の問題を軸に、この作品にアプローチしてみたい。


1974/12/1 4[前号、前々号と同日発行]

11月第二例会・要約
“周さん”の「日本観」(『惜別』)――その捉え方と捉えなおし方――
                        (ページ数は筑摩書房・「太宰治全集第7巻」)
 周さん自身、日本に清国留学生として来た時には、「日本」を「合理主義的な西欧化の方向で捉えていたのだろう」(Y.A)。“杉田玄白”たらんとした周さんは、とうぜん日本を西欧の医学をてっとりばやく学ぶ場として選んだ。ところが、そういう眼で観ていた「日本」に実際来てみて、考えていたものとは違った「日本的」なものを次々と発見していく(※朝日の中のたすきがけ)。そして、自分が生まれ、住んできた国、清国の状況と対比しながら、より一層、はっきりと「日本」そのものの捉えなおしが周さんの名かで行なわれていく。
 「周さん」像をはっきりさせていくときに、これは、どんな場合でもそうだろうが(※『律子と貞子』)、一面的・固定的な把握に陥らないで「統一的」な観点に立つことが大切ではないか、という点がまず一つ。
 「日本には国体の実力……」(p.226)、これは周さんの往った言葉である。「いったい、これはどういう方向で受けとめたらいいか」(T.M)という問題から、いろいろ討論が発展した。
 この『惜別』の舞台は確かに日露戦争当時ではあっても、これは太平洋戦争下の国民感情で描かれているといっていいだろう(※共通確認)。だが、周さんが「国体」と言ったから、それは、すぐに、「民族エゴイズムとしての国粋主義」(※用語整理 熊谷チューター)と、ストレートにきめつけてしまうのは果して正しいだろうか。「確かに体制的な言葉ではあるが、インプリケーションによる理解の仕方が大事ではないのか」(N.A)、「民族意識と言っても、そこには、それがどっちに向いているそれなのか、ということが問題である。周さんの全体像から捉えていかなくては」(S.T)。
 いろいろ意見が出されたが、熊谷チューターの方向付けとして「“愛国”と言った場合、本来、国の未来にかかわるものへの愛のことであるはずだし、また、母国語文化への愛であるはずである。この作品には未来に向けての模索、国民的連帯を求めての苦しい模索がある。このような苦しい時代に“個人的エゴイズムとしての近代主義的個人主義”(※用語整理 同前)にすべらず、“文芸”に眼を向けていった周さんの姿勢が生み出されたのは、やはり、中流下層階級者の視点に立ちえたからではないのか。」最初に指摘したN.Tさんの発言から、このようなチューター発言があった。A.Y、S.Mチューターからもこの点についての指摘がなされた。
 今まで、三回の例会で『惜別』を扱ったが、「ここまでは、いわば地ならし。これからといった感じ……」というのが熊谷チューターの中間総括。


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