むかしの「文教研ニュース」記事抜粋 
 1973        *例会ごとに発行されるニュースから、部分を適宜、摘記したものです。

   
1973/2/3 5[前年9月、年度替り以降の号数]

第22次日教組全国教研 参加
 全国の多くの仲間達の参加により、国語分科会の討議を、ゆたかに発展させるために努力してきました。ことしの特徴は、東京、神奈川、京都、大阪、愛知(私学)から、協力に総合読みの主張がうちだされたことです。
 段階読みでは、感動の持続性が保障されないのではないか、という批判に、何ら納得のいく答は得られませんでした。 ただ、助言者や司会者が、すべて段階読みの提唱者ないし支持者なので、運営や速報に私たちの主張が十分に反映されず、ことしも残念な思いをすることが、多々ありました。
 なお、「母国語」とか「文体」の概念が浸透しつつあるのも、ことしの一つの特徴です。“文体のある文章を――”というのが、教材選択の大きい視点になりつつあります。
 あと、ひと押しです。来年は、もっと多くの文教研の仲間が全国教研に参加したいものです。今から、一年計画でとりくみましょう。
 (1月20日、東京、神奈川の教研参加者を囲んで、報告会を兼ねた盛大なカンゲイ会が持たれました。)


1973/4/21 8

熊谷 孝著『芸術の論理』
'73.5.1付で三省堂より刊行
幻の名著 ついに誕生! くわしくは機関誌80を見よ!

 [戦後の混乱の時期である。私たちは『芸術の論理』という、唯物論史上、画期的な書物を手にすることができるはずだった。熊谷孝先生が東北の疎開先で、手製のザラザラした原稿用紙に書きつづけられた『芸術の論理』は、しかし残念なことに日の目を見ずに終わった。当時の出版事情のためである。その一部は、民主主義科学者協会芸術部会編の『芸術研究』や、岩波書店の雑誌「文学」に掲載されたから、多くの読者はご存知のことと思う。
 餓死寸前の人間が、おいしいごちそうに一口だけありついたようなものである。一口の刺激が、逆に空腹感をよりいっそう自覚させる結果となった。その後、『芸術の論理』は、『文学序章』『文学教育』『芸術とことば』『言語観・文学観と国語教育』『文体づくりの国語教育』等々と名をかえて、、私たちの渇望を十分以上に充たしてくれたはずである。だが、私たちは心の底で待ち続けていた。『芸術の論理』という書名の「芸術の論理」を待っていたのである。
 幻の名著、ついに誕生す、というおもいである。(「文学と教育」80、荒川有史「幻の名著『芸術の論理』の誕生」より)]

本書で理論武装を! 
私たちの発想の変革を! [合評会への参加呼びかけの中で]


1973/9/1 1[9月、年度替り以降の号数]

神教協、教科研、関民協の合同集会
8月17日、18日、19日には猛暑、猛塵、猛音の中、法政二高で、神教協、教科研、関民協の合同集会が行われました。国語分科会第一日(18日)は、勝手がわからず、文教研メンバーは静かな発言に終始しましたが、第二日(19日)には、文教研に対するカタコトの批判に対しても、真摯に批判活動を行いました。参加者23名。

大内寿恵麿さんのリサイタル
9月22日(土)、杉並公会堂(荻窪駅下車、北口)
文教研の仲間はまわりの人をさそって、みんなで行きましょう。


1973/9/23 2

アンケート(第22回全国集会)より
・昨年、何も知らずに初参加して、芥川文学を、人間の可能性を凝視する積極的な文学として位置づける見識に大きなショックを受けて帰りました。そして今、昨年に増して更に力をつけた会員の方々の報告に耳を傾けながら、確実に成長していく文教研に心からの敬意と羨望を禁じ得ません。(名古屋 H.Y)


1973/10/13 3

[文教研の新年度は、毎年全国集会の終了した後、9月に始まります。新年度最初の月例研究会のテーマは「文学教育のための文芸認識論――基調概念の実践的解明」というものでした。「研究プログラム」にはその目的として、「自己の文学教育実践を、持続的・発展的なのにするために、実際に必要な、文芸認識論のkey-conceptsを、one setの形で各人が自分自身に用意するための共同研究。何が実際に必要か――が解るための研究会だ、といってもよい。」と書かれています。つまり、「最初の月例会で、新会員を含めてお互いの共通の理論的足場を用意しよう」、という趣旨で企画されたものです。
  第一部  ゼミナール “「文学とは何か」を問う視点” チューター:熊谷 孝
  第二部  変形シンポジウム“文学教育とは?”――芥川龍之介『芋粥』に即して
 この共同学習の終了後、ニュース部は参加者個々による「まとめ」を募りました。ニュースに掲載されたのは、この号の「第一回例会を終えて〈その一〉」と次号の〈その二〉です。]


第一回例会を終えて〈その一〉
文教研 みやぎ S.K
T. 言語をメディアとしつつ、文学はいかにして芸術でありうるのか。そして、文学は自分にとって何であるのか。
 文教研会員となった今年の夏の集会以来、芸術は決して台座[ママ]のものではなく、しかも、想像の完結者は読者であるということに、新鮮なショックを受け、それまでの「文学観」の転換をせまられてきていました。しかし、自分にとって文学は、と問い返した時、返ってくるのは、非常に細切れて[ママ]骨のないものでした。
 今度の例会で、熊谷先生の「文学は認識である」という話も、初めはよく理解できませんでしたが、送り手と受け手の認識としてとらえた時、はっきりしてきたように思います。それで、つぎのようにまとめてみました。
 ――言語は認識の手段であり、コミュニケーション・メディアである。その言語がくるっていれば、そこから送られるのは、やはりくるった認識でしかないし、その逆もいえる。送り手の形象的認識の問題である。
 また受け手の側からいえば、完結者といっても、まったくさまにならないことだってある。提案レジュメ5のところで、「相手をくぐる」ということが出されたが、まさに完結者は、真に相手を認識でき、くぐることができて初めて客観的真実がつかめるのではないか。――
 以上のようにまとめて考えてくると「決定的瞬間は実に日常の生活の中にある」ということも、私にとって心痛いことでした。『山椒魚』の「たった 二年間ほどうっかりしていた……」という嘆きも鋭い響に変わってくるのです。少し苦しくなると、自分の心の中で“まあ、このくらいのことだ、ゆるされるだろう。この次はなんどかなる……”という調子の日常のくり返し。今までは[『芋粥』の]「五位」や「無位」になんとなく自分を「見出した」ような気でいたのが、実はいやな感じと思っていた「同僚」ではないかと思えてきます。他の誰でもない私の主体が問い返されているんだなということが、はっきりしてきました。

U. 芸術お祭説
 “銀行の定款”式――今までの文学体験を思いおこすと、そんな感じに近かったようでした。詩をほんとうにおもしろいもの、心に響くものとして読んだことがあったのか疑問です。みんながいいっていうから、いいんじゃないか。でもわからない……それじゃ何回でも読んでみようか。そうすれば少しはおもしろくなってくるんじゃないか……。その結果は、解釈だけだったようで、今、詩を書けなんていわれると、ぎょっとする思いです。まさに、無駄が楽しめないんじゃないでしょうか。
 そこで夏の集会で出された「お祭説」「あとになって生きてくる無駄」とそれから「地づらと図がら」のすっきりした整理が、宮城の会員の間でもできないほどでいたのですが、第二部「変形パネルディスカッション」で、山下さんの「地づら→図がらの一方通行」という話で、すっとおちついたように思います。私自身、後になって「ああ、そうだったのか」式の、やはり一方通行で受けとめていたようでした。

V. 世代のうけつぎのこと
 「無から有は生じない」ということ、実にぴったりときます。そこで、うけつぎということも、もっと深くわかりたい点です。[以下略]


1973/10/13 4[前号と同日発行]

第一回例会を終えて〈その二〉
S.N
 9月23日の例会は、私にとってほんとにうれしい例会でした。というのは、例会の最後にも発言したことですが、自分が国語教師であることに、一つの誇りを持てたように思えたからです。(今までがどうでなかったというのではありませんが、国語教育の側から、唯物論の立場にたつというのはどういうことかが、理論的、学問的につかめたことがうれしかったのです。)
 じつは夏休みのおわりに、私の職場(私立小)の研修会があったのです。その第一日めは国語分科会と算数分科会に分かれて話し合うというのでした。私はその国語分科会に、例の 「アルファ」の「国語教育」[1972.6「週刊アルファ/世界大百科16-13」所収の熊谷孝「国語教育とは何か」]ひっさげて 、でかけたのです。ところが、ところがです。出てくるいろいろな意見に対しての私の発言が、いかにもカタコトなのです。
 9月総会の神教協の集会の総括のときに出た「説得できた、できないでなく、自分の納得のいく反論ができたかどうかだ。」(熊谷先生)です。相手の考えがちがうとわかりながら、きちんと反論できないモヤモヤが私の中にあったのです。9月例会はそのモヤモヤに答えてくれるのに十分でした。その考え方のちがいは、大きくいえば、講義の中にあった『文学(芸術)は表現である。』というのと、『文学(芸術)は認識である。』というのとではちがう、というちがいだったのです。だから、彼(職場の同僚)は次のようにいうのです。「絵や音楽の方が、言語より精神発達に有効である。」「言語認識、表現はありうるし、その方がより高度なのだ。」うんぬん。
 私は、そこできちんと反論できなかった自分への腹立ちから、ノートに「認識ということが解っていない。“人間は社会的存在である”ことの大きな欠落。」などと書きなぐっていました。熊谷先生の講義の中で「言語を問題にすることは、はじめから、コミュニケーションを問題にすることなのだ。」というのを聞き、モヤモヤがはっきりしてきたのです。言語というもののとらえ方のちがいなのだ、と言語ということを問題にしながら反論できたのだと思うのです。そして次に熊谷先生がいわれた「認識としての文学ということは、コミュニケーションとしての文学ということだ。」は、よりそれを鮮明にわからせてくれたことばでした。別々のコースを頭の中でたどってきたとき、認識とコミュニケーションということが、スパッと結びついた感じです。(もう一つ「認識としての文学といわれたとき、すぐ、戸坂潤の論文を思いました。これは戸坂ゼミで苦しんだ結果!)
 
 第一部は、私はこんなふうに講義をきいていました。おおざっぱな整理になりました。私にとっては、世代と階級の問題は残された課題です。 
 第二部の変形シンポジウムは、いますぐあった講義をくみこんでの参加者の発言にただ感心。一つの作品の読みから、それを一般化することのむずかしさに発言できずにおわりました。


1973/10/13 5[前号、前々号と同日発行]

『教材化と授業の視点 芥川文学手帖』の作製に向けて
 9月総会の決議(文教研第四の著述)を早急に実行に移す第一着手として、10月6日の常任委員会で、次のような小冊子の刊行について審議しました。以下に提示しますのは、常任委員会委嘱の特別編集委員会による一応の具体案です。10月第一例会当日、詳細にご報告いたします。ご検討を。

書名教材化と授業の視点 芥川文学手帖――『羅生門』『トロッコ』『杜子春』他三十五編
刊行目的: 1. 文教研内外の文学の授業の実際に役立つハンドブックの作製  2. 文教研第四の共著『芥川龍之介の文学――その教材化研究』の執筆に必要な、各自の研究メモの作製と文章化

判型・ページ数他:A5判/タイプ写植8ポ・2段組/72ページ前後/たて書き/文調=「である」調
内容概略[略]
発行年月:〈第一案〉'74年2月下旬、〈第二案〉'74年1月中旬
原稿締切:'73年11月第二例会(24日) ※第一、第二案とも
執筆要領:編集委において、10月第二例会(27日)に具体的に例示
執筆者および執筆分担:執筆者は月例研究会のレギュラーメンバー全員。および宮城県地方研メンバーの中から。[以下略]
編集委員:熊谷 孝(チーフ)、夏目武子、山下 明

[熊谷孝責任編集『芥川文学手帖――教材化と授業の視点』は1974.2に文教研出版部から刊行、熊谷孝編著『芥川文学手帖』は1983.11に みずち書房から刊行された。]


1973/11/24 6

11月10日例会「太宰文学の成立」 個人総括
N.A

 太宰文学第一回研究会は実り多いものだった。第一部報告(担当A) (1)3.15事件〜2.26事件〜日中戦争 (2)文壇2.26前後 は日本近代の軍部ファシズムへの必然的経路と、それをどう生きたかを、文壇および一般大衆の実体に探り、太宰文学を生みだした時代状況をリアルに把握させてくれた。その場面認識を共通に持ったうえで、第二部『葉』の総合読みにはいった。
 皮切りにチューター(熊谷)発言があった。『葉』は小説である。太宰が発掘した新しい小説の形式(=方法)である。「死なうと思つてゐた」にはじまり、「どうにかなる」で終わるのである。「どうにかなる」?……「どうにかしなければならぬ」のであり、「どうにかしよう」というインプリケーションがこめられている。インプリケーションを内側に感じることなしに文学形象は成り立たない。――そのことは、だるまとの対話(『玩具』)を読みあうことの中でより鮮明になった。太宰文学を読んでいくにあたって、インプリケーションを大事にうけとめようという、“読みの原則”ともいうべき貴重な提唱があった。
 『葉』は断片的なエッセイの集録では断じてなく、あの最初と最後の章にはさまれて、各章は意味的なつながりをもって選び抜かれ、配置された構成のしっかりした小説である。『葉』の総合読みにおいて、その印象を追跡していくと同時に、15篇から成る『晩年』全体ともつなげて読むことで、一層イメージがふくらむこともチューターから指摘された。

『葉』の総合読み
 (1) 死を思わない者のいなかった時代に「死なうと思つてゐた」人間が「夏まで生きてゐようと思った」と言う。お年玉としてもらった麻の着物、そんなささやかなことにも生きる支えを得る太宰に感動すると同時に、りっぱなことを言ったり悲壮であったりするのでなく、様々な日常的感情を大事にするきめ細かいデリケートな感覚で真実をみきわめていこうとする太宰の語り口としても、おさえられるのではないか。「われは山賊」とダブル・イメージ。時局が悪化すればするほど強靱になりえた太宰文学は安岡章太郎のみならず同時代の中堅読者にとって生きる支えであった。「死なうと思つてゐた」に読者は「生きろ」というインプリケーションを感じたのではないだろうか。
 (2) I.M君は考えた。「僕はノラを英雄視してきた。けれど、このノラはふつうの人間、ふつうの女だ。」チューターのおじぎにも近い肯定の相槌とともに、この章は具体的イメージとして私たちにせまってきた。「生身の人間をリアルに感ずる。太宰はそれをトータルに描いている」という印象の追跡がすぐにだされた。チューターの問題提起、「自然主義を含むそれ以前の文学の描いた“英雄の凡人化”とどう違っているか」はこれからの課題として残った。「“わるいこと”――面白いですね。豊かさを感じます。」第二章は“シオ”(=焼鳥の塩焼、焼酎に一番合うとの事)で終った。Wママ広い?]角度からみれば、それは“わかること”なのですヨ。
 (3) この章を喜劇精神というワクぐみでつかむか否かの討論は保留にし、全体を読むなかでまたもどって考えよう(チューター)。
 (4) 「頬があからむほど嬉しく」なる龍の、人間のあたたかさへの渇望と、三章から重なってくる孤独に生きる彼のイメージが一体感をもってせまってくる。
 (5) 「自殺をいい気なものとして嫌う兄は死のみならず、生きていることにまず真剣でないのではないか。精神的な死ということもあるんだ(I.M)。「矢先」をどう読むかという質問をきっかけに最後の2行の印象が討論によって具体的なイメージとして追跡された。
 (6) 他にむかって白状を強いているという受け止め方と自分を問い直す自己凝視という受け止め方、時間切れで終わりになった。ほんとうにほんとうに残念でした。


1973/12/8 7

11月24日例会「文教研・太宰文学研究史」 個人総括
S.R
 自分が社会から疎外されていると感じるとき、わたしは、むしょうに、親しい人に甘えたくなる。そんな没個人的な甘ったれを軽蔑もせずに許してくれ、またそっと自分を社会へかえしてくれるもの――これが中学生以来の、わたしにとっての太宰文学であった。
 優しいのである。それも、芥川文学のような冴えた眼のあたたかさではなく、どこか鈍角的な、強いいたわりをもった優しさなのだ。
 「芥川から井伏・太宰へ」というテーマで行なわれた11月第二例会では“激しい討論”こそなかったものの、これからの太宰文学研究へ向けての切りくちの整理と心構えを確かめあうという意味で、大切な場であった。
 第一部の特別報告では、文教研10年の余にわたる太宰・井伏文学研究史をY.A氏が総括。とくに1971年以降、近代主義批判という点にしぼって、本格的なとりくみがなされてきたと紹介された。
 わたしにとっては、一昨年の問題別研究会が文教研で太宰を読みあった初めての体験であった。それ以前の研究は、その成果を活字で知ったものばかり。太宰を読みたい、わかりたいという欲求は常々くすぶりつづけ、Y氏の報告を聞いたら、よけいその焦燥があおられた。
 第二部は変形シンポジウム。「私たちの太宰研究をどう発展させるか」というテーマで、S.M氏以下、シンポジウムメンバーのはつげんのあと、全体討論にはいる。
 S.M氏の〈提案〉では、まず、太宰の特異な文体を指摘。読んでわかりにくいという実感を持ち、場面規定をおさえることの難しさと重要性を痛感。「こんな文体の作品を読めるようになりたい。」と語る。そして、@主題的発想の展開を初期から考えてみたい。 A太宰文学の哲学思想との関係。 B芥川世代と太宰世代のちがい。 C読者論との係わりのなかで、などの問題が出された。
 これを受けて、太宰文学はどうしたら「私の文学」になるか、なぜ現代に読む必要があるのか(I.M)、太宰の作品から「ダメな人間」の面ばかり感じて嫌っていた傾向があるが、読んでみて底が深いと思う。文体的特徴をとらえ、面白く読んでいきたい(S.T)、文教研にはいって一番初めに接したのが太宰だった。『女生徒』で何かしらおもしろいと思い、わかったような気になった。自分にとっての文学とは何かを考えていきたい(S.F)、など太宰文学をまずとにかく「私の文学」にしたいということが様々な言葉をとおして語られた。
 その後は、司会であるA.Y、K.M両氏の誘導で、各人の太宰文学との出会いを出しあう形で全体討論が続けられた。
 A=戦後の『男女同権』が出会い。おもしろいから、さがして読んだ。
 B=民衆のくぐり方が非常になまなましいと思う。
 C=すごい人だと思うと同時に、近よりがたいものがあった。
 D=太宰文学に対得る小林秀雄の否定的評価に影響されていたが、文教研で読むなかで、少しずつわかってきたものがある。
 E=好きは好きだが、変なところが好きだった。たとえば、きれいに描いていく非常に細かな部分だけ、というように。
 F=戦後の作品を読んでいるうちに何とはなしにひきこまれていった。『葉』は今もってむずかしい。
  G=芥川を学ぶことで、「1936年の太宰文学」の明らかになってきた面がある。初期からたどり直すことは、芥川とは違った意味で大切ではないか。
  H=私生活人太宰、作家太宰、作中人物太宰は、それぞれ皆違うという指摘は、大きな転換点になった。1930年代の太宰の文体を解く鍵はここにあるのではないか。
 ――出された仮説はまだまだ多いが、今のわたしにはそれらを十分位置付けるだけの下地がない。くやしいけれど、かつて芥川文学でそうしたように、一作一作の印象を追跡し認識を深めていくことによってしかそれはできないのだ。“激しい討論は冬の合宿で――”司会者の最後の言葉が今も耳に残っている。('73.12.5)


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