むかしの「文教研ニュース」記事抜粋 
 1975        *例会ごとに発行されるニュースから、部分を適宜、摘記したものです。

   
1975/2/2 6[前年9月、年度替り以降の号数]

日教組教研 終わる
 一月下旬、岡山で開かれた全国大会に参加した文教研の人たちは、無地帰ってきました。 参加したみなさん、ごくろうさまでした。
 2月2日(日)には報告集会が持たれますので、次号には、そのようすをお知らせします。
〈文教研関係の参加者〉
〔神奈川・正会員〕夏目
〔東京・代表団〕荒川、森田
他、鈴木(テ)・木内・川浦・児玉・蓬田。
この他、千葉の本間さんも参加され、東京、神奈川の発言に対し、積極的な協力をして下さいました。(荒川氏談)

広島で『文体づくりの国語教育』の研究会、荒川有史さん講師として参加
 1月23日、広島で児玉さんと岡本さんを中心に、30人の先生たちによって会が持たれました。その時のようすは荒川さんからくわしくききたいと思いますが、これを機会に広島で文教研の地区研ができればと思っています。


1975/2/8 7

2月2日(日) 日教組教研報告集会から
○一人ひとりを大切にする国語教育という観点から、「到達目標」ということばが会場ではたびたび聞かれたが、そのことと、母国語教育という発想とは、どう結びつくのか。どうも、そのあたりがあいまい、というより、欠落しているのではないか。
○国語教育にとって、教科構造論とか、どうしても踏まえなければならないことがあるはず。それなしには、実践上のさまざまな混迷を克服することはできないのだという視点が参加者の中にも助言者・司会者の中にも見受けられるようになったが、それでもなお“現場主義”が根強く残っていること、それが問題だ。
○いわゆる「三読法」への批判が強まってきたというのが、今年の一つの大きな傾向であった。が、その“批判”が質的に高いものとは言い切れない弱さがある。一方、今までいつも現場主義を批判してきた「高校教師」の発言の中に、レベルダウンを感じさせるものが目だった。
 以上はの諸点は、ニュース部として、話し合われたことの中からまとめたものです。

 今回は文教研からの参加者は少なかったが、しかし活躍はめざましかった。夏目さんの原理・原則にとどまらない、実践をふまえた説得力ある報告。荒川さんの、相手の発言を含み込んだ上での、あいかわらずの整理“魔”ぶり。森田さんの『空気がなくなる日』の実践をふまえた新鮮な発言。鈴木(テ)、川浦、木内さんのあたたかいバックアップ。そんな様子をいろいろ参加者から話がありましたが、川浦さんのよどみのない、小川の流れるが如きその話しぶりには、一同うっとりしてしまいました。「来年もまた今日のような会を!」という熊谷先生のことばに、みんな決意を新たにしました。


1975/2/22 8

2月第一例会 太宰治『右大臣実朝』 個人中間総括
Mu.M
 8日の例会はでみんなの発言に学びながら学習した中で、特に私の印象に残ったところは、「歎キワビ世ヲソムクベキ方知ラズ 吉野ノ奥モ住ミウシト云ヘリ」(p.104)の短歌に関する部分であった。この和歌は実朝のお気に入りの和田義盛の嫡孫朝盛が一度は戦いを拒否して仏門に入りながら、その志をとげる事ができず、再び実朝の前に墨染の衣のままで参上した際、お下げ渡しになったものであるが、この和歌に託されたこの時期の実朝の苦悩の姿を胸の痛くなるような思いで私は読んだ。
 昔、吉野の山は身分のある人の隠れ場所であったが、今はそれもできない(A.Y)。『吾妻鏡』にある事実を基礎としながら、『金槐和歌集』の中にあるこの和歌を挿入する事で、実朝の苦悩を浮き彫りにした太宰の虚構のすばらしさ(I.M)に感動するとともに、本来の読者の視座を通して考える時、無謀な戦争の起こる事を察知しながら、止める事もできず、その苛酷な運命からのがれるすべを持たぬ厳しい現実の中に身をおいた戦争前夜に生きる人々の深い苦しみ悲しみが、多義的なイメージの中で、胸に強く迫ってくるのであった。

東京・東村山にサークル誕生
Suさんが中心になり、当面『文体づくりの国語教育』をテキストとして、毎月一回研究会が持たれることになりました。都合がついて関心のある方はご自由に参加して下さい、とのこと。
第一回例会 2月24日(月) p.m.5:00〜7:00 
於、青葉小学校(西武新宿線久米川駅、清瀬行バス、都病院前下車)


1975/10/25 109[4月以降、通巻になったもよう。4.26発行のものが105。]

G.Kさん 『牛づれ兵隊』の作者・宮原無花樹さんを訪問
 Gさんは文教研が『牛づれ兵隊』をとりあげた8年も前から、無花樹さんと文通をされているということです。『牛づれ――』についての子どもの感想文を送ったことがきっかけだそうです。
 今年の8月末、入院中の無花樹さんをGさんは見舞いに行かれましたが、無花樹さんは、それからまもなく、9月初めに退院されたということです。
 無花樹さんは昭和12年から15年にかけ、一下士官として中国大陸に行っておられたということですが、『牛づれ――』はその時の体験が元になっているそうです。「当時、軍国主義のしり馬にのるアジ的な童話ではなく、正しいものを書きたかった。」
 そんな作品が18年に文部省の推薦になりかかった。でも、「戦争童話」としては何となく弱い、ということで、とりやめになった――そんな話があったそうです。
 Gさんをはじめとして、文教研が『牛づれ兵隊』をとりあげたことなどがあり、それに関英雄さんたちの尽力も加え、3年程前、「ジャンボ日本の童話・四年生」(金の星社刊)にこの作品が再び収められた、といういきさつもあるということです。

大内寿恵麿さんの第八回リサイタル〈後援 文教研〉
  11月6日(木) 「親と子に贈る日本の歌」  於、砧区民会館
  12月23日(火) 「北原白秋の詩による歌の世界」  於、武蔵野公会堂 


1975/11/8 110

熊谷先生、国立音大で講演
 国立音大芸術祭で熊谷孝先生が「言葉と文化」という題で講演をされました。11月3日でしたので、もう終わってしまいましたが、何かのおりに、お話をきけたら……と思います。
 以下は、案内チラシからの転載です。

言葉と文化
 言葉という刃物は諸刃のヤイバを持つ刃物であることについて語りたい。
 それ自体 文化であると同時に、文化全般の深化、発展を支えるメディアである言葉は、しかし、ひとたび魔術師の手にかかって呪文と化し、また人びとが、その言語魔術のトリコとなり果てるとき、言葉はまるで、それ自体 内発的な力を持つ実体でもあるかのように、人びとの手から自由をもぎ取る文化剥奪者の役割を演じるようになる。
 言葉のこのような機能、作用を理解し、認知することは現代の魔術師が、どこの誰であり、また、科学的な(あるいは芸術的な)扮装をこらした現代の呪文のどういうものかを知るための確実な第一歩となるだろう。 熊谷 孝


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