▼1971/1/1 6[前年9月、年度替り以降の号数]
あけましておめでとうございます 文教研常任委員会
70年12月の冬の合宿
70年12月の冬の合宿は、32名が参加し、終始真剣なゼミを行ないました。さっそく研究部と編集部とが総括にとりくんでいますから、ご都合で参加できなかった方々は、ご期待下さい。
今次合宿のテーマは、一貫して文学教育の構造化。とくに、その基本過程が問題になりました。合宿のために一ヵ月はやく用意してもらった熊谷孝著『現代文学にみる 日本人の自画像』(三省堂刊)というホヤホヤの本は、生きた助言者のはにかみ をけって、きわめて適切な助言をしてくれました。
――銃とは、単に、銃そのものをさした言葉なのであろうか。もし、そうであるとすれば、それは、一種の虚無的で即物的な(そして多分に虚脱の要素を伴なった)当時のいわゆるアプレ心理とその倫理感覚とを即自的にスケッチしたにすぎないことになる。そうではなくて、「銃」というこの言葉が、われわれに「銃を執らしめたもの」を意味し、さらにまた「銃を執らしめようとしているもの」をも含めて言っているとしたら、問題は大きく転回する(本書 p.244〜5)。ご存知、大岡昇平作『野火』の“私”をめぐる分析。
井伏鱒二作『丹下氏邸』の検討においても、大きな転回があったように思います。Yさんは、総括の中で、『丹下氏邸』の“私”を批判する視点の獲得過程が、とくに印象的だったと語っています。(これは、参加できないと、どんなに損をするかという、ホンの一例。)
▼1971/1/23 7
日教組 第20次 教育研究全国集会報告
レポート提出者に拍手を!
文教研の主張は、全国教研でどういう位置をもつのだろうか――。今までに参加したことのない会員は、それを、この目この耳でたしかめたい、という気もちが、心のどこかにあったと思う。
東京集会は、その気もちに応えてくれた。そして、自負と自身をえた、というのが実感ではないのか。
わたしたちの主張を、そして、願いを、全国教研にみごとに反映してくれた、レポート提出者、荒川・夏目さんに心から拍手を!
文教研からの参加者 のべ66名以上
レポートを提出した、明星グループと夏目さん、それに民教連から参加した、芝崎さんをはじめ、今集会に参加した会員は、66名以上である。以上? 国語分科会と全体会で確認した者だけで、66名であり、未確認の会員と、他の分科会に参加した会員を加えると、もっとおおぜいになるはず。
会場が東京であった、という好条件はあったにしょ、予想をはるかにうわまわった。文教研会員の問題意識の反映といえないだろうか。
▼1971/5/22 13
熊谷 孝著『現代文学にみる 日本人の自画像』(三省堂刊)その反響
1 熊本日日新聞 2月5日付 「『内海文三』以来の流れ」(星永文夫・熊本一高教諭)
2 日本読書新聞 2月15日付
3 公明新聞 2月18日付 「近代文学の系譜をたどる」
4 読書の友 3月1日付 「核心を大胆に把握」(沢田章子・文芸評論家)
5 徳島新聞 ブックガイド 3月5日付 「読者の書評/悲惨と栄光の象徴」(堤高数)
6 高校英語研究 4月号
7 学生新聞 5月5日付(松崎晴夫・近代文学研究者)
*おねがい* 文教研の仲間の仕事を、一人でも多くの仲間に紹介し、不当な批判に対しては、適切でタイムリーな反論を展開しましょう。さしあたり、「学生新聞」編集部に抗議のハガキを! (研究部長 S)
▼1971/9/11 3[9月、年度替り以降の号数]
'71年/定例研究会の運営方針(9月文教研臨時総会へ向けての研究部提案事項より)
(1) テーマの一貫性 従来の、テーマ別、1回読み切り方式の月例研究会のありかたを、大きな一つのテーマを追っての一貫継続方式のものに替える。統一テーマは「指導過程論の上昇循環的発展のために=文学史を教師の手に」。
(2) 研究会プログラムの事前提示と、長期研究目標の明確化 12月と3月の合宿研究会をメドに、年間を3期に分け(9月〜12月、1月〜3月、4月〜8月)、各期の初めにその期間のプログラムを提示して、会員共通の研究目標を確認し会う。(会員は必要に応じて問題別研究会を組織して常時、継続的な研究活動を組む。)
(3) 参加者全員による会の運営を 従来の、あげ膳・すえ膳方式を一擲して、@参加者全員によるノルマの消化(別紙、研究会プログラム参照)と、A参加者全員による研究会運営分担(司会、報告、チューターなどの交替担当)を今年は実現させたい。
(4) 例会へのレギュラーな参加と、文教研テイコク主義の回復 テイコク主義=定刻主義である。遅刻はお互いさまのことだが、それが常識化し慢性になっている点に問題がありそうだ。また、月例研究会の会員出席率、年間平均50%。
そこで、月例研究会2回を1回に減らし、開会時刻を1時間繰り下げ、開催地を隔月に移動し、(交通費と会場費の相殺を考慮の上)会場を交通に便利な場所(かつ学習に格好の環境)に設定した。上記(1)(2)(3)の目標達成のために。
▼1971/9/11 4[3と同日発行]
11月例会の話し合いの資料として、10月例会当日に提供していただく
〈私の卒論=レジュメ〉のサンプル ――(研究部)――
熊谷 孝
1. 卒論の題名 「浮世草子の成立」
2. 法政大学文学部国文学科/一九三五年度/指導教授=近藤忠義先生
3. 論文総枚数 四百字×二百枚
4. 論文ちゅうの資料による実証面の一部を、近藤教授の指導により(原理面を)改訂して、「仮名草子小論」(国語と国文学='36.1)、「『永代蔵』の成立過程」(文学='36.3)「『本朝町人鑑』試論」(立命館文学='36.4)という題名で発表。近藤教授のおすすめと紹介による。
5. 内容レジュメ
近世町人を、一義的に「封建体制に寄生する、どす黒い前期資本の人的表現」として規定して考える考え方からは、(1)町人文学は体制奉仕の御用文学であった、という結論を導くことになるか、あるいはまた、(2)「前期資本の歴史的・相対的進歩性」を云々するようになるのがオチだろう。(現に、歴史社会的視点に立つ「われわれの陣営」から提出されている近世文学史論は、そのようなものである。)そこでは、結論はすでにその立論の前提において決定されている。
しかし、現実に現象した歴史的事実としての近世町人文学は、いまそれを十七世紀の時点で切りとってみれば、むしろ、そこに見いだされるのは、前期資本による桎梏と疎外に苦悩する民衆の姿である。前期資本を切っ先とした封建的人間疎外にさいなみ続けられている民衆の人間的苦悩の姿がそこにある。(たとえば、近松の心中物を見よ。死をもって自己の人間をあがなおうとする民衆の姿が、そこにはある。また、民衆の孤独感を「野ざらし」の旅に、「奥の細道」の旅の中に訴え続けた芭蕉の姿を見よ。そして、そこに同時に、あくことを知らない資本の攻勢の前にきりきり舞いさせられている人間=民衆の姿を、笑いの中に突き放して問題を探ろうとした、西鶴の強靱な文学精神を想起せよ。)
このようにして、「われわれの陣営」の立論の前提は、どうやら文学史の現象的事実と矛盾するようである。そこで、このような矛盾がどこから生じたかと言えば、身分としての町人と、階級としての町人との混同によるところの、「前期資本の人的表現」という一義的な町人概念の規定を「自明の事実」と考えたところにあるようだ。
前期資本をむしろ敵対物として呪い続け、あるいはそれと捨て身の闘いを闘う近世町人文学作品ちゅうの人間像=民衆的人間像は、ところで現実の町人 その人の反映像にほかならない。民衆とは、この場合、町人のことにほかならない。
とすれば、「前期資本の人的表現」としての町人と、資本の呪縛からの解放を願う民衆的存在としての仲人とは区別して考えられねばならない。慣用語を援用し、それを移調して区別すれば、上層町人と中層町人との階級的区別である。「銀が銀を儲ける」資本の集中化に伴なう新興町人社会における階級分化と固定化――そうした現実を、少なくとも西鶴の場合は町人中層の視座において形象化を試みた、ということになりそうである。そのような町人中層の文学が西鶴の浮世草子であった、と考えてよさそうである。
思えば、西鶴の浮世草子は先行する散文文学=仮名草子にあって、あすの民衆文学への積極的な橋渡しの役割を果たしたのは、階級存在としての民衆でもなければ、支配階級としての武家では、むろんなかった。そのような輝かしい歴史的役割を担当したのは、ほかでもない、公家(たとえば烏丸光広)・儒者・僧侶・神官・失業武士などの雑階級的知識人たちであった。また、西鶴たち新興町人中層の俳諧文学集団=談林派のスタートにレールを敷いたのも、これらの雑階級者である知識人たちであった。
彼らの先行的存在を前提とすることなしに、元禄期の民衆文学の開花は考えられないし、西鶴たち中層者の存在を措いて、そのみのり多い結実は考えられない。(1)仮名草子から浮世草子へ、という切り口と、(2)談林俳諧から浮世草子へ、という二つの切り口で、可能な限り未刊資料などにも視野を広げながら、上記の問題へのアプローチを試みた。
6.反省点
@多分に素材主義的であった。
A歴史認識が幼なかった。
B文体意識を欠いていた。
C立論の前提に都合のいい所だけ抽象した。
[会員全員が、これにならい「私の卒論」を書いて提出、それについて例会で話し合いがもたれた。]
▼1971/9/11 5
九州だより
文教研第二十回全国集会おめでとうございます。今年もまたあのなつかしい八王子セミナーハウスに全国から熱心な仲間が大勢いらっしゃっていることでしょうね。文教研北九支部(?)ご致しましても是非一名でも参加して東京のみなさん方の教育に対する熱意を膚で感じて帰りたいと思っておりましたが……Jさん、Oさんとも一歳未満の乳飲み児を抱え……Yさんもこれまた大事な身体ですので……〈私〉父の病気も重なりまして……(福岡・S.A)
《文教研トクベツ部会》連句会 より
花の命は短くて……
……アラ 私のコトォ 〈To.K〉 (心理レントゲン ?→!→?)
……蚊取り線香はなぜ長い 〈Su.T〉
▼1971/11/11 6
沖縄の仲間から
S.Y
毎号、機関誌を送ってくださいまして、ありがとうございます。文教研の第20回大会も、例年に劣らぬ成果をおさめ、会員の結びつきを、いっそう深めたことと思います。昨年は初めて参加し、八王子セミナーハウスで仲間たちのすばらしい実践に感激し、心ははや20回大会の参加のことを考えながら沖縄に帰ったのですが、今年は、事情あって参加できませんでした。本当に残念でなりません。
機関誌は継続して愛読させて下さい。原稿を寄せることは無理ですが、機関誌を読むことにより、自己変革と、すばらしい仲間たちに一歩一歩近づくことができると思います。
沖縄の本土復帰も二百余日を残すのみとなりました。体制側からのしめつけも強化されるでしょう。つい最近、日教連の支部結成もありました。私たちは、彼らに対抗し、決して体制側の思うままにはならない、真の教育をしたいと思います。
文教研の発展のため、私もがんばります。
不当判決に抗議
ソウル大学大学院生・元 東京教育大学学生 徐 勝(So Sung)君に対する
ソウル刑事地裁〈第一審死刑判決〉(1971年10月22日)に抗議し即時無罪釈放を要求しよう。
抗議要求先 東京都港区南麻布1-2-5 駐日韓国大使館 気付 朴 正熙
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人間の尊厳をふみにじる徐 勝君への不当な判決に抗議し、あわせて公正な裁判を心から要請する。
'71.11.3 文学教育研究者集団
▼1971/12/11 7
大内寿恵麿 第4回 リサイタル
'71.12.6 文教研後援で行われました。
会員も家族づれで多数参加しました。
佐伯昭定さんの司会も仲間うちで評判になりました。
問題別研究会は目下 花ざかり
・戸坂潤と1936年 11/16 12/5
・太宰治と1936年 11/27
・横浜地区研究会 戸坂潤と1936年 12/4
第21次日教組全国集会・国語分科会へ
埼玉(正会員) 木内ときえ
東京(正会員、代表団) 福田隆義 佐伯昭定 荒川有史
神奈川(リポート作成) 夏目武子
のみなさんが!
民教連代表団には椎名伸子さんを申請中。
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