▼1969/1/10 12
第18次・日教組全国教研へ
文教研からは次の人たちが正会員として参加します。
夏目武子さん、高木春枝さん〈神奈川〉
土橋保雄さん、本間義人さん〈千葉〉
遠藤庄治さん〈京都〉
また、東京からは福田委員長、それに民教連から派遣されて、荒川事務局長も参加する予定です。
熊本の工藤さん、上田さんとお目にかかるのが楽しみです。賀状によると、目下必死の準備をされておるよし。
▼1969/3/8 13
春の合宿研究会、大学セミナー・ハウスで
“私の大学”――文体と総合読み [日程詳細は省略]
第1部 芥川文学をどう読むか 『大導寺信輔の半生』を中心に
第2部 状況・典型・虚構
●会場 大学セミナー・ハウス 八王子市下柚木 [省略]
京王バス野猿峠下車(1人30円)
国電、八王子駅南口 午後1時20分集合 マイクロ・バス乗車(1人20円)
[たぶん、これが大学セミナー・ハウス利用の最初だっと思う。]
▼1969/5/24 16
月例研究会プログラム
文教研第18回全国集会をめざし、つぎのようなプログラムで、月例研究会をくみました。(なお、月例研究会は月2回でしたが、それ以外に、報告者グループによる非公開の研究会も計画しました。深く究明するために――)[プログラム省略]
▼1969/6/14 17
熊谷孝先生の講義を聞く
6月8日は、熊谷孝先生の講義を聞く。テーマは「虚構・想像・典型――汎言語主義との対決――」。いうまでもなく、夏の集会をめざしてのとりくみである。出席者23名。
プログラム:第1部 すこしかたい話 1.目的 2.立論の前提 3.日常性、非日常性〈科学性・芸術性〉 4.一応の概念規定
第2部 すこしソフトに 1.『くれなゐ』 2.『狭い庭』
第1部
1.目的 この講義の究極の目的は、文学教育の構造を明らかにすることである。その手だてとして、文学とは何かを明らかにする。教師の文学とは何か、によって、文学教室はちがってくるのだから――。
2.立論の前提 文学とは、文学体験のことである。
文学教育は、文学体験の素地をつちかう教育にほかならない。文学体験を対象化することで、文学作品埋没の文学教育から、真の意味の文学教育へ前進することができる。「自他のつながり、連帯の中に自分というものを主体的に見きわめようとする眼、現実を主体的現実としてとらえることの中で、その現実の中に人間的な感動に輝くものをさぐり出そう、むしろ創り出そうとする現実凝視、自己凝視の眼」(『言語観・文学観と国語教育』p.190〜191)――そうした“文学の眼”は、文学体験の文学教育においてのみはぐくまれる。
なお、文学も芸術の一ジャンルである以上、文学体験は芸術体験とおきかえることができる。
文学固有の認識については、「言語と認識」(小学館 教育学全集 5)を参照されたい。
3.日常性と非日常性の間
1) 日常性〜日常的体験の抽象性 体験=何かを抽象して生きていること。
@ 抽象の視点の無自覚
A 自己中心的な感情ぐるみの全体的把握。自己の認知のカマエを自覚していない。
B 抽象の仕方 A 概念的抽象 B 形象的な抽象
2) 科学的体験の抽象性 好きだという感情にブレーキをかけて、つきはなして吟味する。自己凝視な しに、つきはなすことはできない。
3) 芸術的体験の抽象性
@ 日常性と相即にして、かつそれをこえたもの。
A 共通点 感情ぐるみの体験であること
B 相違点 別個の感情で、自己の感情をくみかえる。その感情で(あるいはその感情をくみかえつつ)事物を認知する。⇒鑑賞体験・創作過程 (『言語観・文学観と国語教育』p.177〜178)
A 典型化
日常性を、別個の日常性に移調する抽象。(科学は移調ではない。『言語観……』p.130参照)
別個の感情のワク組みで反映する。
想像的意識作用は、フィクションによってもたらされ、またフィクションをもたらす。『くれなゐ』の主人公に、広介、明子という名前を与えること自体フィクションである。鶴次郎という本名だと、つい三味線などを連想するが、広介というと、ほっそりしたインテリを連想しないか?
(『言語観……』p.196、p.166、p.173〜、『芸術とことば』p.56〜 参照)
4.一応の概念規定
1) 虚構
@ 世界(事物)に関する概念ではなくて、現実(感情ぐるみの事物)に関する概念。
A 典型的現実を造型するための、別個の感情で見つめなおされた現実。
B 偶然的所与をカットする。必然につながる偶然、可能的所与につながる探究と創造。
2) 想像――認識過程の一アスペクト
3) 知覚――現実存在に関しての認識
4) 記憶――過去の認識の再認
5) ことば
不在なるものを喚起、かつてあったもので、今はないものを再現する。未だなきものをあるものとして
可能なものとして喚起する。
6) 典型――模範としての予表
第2部[省略]
▼1969/8/13 18
文教研 第1回総会
8月6日午後1時より、湯河原・大伊豆ホテル 会議室でひらかれた。出席者27名。
[後注:湯河原町立観光会館を会場として開催された文教研第18回全国集会に先立って、初めての総会がもたれたものである。]
福田隆義委員長による常任委員会の報告要旨はつぎ次のとおり。
1.文教研が集団として“ふとってきた”理由はいくつかあるが、思いつくままに、ひろってみる。A.チューターである熊谷孝さんの魅力、B.全国教研における夏目武子さんの活躍、C.全国集会を契機に、D.冬・春の合宿に参加して、E.文教研のメンバーの職場・地域の活動をとおしてetc.文教研に“ほんもの”を感じての参加と言えよう。
2.日教組全国教研に、組織的にとりくむようになった。熊本集会には、神奈川代表として夏目さん、千葉代表として土橋さん、京都代表として遠藤さん、三重代表として村山さん等々、参加した。また、委員長、事務局長、佐藤嗣男さん(明星)が参加し、『文体づくりの国語教育』[1969/1 文教研刊]や、文教研機関誌が大量にさばけた。地元の工藤さんの物心両面にわたる援助も忘れることはできない。岡山代表として参加したI
さん(文教研第17回集会参加者)が、文教研に入会。
3.“私の大学”の再開。状況を先どりする形での理論的追求。つまり、国語ないし文学教育の分野で進行している実存主義への傾斜を先どりして批判するかたちでおこなった。
4.分業と協業の体制が確立しつつある。そのことが、冬・春の合宿を深める保障ともなった。
5.第17回全国集会の記録、『文体づくりの国語教育』が自費出版の形で世に問われた。
6.今後の課題――
1) 新しい会員との対話が弱かった。
2) 機関誌に、完成された原稿しかのっていない。未完成な提案や実践記録があり、それへの意見・批判も同時に掲載する、という形もほしい。
3) 研究部としては、長期のプログラムをもち、新しい会員もふくめて、ひとりひとりの会員が、自己の課題を全体の中に位置づける。
オールドメンバーのだれひとりを欠いても、文教研は存続しなかった。このことを熊谷さんに即して言えば、熊谷先生をぬきにして文教研を考えることができない、ということである。が、そうした状態に甘えて、われわれひとりひとりの学習に真剣さが足りなかったのではないのか。熊谷さんには、熊谷理論のよりいっそうの発展のために、ひいては文教研理論の確立のために、今までよりさらに活躍していただきたいと思うが、われわれも熊谷さんに負けずに、創造的な理論活動をおしすすめよう。
4) 組織部、会員相互の人間的なつながりを考える。文教研理論の受けつぎの問題、時には映画・演劇を見に行ったりハイク[ハイキング]に行ったりする。文教研推薦のキッ茶店を会場近くに指定して、具体的な問題について話しあう場を保障する。
参加者の感想(「速報 9」のつづき――速報委員会の要請による)
明日からの授業に活力を! 大分 J.N
文体づくりの国語教育というお話を昨年の会で伺い、目をさまされた気がしました。その後、本を読ましてもらいましたが、おぼろげで不明瞭でした。こんどの集会で、自分自身の言語観・文学観の変革をせねばと、痛切に感じさせられました。でも、現場では教科書のみを教えるという考え方が充満しています。
“発達に即死、発達を促す”作品を、ひとつでも教材に組み入れていく努力。それが、わたしたちの生徒集団をかえていくことにつながるのだろうな、と思いながら、帰途につきます。参加して、ほんとうによかった。明日からの授業に活力を与えられた感じです。
“私の問題” 東京 K.T
こんなに勉強している先生たちがいらっしゃるのだ、……という感動とともに、ここに参加していない多くの先生に教わっている、たくさんの子どもたち、おびただしい数の日本の子どもたちのことを思わずにはいられませんでした。おそろしいな――という気持ちが強く強く起こってきました。
まだ、子供の親という立場でないひとりのおとな、“私”と、学校教育との関係をもっとつきつめて考えなければいけない! 子供をもつ親だけが、子どもを教える先生だけが考える問題として、切ってしまってはいけない。そんなことを“私の問題”として、東京の家に持って帰りたいと思っています。
確かめたかったこと――国語の教師像 高校生 N.M
教師不信。
これがほんとうの国語の授業だと感動できる授業を受けたことがない。教師が熱心に何かを訴えるように授業をしてくれたことも、なかったように思う。わたしの経験では。
国語の授業なんて、あるから聞いているだけで、試験の点とりのためのものでしかない。教師は、明日の青年たちを育てようと本当に思って教師になったのか。疑問なのだ。教師にでもなろうか、ということでなったのではないかとも思う。
そういう人ばかりではないということを確かめる、肌で感じるという意味で、この会に出席したことは、意義のあることだった。この経験をストックしておいて、やがて自分のものにして育てていこうと思う。
大学立法 反対!
大学立法に反対する声明を、文教研全国集会の名において採択。
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