▼1968/6/4 1
ニュース発刊
文教研では、こんど月刊「文教研ニュース」を出すことになりました。[後注:実際には、「月刊」より頻度が高まっていく。ちなみに、第2号は2日後の6月6日付で発行されている。]
今まで隔月に「文学と教育」を、文教研の機関誌として出してきていますが、「文教研ニュース」はそれの補助的な意図で、新しく企画されたものです。
機関誌「文学と教育」では、主として、文教研の研究成果の集約、あるいは、新しい問題提起など、いわば、研究活動の主要なフシとなるようなものが発表されてきていました。文教研では、毎月二回ないし三回の定例研究会を開いていますが、このニュースによって、それらの研究会の討議のもよう、問題点、そして、その会の成果なりを、月毎にまとめて、会員のみなさんに、送りたいと考えています。
じつは、そういう情報によって、機関誌に発表される主要論文の理解にも役立ち、その時点における研究活動の要点をも、今までより、もっとくわしく、お知らせできるのではないかと思います。
また、このニュースのもう一つの意図として、全国各地で活躍されている文教研会員の方々の情報も、これによって、交換したいということもあります。ですから、これから、どんな些細なことでも、文教研のみんなと話し合いたい、話しかけてみたい、ということなど、事務局の方まで送っていただきたいと思います。
この「文教研ニュース」 は、全国の会員の方々に、毎月お送りします。(もちろん、今までどおり機関誌も)会員の資格は、毎月120円の会費を納入することによって得られます。
今まで誌友であった方でも、この「文教研ニュース」発行を機会に、会員になっていただきたいと思っています。そして、お知り合いの方にも、この際、積極的におさそいいただくよう、お願いします。
文教研も民教連に加入
この五月、文教研も、ついに民間教育連盟に加入しました。会員のみなさんは、あるいは、まだ入っていなかったのかと、思われる方があるかもしれませんが。ずっと以前に加入を申請していたのですが、いろんなてちがいで、今まで加入できないでいました。
今度から、いろんな新聞、雑誌などに、他の民間教育団体といっしょに動静が紹介されるようになります。
会員名簿 作成
民教連加入を機会に、文教研の会員名簿を作ることにしました。民間教育運動の中で、独自の研究・実践活動をすすめている、この文教研に、全国の多数の方が参加してくださるよう、かさねてお願いします。
▼1968/6/6 2
5月25日明星学園での月例研究会
・テーマ 生の解釈学と国語教育
・報 告 熊谷 孝
・出席者 [省略 11名]
熊谷先生の報告は、機関誌51の論文を中心におこなわれました。(ほんとうならテープをお送りしたいところです。)
まず最初に、“母国語の教育”というふうに“母国語”と概念規定することの意味を強調されました。
a. 国際的な感覚と観念を自分のものにする。
b. 外国人学校法案反対の姿勢を論理的にも明確にする。
c. 生の解釈学的ニュアンスをもつ国語教育批判の観点をもつ。
d. 第二信号系としての国語を反省しつづける視点をもつ。
第二に、非常識と反常識を区別すること。
非常識は無知にむすびつく。組合では文部省を批判し、授業では文部省直伝の解釈学方式。これでは子どもに申しわけない。学問の世界でも同様。“虚構”概念を操作していくうちに、生の燃焼による一回的なものとして芸術をとらえ、はては、芸術の永遠性という反唯物論的非弁証法的主張に転落する。(この点については、熊谷孝「書評
西郷竹彦責任編集『国民教育としての文学教育』」 日本文学’68年5月号参照)
第三に、戦前の国語教育思潮と解釈学との関連については『文学教育の理論と実践』(熊谷孝編、三一書房刊)所収、城戸、波多野論文をぜひ参照してほしい。こんにち何を受けつぐべきかが、はっきりする。(以下、省略)
▼1968/7/13 3
6月22日大綱中学校での月例研究会
「発達と総合読み」という問題をめぐって話し合われました。これは、前回の「総合読みの原理と方法」にのっとりながら、眼の前の児童生徒の、それぞれ異なった発達段階に応じて「総合読み」の具体的なありかたが、どう変わってくるかを検討しようとするものでした。
報告者と、取り上げられた教材は、(A) Fさん 小学校低学年−民話を中心に、(B)
Si さん 中学校−『あたたかい右の手』を中心に、(C) Nさん 中学校−『蘭学事始』を中心に、(D)
Suさん 高校−文学史の流れに沿った作品群、ですが、報告の内容については、各報告者の用意されたレジュメをご覧いただくとして、ただ、報告とそれについての質疑の中で提出されたいくつかの問題だけを列挙しておきます。[中略]
(A) 1.同じ民話を扱っても、総合読みといえそうなものが一応成り立ったのではないかと思われる場合と、明らかに失敗だと思われる場合とあったが、それは扱った作品の適・不適によるものなのか、それとも、その扱い方の問題なのか。2.対象は小1だが、この段階では、まだ子どもどうしの間に対話を成り立たせることがむずかしい。失敗した時の原因が、このへんにもありはしないか。また、自分の受けとった印象について、反省することがむずかしい。「かわいそう」に対して、「なぜ」と問いかけても、「だって、かわいそうなんだもん」という答しか返ってこない。それに、作中のだれかの立場にすぐ立ってしまって、その一点から、なんでも考えてしまう。文字の読み・書きに案外時間がとられる。総合読みの具体的な方法を考える中で、これらをどう解決したらよいか。
(B) 1.「印象の追跡としての総合読み」という規定がなされたわけだが、慈雨ちゃんの母に対するイメージの変化や、竹子の母に対するはじめの感想の「ふくらまし」ということを考えたばあい、「印象の追跡」ということの具体的な姿はどういうことになるのか。2.この作品を、何のために教材として取り上げるのか、また、どこに位置づけるのか。つまり、教材体系をどう組み上げたらよいかということを抜きにしては、この作品の「総合読み」は考えられない。3.文学の表現を生かしていくのには、どうすればよいのか。どうしても概念的な扱いになりやすい。
(C) 1.・科学的文章における総合読みということから。 ・科学的文章とは、いったい何か。文学的文章とは、いったい何か。 ・科学的文章といっても、ふつう学校で扱うのはむしろ、エッセイ的なものではないのか。2.「要約」の学習をめぐって。それは単に、キーワードをつなげて行くような、機械的な作業ではなく、当然、「評価」を伴うものである。だが、基本的な方向にくいちがいのある要約は要約にならない。他方、個人差は認められなければならない。方向差と個人差ということ。3.科学的文章を読むばあいの、概念的認知の支えの重要性。4.中学前期と後期とのいずれに位置づけるのかの問題。
(D) 1.高校段階は文教研にとって、まだ比較的未開拓。試行錯誤の一つのプロセスとして、日本近代文学史の流れに沿った教材群を考えてみた。(『にごりえ』−『源叔父』−『二百十日』−『田舎教師』−『破戒』)。遠く、大江健三郎の文体までのコースを予想した上でのことだが、はたしてこのように年代順でよいのか。『破戒』を中心教材としたいが、それに先行する作品として、何が、より適当か。2.『にごりえ』など高校生にとって“古文”に等しく、容易には読めない。ところが、じっくり朗読に時間をかけて、そのあと感想を書かせると、ほとんど的をはずす者はいない。いわゆる古文解釈の愚劣さを強く感ずる。3.作品を読む中で、社会保障の問題、親子関係のことなど、社会的な問題に最も強い関心を示すが、それとつながった形で、自分自身の問題は出てきにくい。自分のことは、まだめいめいの秘密にとどまっていて、口に出すことができない。(文責在編集部)
▼1968/8/15 7
大江文学を読もう
すこしずつ 大江文学を 読んでおこう!
・死者の奢り・飼育(新潮文庫)
・われらの時代(〃)
・芽むしり 仔撃ち(〃)
・性的人間(〃)
・個人的な体験(新潮社)
・万延元年のフットボール(講談社)
江藤淳『作家は行動する』をのぞいておこう!
[実現はしなかったが10月以降の例会予定に「大江文学の文体」があった。]
▼1968/11/30 11
大内寿恵麿君のリサイタル
12月10日 武蔵野公会堂
佐伯昭定氏の司会・解説
文教研後援
終わって懇親会 会費1000円(予定)
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