「読者論」の吟味  
読者論ノート――W.イーザー著『行為としての読書』の批判的検討 (7)
井筒 満

1994.3 文教研機関誌 「文学と教育」164)
   

  6 読みの過程的構造(続き)

 前回は、「読みの三層構造――読みの課程的構造の三層性」に関する、熊谷孝氏の指摘を引用したところで終わった。(『文体づくりの国語教育』P 一〇八〜一一)
 まず、その論点を確認しておこう。
 読みの過程的構造とは、「@前、A中、B先、という三層の読みの課程を何回となく――何回となくである。重層的かつ上昇循環的にくり返しながら、その文筆が媒介する刺激とそれに対する自分のパーソナルな反応・反射・反映のしかたが、印象の追跡という形で変化を遂げていく、ということにほかならない」。   @前――読みの起点、端緒的成立。その文章表現が媒介しているある事物、ある現象に関する、それと同一の事象に対する、受け手による受け手自身の反応様式の想起。
 先行体験の端緒的形成=受け手のこれまでの体験が、受け手自身の新しい体験(=準体験)を成り立たせる媒体として機能するようになる。
 A中――@に支えられながら、その文章に示されている他者の別個の反応様式との対比・対決の体験を準体験するとともに、自分にとって未知の事象や、その事象に対する他者の体験や反応の仕方などを準体験する。
 B先――Aにおいて、たちどまって考えたり、迷ったり、ある驚きや感動を覚えたりしながら、その文章の先の部分に書かれてあることへの予測をたてながら期待をいだいて読む、読み続ける。予測なり期待がそれをはるかに上回った形で――次元を異にした形で――満たされたり、反対に裏切られ失望させられる結果に終わることで、Aの準体験の内容が上昇循環的に、重層的にジグザグの変化を遂げていく。  前回は、「日常言語」と「文学言語」、「読書体験」と「現実」などについてのイーザーの見解を検討し、日常性と芸術性の相互関係の把握の仕方に欠陥があることを指摘した。そして、今回扱う彼の「レパートリイ」概念や「ストラテジー」概念の問題点も、結局は、この欠陥から生まれてきたものなのである。上記した熊谷氏の「読みの三層構造」論との対比は、この欠陥を明らかにしていくうえでも有効である。
 イーザーの「レパートリイ」概念は次のように組み立てられている。
 a 「世界」→b「現実のモデル」(固有な立場から世界を意味構成しているさまざまなシステムに準拠して生み出されたもの。社会規範などのレパートリイ)→c変形・修正(本来のコンテクストや機能からはずされ、別の環境におかれる)→d「虚構テクスト内のレパートリイ」。そしてd は、「もとの関連」と「新たな別の関連」とを合わせそなえており、前者は後者を「浮き立たせるための背景」を作りだしているのである。(『行為としての読書』P 一一六〜一二〇)
 @a→b。虚構テクストが直接かかわるのは、固有な立場に基づく意味システムによって、「世界」を整理したと ころに成り立つ「現実のモデル」だとイーザーは主張する。この場合の「現実のモデル」とは、熊谷氏の言うような、「鑑賞者の主体に屈折した、世界(事物)の反映像としての現実」を意味しているのだろうか。もしそうなら、イーザーは、読者の現実を自己の主体に媒介していく作者内部の対話過程――内なる読者との対話過程――に眼を向けていくはずなのであるが、実際はそうなっていない。その理由を明らかにするためには、イーザーの「意味システム」という概念を検討しなくてはならない。
 「……偶発性とか複合性を縮減し、それぞれ固有な立場から世界を意味構成しているさまざまなシステム」。
 「……人間の行動なり体験が偶発的な出来事によっておびやかされないようにする危険排除……」。
 「一定の期待を固定化し、規範としての価値を与え、従って、世界の体験処理を調整しうるようにしている」。
 「……どのシステムにあつても、意味の核心となる可能性は、潜在化され否定された可能性からなる背景と対照関係にある。システム理論によるとこうした選択構造は、一つのシステムが複合性を縮減するために不可欠な蓄積である」。(前掲書 P 一一九〜二〇)
 これらの引用部分に即して整理してみるならば、「意味システム」とは、「世界」に適応できるように行動を調節するため、「それぞれ固有の立場」によって「選択」された「体験処理」のシステムだということになるだろう。
 では、「意味システム」の違いを生み出す「それぞれの固有の立場」は、どのように成立するのだろうか。また、 「意味システム」相互の「対照関係」とは、rそれぞれの固有の立場」を作りだしているはずの歴史社会的な諸条件とどのような関係にあるのだろうか。
 イーザーの「意味システム」概念は、「システム理論によると……」という部分からもわかるように、「社会システム論」を下敷きにしている。したがって、「社会システ ム論」の枠組みとはどんなものかを理解しておくことが、これらの問題をさらに掘り下げていくうえで必要である。そこで、すこし回り道をして、『現代哲学概論』(岩崎允胤・鰺坂 真、編集/青木書店、一九九〇年刊)に拠りながら「社 会システム論」の特徴をみておこう。(『現代哲学概論』 P 二三七〜四一)

 「社会システムの安定性(均衡、秩序)が前提とされるため、この立場の社会理論は、社会学における保守主義的傾向を代表することになりやすい、という特徴をもっている」。
 「個人の主体的、自発的行為は、彼の内面に組みこまれた社会規範や価値によって、方向性をあたえられるのであり、秩序が可能であるのは、個人に内面化された規範や価値が恒常的であることによるのである」。
 「……行為体系の評価において、価値的要素による統合の側面に重点が置かれすぎているため、社会を成立させ、政治や文化のあり方とその発展方向を根本的に規定している社会の物質的基盤、つまり人間の物質的生活資料の生産がどのようにおこなわれているのか、という側面の理解が不十分」であり、「適応という概念によって相対化されている」。
 「社会体系の内容をなしているのは、相互行為である」が、「相互行為過程を維持する傾向が……ア・プリオリに前提されている」ため、「相互行為間の均衡が、いかにして成立するのかという問題に対する歴史的な理解の視点は、はじめから欠落している」。
 相互行為過程における人間の「役割」を重視しているが「役割の具体的内容」である「支配−被支配という階級的関係」を問題にしえない。
 「社会システムの変動の可能性を全く否定しているわけではない」が「社会体系の各部分の相互依存関係が、非常に強いと考えるため、変動の優先的原因が存在することを認め」ず、「生産力と生産関係との矛盾と、その反映である階級闘争を社会発展の原動力と力とみる、史的唯物論の理論をしりぞける。
 以上の指摘は、タルコット・パーソンズ(Talcott Parsons 一九〇二〜七九)の所説に関してなされたものだがイーザーが依拠しているルーマン(N. Luhmann)については、「社会システム論の保守的傾向のいっそうの強化を意味するものである」と、批判している。もっともルーマンについてはさらに検討する必要があるが、それは今後の課題とし、右の指摘をふまえてイーザーの「意味システム」概念を再度検討してみよう。
 イーザーの言う「世界」の「偶発性・複合性」の縮減や「意味システム」相互の「対照関係」、また「意味システム」によってつくりあげられた「現実のモデル」などは、みな社会システム論の「均衡至上主義」的発想と結びついているのではないか。そう考えてみると、はっきりしてくることが多い。「均衡至上主義を前提とし、「階級関係」を捨象してしまえば、階級的諸条件に規定された、「その行動場面(生活場面)において実践する人間主体、実践する社会的人間集団」(熊谷孝『芸術の論理』 P 一七四)において反映された「現実」の具体相――「現実」の過程的構造やそこに存在する「現実」変革の契機――には眼がむかない。 したがってまた、歴史社会的な生活場面を生きる作者と読者との相互変革をめざした伝え合いなどにも眼がむかないわけである。その結果「階級関係」を捨象して抽出された「それぞれ固有の立場」と「意味システム」の「対照関係」とが、文学(虚構テクスト)と関連づけられることになるのである。
 こうした傾向は、「現実のモデル」がどのような修正をうけて「虚構テクスト内のレパートリイ」になるかについてのイーザーの指摘(前記したb→c→dの過程)を読むともっとはっきりする。


  7 読みの過程的構造(2)  

 Ab→c→d。この過程をもう少し詳しくみよう。レパートリイは、既知の要素を「反復」することによって、テクストと読者の間に伝達を成立させる条件である「共通性」を作りだす。と同時にこの「反復」は、「既知の要素」を「変容」し、そこから「全く思ってもみなかった方向をひきだす」。
 この場合、「既知の要素」とは外界の「支配的な意味システム」であり、虚構テクストは、それらを「模写」「反映」するのではなく、それらの中にもある「潜在化され否定され、従って排除されたものと結びつく」ことで、「支配的意味システム」に「反作用」するのである。
 「……およそすべての意味システムないし思想体系は、選択決定によっていくつかの特定の可能性を排除し、そのために必然的に欠落を内包している。文学がとりあげるのは、まさにこうした意味の欠落部分である。……虚構によって、むしろ支配的意味システムから排除され、従って、そのようなシステムでとらえられた生活世界に組みこむ余地のない領域のあることが伝えられる。従って、虚構は現実の対立ではなく、むしろ現実の補完と考えられる」(前掲書 P 一二三)。
 「……テクストは、われわれがなにによってとらわれているのか、という真相を明らかにする。/同時代の哲学ないしイデオロギーといった支配的な意味システムと違って、虚構テクストは選択決定を明示しない。そこで読者は、既知の価値に対するテクストのコード転換をたよりに、テクストで行われている選択決定の動機を自分で発見せざるをえない。この過程でテクストの伝達が遂行され、もはや既知の枠組みをもってはえられない現実が読者に仲介される」(同 P 一二七)。
 「1 虚構テクストは読者に対して生活世界の中で与えられている自分の立場を超えでる機会を与える。/2 虚構テクストは特定の現実の反映などではなく、読者によって意味の違う現実の完成、あるいは、読者自身の現実の拡大である」(同 P 一三四)。
 「既知の枠組みをもってはえられない現実」を「読者に仲介」するのが文学の機能だという指摘は、この部分だけをとりだして読むかぎり、別に間違ってはいない。しかし、その「仲介」は、「支配的な意味システム」の「欠落部分」 に関する「現実の補完」として位置づけられている。「補完」「完成」「拡大」とは何を意味するのかが問題だ。
 イーザーは、この点について、文学の二つのタイプを区別して次のようにも書いている。「支配的意味システムの弱点を補う場合にも、弱点を衝く場合と同じ清算機能が発揮される。この機能をそのいずれに向けるかによってレパートリイの選択の仕方が変わってくる。弱点を補う場合には、システムに準拠する程度は高く――高度の等価性――、テクストと読者それぞれのレパートリイ内容は大幅に合致する。弱点を衝くときには、価値否認の程度が高く、両者のレパートリイは僅かしか一致しない」(同 P 一四四)。
 そして、前者が伝達上の意味を発揮するのは、「そこで問題となる価値が読者の生活世界でおびやかされている場合」であり、後者は、「慣習化した自動的な知覚や解釈ではとらえきれない」ものを読者に示し、「伝達過程そのものに注意をひきつけるように」することで、伝達機能を示す。
 両者の違いは、レパートリイとの一致度が多いか少ないかという点にあるわけだ。「弱点を衝くときには、価値否認の程度が高い」わけだが、この「否認」は、「支配的意味システム」が排除した領域(新たな意味システム)が存在することを読者に意識化させるための「否認」である。だが、この新たな意味システムに対して「支配的な意味システム」は、前者が排除した領域を代表しているわけである。つまり、両者は、虚構テクストにおいて、相互補完の関係――「均衡関係」において結びついているのである。
 イーザーは、「弱点を補う」場合にはレパートリイ相互が「垂直関係」にあり、「弱点を衝く」場合には「水平関係」にあることを強調しているが、この「水平関係」は、 相対主義的にレパートリイ相互を関係づけたところにうまれる「均衡関係」である。「社会システム論」の枠組みによってイーザーが考えているからこそ、こういう位置づけになるのだろう。
 また疑問なのは、「弱点を衝く」機能が必要とされてくる歴史社会的必然性に関する指摘がないことである。「弱点を補う」必要性が生まれるのは「そこで問題となる価値が読者の生活世界でおびやかされる場合」であるなら、「弱点を衝く」必要はどこから生まれてくるのか。
 「弱点を衝く」必要性は、イーザーの用語を借りるなら「そこで問題となる価値が読者の生活世界でおびやかされる」状況があるからこそ、生まれるのである。イーザーはここで主に既成の価値やモラルにしがみつこうとしている読者を想定しているようだ。だが本当はそれだけではなく支配階級の価値観やモラル(支配的意味システムの中心はここにあるはずなのだが)によって飼い馴らされ疎外されている自分たちの姿に気づき、自分たち本来の階級的・世代的立場をみつめ、自分たちの実践にとって必要な価値観やモラルを探究しようとする志向が読者のなかに生まれたときに――またそのような志向を生み出す歴史社会的な矛盾が存在している時に――、「弱点を衝く」ことが文学的コミュニケーションの重要な課題となるのである。言い換えれば、そういう志向をもった作者と読者相互の文学的コミュニケーションにおいて「弱点を衝く」という機能も発揮されるのである。
 「弱点を衝く」ことによって発見された新しい価値観・モラル・可能性というのもその源泉は、読者の日常性の中に存在している。文学はそれを汲み上げ再組織(対話過程 のなかで行われる)した形で読者に返し、そのことによって読者の日常性自体を高めていくのである。
 だが、イーザーは、虚構テクストの理解を可能にする条件として読者の意識の中にすでに存在している「支配的意味システム」 についてはさかんに言及するが、いま指摘したような読者の日常性についてはふれない。「支配的意味システム」から排除された領域に虚構テクストは眼を向けるというのだから、その排除された領域がこの日常性に対応するのかと考えてみてもどうもはっきりしないのであ る。
 読者の日常性の中に矛盾・対立・葛藤という動的な過程が存在しているからこそ、そういう過程と結びついて虚構テクストにおける「支配的意味システム」の「変形・修正」も可能になるのである。だが、イーザーは、読者の日常性を、「変形・修正」される対象としての「支配的意味システム」という点だけで重視し、「変形・修正」という機能そのものの源泉としての日常性を無視しているのである。
 前記した読者の世代性・階級性に根ざした対話として、文学のコミュニケーション機能を把握するならば、そこでの「支配的意味システム」との関係は、均衡や相互補完ではなく対決の過程だろう。確かに、新しい価値観・モラル等々は、「支配的意味システム」による疎外との持続的な対決なしには創造できないという意味では、両者は切り離せない関係にあると言えるが、それは「均衡関係」ではない。
 イーザーは「弱点を衝く」という指摘によって、文学の積極的な機能を解明しようとしているのだが、それは、文学を内在的に規定している歴史社会性(=作品創造の過程において作者内部に反映された内なる読者・本来の読者の世代性・階級性)をふまえた分析になっていない。そのため、「弱点を衝く」という場合でも、虚構テキストの機能分析が機械的になっている。その点を再度説明すれば次のようにな る。
 「支配的意味システム」をAとし、Aによって排除される領域を(a)としよう。すると、テキスト外の現実(現実のモデル)は、A(a)となる。これが、テキスト内にとりこまれると、a(A)という関係に変えられるわけである。しかも、A(a)とa(A)とは、補いあつているわけだから、「現実の拡大」とはA+aということになるだろう。つまり単純化していえば、文学の機能が足し算方式で説明されていることになるわけである。
 だが、文学的コミュニケーションの内容は、足し算方式では解明できない。文学はどのような契機において読者との対話を実現し、またその体験を再組織していくかを明らかにしていく必要がある。ここで、冒頭に紹介した熊谷孝氏の「読みの過程的構造」論にもどることにしよう。


  8 読みの過程的構造(3)

 熊谷氏は、読みの起点を「先行体験の端緒的形成」に求 めている。イーザーの「レパートリイ」概念と、熊谷氏の 「先行体験」概念とを比較するために、氏の『言語観・文学観と国語教育』明治図書/一九六七年刊)から引用する。
 私たちは、芸術作品の鑑賞において、「ギクリときたり、ハツとさせられたりする」わけだが、それは、「感情ぐるみの事物体験、意味体験」がなりたったことを示している。 その体験は、また、「フィクションがもうフィクションだと思えなくなる、というか、フイクショナルな現実が現実以上の現実に転化した」ときに生まれる体験である。
 したがつて、「小説を読んでいる中に、いつのまにか自分がいま小説を読んでいるんだということを忘れるというか、生活過程の中にかえって考えたり感じたりしているという恰好になつて小説を読みふけつている状態、そういう状態になってきたときに、じつは真実の意味において自分が芸術過程の中にある、といえる」わけだ。
 芸術過程における「未知なものとの対峙、非日常性の発見」という場合の「新しさ」とは、「読者の自我とは関係のないみたいなただの新しさ」や「ぜんぜん未知の事柄」なのではない。「読者はじつはそれを経験している」のだが「今はすでに忘却の彼方という格好」になつているのである。「未知・未経験なことをいきなりつきつけられたものでハッとさせられたんだ、と自分では思って」いるが「じつは自分で記憶をよぴさましてハッとしている、というのが現実の事実」なのである。
 「読者、鑑賞者のがわにその体験がわかるような感情の素地や体験、もとになる体験があってこそその作品がわかるのだ」。「わかる」というのは、「自己の反応様式の想起というかたちでか、新しい反応様式の喚起というかたちでか、ともかくその作品形象が媒介している感情にこちらの感情がつながって」いき、「その作品の主人公なら主人公の生き方に共感したり、その生き方の裏返しの生き方のほうに共感したりということで、自分自身の行動なり実践に対する構えが準備されてくる」ということである。(P 一二九〜三七)
 熊谷氏は、芸術過程における新しさとの出会いの原因を読者自身の「感情の素地」――「もとになる体験」と関連づけて説明している。また、芸術体験を「感情ぐるみの事物体験、意味体験」と位置づけている。これは、芸術体験を、読者その人の全人格的な反映活動としてとらえ分析しようとしているためである。イーザーの場合、こうした立場で対象を分析しようとしていないために、彼の「レパー トリイ」は、虚構テクストによって縦や横に並べ変えられる「部分品」のような印象を与えるのである。熊谷氏は、さらに、映画『二十四時間の情事』を例にあげ、「もとになる体験」とは何かを「先行体験」という概念によって再整理している。
 「舞台は戦後の広島です。若いフランス女性がノーモア・ヒロシマの広島へやってきて、日本の男性と恋をするのです。かりそめの恋、ゆきずりの恋なのですけれど――。その恋の一場面なのですが、女は男にむかっていうのです。『わたしはフランスにいたころから、ヒロシマを知っている。記録映画でも見たし、いろんな本で読んだ』というふうにですね。相手はひとこと、『きみにはヒロシマはわからない。わかるはずがないのだ』」。
 「ともかく、彼のほうでは実感しているのですね、これがゆきずりの恋にすぎないことを。そういうゆきずりの感情でつかまれたヒロシマが、真実のヒロシマでないことも、また彼は感じとっているのです」。
 しかし、やがて「彼女にヒロシマがわかるときが、つま り意味においてヒロシマを実感するときが訪れます。今はない恋人の顔が、眼の前の恋人の顔とかさなりあったときにおいてです。彼女自身の戦争体験がヒロシマの体験と重なり合い、結びついたときにおいてです。さらにいえば、自分の過去の体験がヒロシマの体験、日本人のヒロシマと結びついたときに、自分自身の戦争体験が意味においてつかみなおされた、ということ、先行体験が形成されたということなのです」。
 個人は、「その個人が所属する民族社会の共通する体験――過去につながり未来をさきどりする形の時空的なひろがりを持つ体験に媒介されて生きている」わけなのだから 「先行体験」も「自己の直接的な体験に限定された体験ではない」。
 「……過去における自分の、ある事物とのある接触のしかた、あるいは過去の事物体験、それが、現在の自分自身の行動体系につながるかたちの、ひとまとまりの体験になったときに、そういうまとまりをもった体験になってきたときに、それをわたしは“先行体験”とこう呼んでいるわけです。つまり、最初から先行体験がそこにあるとか、あった、ということではなくて、先行していた何かが体験と呼ばれていいようなものとして形成される、された、ということなのです。そして、この先行体験と新しい体験とがいわば同時的にかさなりあってそこに形成されるというか成り立つ、という、そういうつかみ方なのですよ」。
 「わたしのいう先行体験というのは、だから別の切り口でいうと、新しい体験そのものだ、ということになるのです。新しい体験という、その体験の新しさを規制するものが、つまり先行体験のありかたである、というそういう関係なのですね」。
 「先行体験の形成と成立、それは意味の発見ということです。鑑賞体験――それは、日常性における体験的事物に関しての意味の発見ということなのですね。感情ぐるみの事物の、別個の感情による意味体験なのですね」。(P 一四〇〜四六)
 作品形象との出会いにおいて、「素地」が「先行体験」に転化し、その「先行体験」が媒体となって鑑賞体験が進行すると、熊谷氏は指摘している。「素地」がなくては、何もはじまらないが、「素地」が単なる「素地」にとどまっていたのでは、真の鑑賞体験は成立しないのである。それが「現在の自分自身の行動体系につながるかたちの、ひとまとまりの体験」に転化したとき、はじめて鑑賞体験が成立する。
 では、そのような転化はどのようにして実現するのか。 『二十四時間の情事』に即していえば、「自分の過去の体験がヒロシマの体験、日本人のヒロシマと結びついたときに、自分自身の戦争体験が意味においてつかみなおされた」ときに、それが実現するのである。これは、言い換えれば「自分の体験」を、「ヒロシマの体験」とつながり合う体験として、そのような普遍性の中でとらえなおしたということ だろう。そして、普遍の中の個として、感情ぐるみに体験の意味をつかみなおすことは、同時に、自分の生き方の方向性をそうした普遍性をふまえて問いなおし、発見してい くことでもある。
 もちろん、この普遍性は、世代的・階級約な普遍性である。作者の側から言えば、そうした普遍性につながりうる読者の、「その生活、その生活意識、その生活感情のわく組みを前提として」、表現活動を営んでいるわけである。
 「素地」の「先行体験」への転化という熊谷氏の指摘は鑑賞体験が成立する過程を、日常性と芸術性との相互関係のなかでトータルにとらえている。このことは、イーザーの「既知のもの」に対する扱い方と比較すれば、いっそうはつきりする。
 「……(1)既知のものの価値転換によって、読者はまず第一に、テクストの中で価値を失った規範を適用しているのは、本来自分にとって既知の状況であるために、状況に対する意識が鮮明になる。(2)既知のものの価値転換は、テクストにおける一種の頂点を示し、それとともに既知のものが記憶の中に後退して行く。だが、テクストの中に等価系を求めるためにはこの記憶に頼るほかはなく、その限りでは等価系は既知のものと対立するか、あるいはそれを背景として構成されることになる」(前掲書 P 一四一〜二)。             

(この項続く)

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