「読者論」の吟味  
読者論ノート――W.イーザー著『行為としての読書』の批判的検討 (6)
井筒 満

1993.11 文教研機関誌 「文学と教育」163)
   

  3 「虚構言語」と「日常言語」(続き)

 前回は、イーザーが、『トム・ジョーンズ』の作中人物であるオールワージイをとりあげて、自説を展開している部分(邦訳一〇八ページ〜一〇九ページ)を引用し、イーザーの「類似記号」という概念に対する疑問点を、簡単に指摘 したところで終わった。今回は、この部分におけるイーザー の論旨を整理することから始める。
 @ a オールワージイは、最初に「完全無欠な人間」として紹介される。だが、b ついで偽善者のプライフィル大尉に引き合わされると、たちまちのうちにえせ信心のとりこになってしまう姿が描かれることで、オールワージイの判断力のなさが示される。
 A つまり、a は完全無欠な人間としてのオールワージイを表示するためにだけ用いられているわけではなく、b のような記号内容を作りあげるための指示なのである。
 B 記号と対象との直接性が否定される度合いに比例して、想像するための条件を示すという類似記号の機能は充たされる。
 C a→b によって、完全な男に判断力が欠けているのを見て、読者は完全という言葉でなにが意味されるのかと考えざるをえなくなり、完全無欠という言葉についてもっている経験的価値を思い起こし、場合によっては修正することもしなければならなくなる。

 イーザーの指摘を検討するためには、実は、『トム・ジョーンズ』についての作品論を展開する必要があるのだが、私はまだこの作品についてキチンとした検討をおこなっていないので、その点は今後の課題とし、ここでは、@〜Cにはらまれていると思われるイーザー理論の問題点をとりあえず指摘しておくことにする。
 イーザー理論の問題点は、C→@ABという順序でその論旨をたどっていくとより明確になると思う。Cに「読者」がでてくることでもわかるように、@ABの指摘は実は一定の「読者」を前提にしているのである。
 では、それはどんな「読者」なのか。フィールディングの描いているオールワージイのような人物を「完全無欠」な人間と考え、また、オールワージイをそのように描くことに共感する「読者」である。そしてもちろん、この「読者」は、オールワージイのような人間は、まともな「判断力」をかねそなえているはずだと信じているわけである。
 オールワージイをいくら「完全無欠」な人間として描いても、そのことに共感しない読者やもっと別の人間像に対して「完全無欠」性を感じる読者は、こうした表現をうけいれないだろうし、まして、「判断力の欠如」という欠点が後で示されてもショックなど感じないだろう。だから、イーザーは、事実上、特定の「読者」を前提にして議論を進めていることになるわけだ。この点について、中村敦雄氏が紹介しているフィッシュ(Stanlay Fish)のイーザー批判が参考になる(「文学教育のs基礎理論研究」/「読書科学」 一三四号・一九九〇年)。
 「オールワージイの例で考えてみる、イーザーの主張が説得的なものになるのは、人格の完全無欠さが偽善者とは相容れない性質であることが理解された場合である。……だが、完全無欠さと、オールワージイの性格として描写された意志の弱さとが表裏一体であると感じる読者を想像することもできる。こうした読者にとっては、オールワージイには、何の断絶も見いだし得ない。……私はここに出した読み方をイーザーのそれと競わせるつもりはないが、起こる可能性のあるものだということは指摘しておく。」
 フィッシュの指摘を媒介にして考えれば、イーザーは、「人格の完全無欠さが偽善者とは相容れないと感じる読者」に対して、最も訴えるところのある表現(虚構言語)として、『トム・ジョーンズ』の文体をとらえているということになるわけだ。だが、イーザーはそのことを自覚していない。もし自覚しているならば、この作品の表現が、私が さっき指摘した「読者」やフィッシュの言う「完全無欠さと、オールワージイの性格として描写された意志の弱さとが表裏一体であると感じる読者」などに向けられた表現ではないことを当然説明すべきだろう。
 そして、そのためには、熊谷孝氏が指摘しているように「言語の場面規定――作者・作品の文章・読者(作品本来の読者)の三者の相互規定」のあり様をさぐり、「その作品本来の読者へ向けて用意されている視座」とそこに反映されているはずの「作家の創造主体」を明らかにしていく必要があるのだ(『芸術の論理』一九七三年・三省堂)。
 だが、イーザーは、その点を本格的に追究しようとしない。そのために、「完全無欠な人間としてオールワージイ を叙述している」ということが、誰にとっても自明であるかのように考えることになるのだ。イーザーは、その「完全無欠」さがどういう主体にとってのそれであるかをキチンと分析していない。作者はとにかく最初に「完全無欠」な人間として、オールワージイを描いているというのだ。
 そして、「表示体はそれが直接表示している完全無欠という性質そのものを再現するわけではなく、完全無欠と思わせる表象条件を提示している」と指摘する。だが、表示体が「直接表示している完全無欠という性質」とはいったい何か。イーザーはこの点について、「オールワージイと いう名前、彼の美質、そしてパラダイス・ホールの屋敷といったように、完全さが言葉によって指示されると、まず彼には欠けたところがあるなどと予測はできない」(P 一 〜二)とも書いている。
 イーザーは「完全さが言葉によって指示され」ているというのだが、その「完全さ」に言及するときにはその独自性(歴史社会性)にはふれない。そして、「完全さ」「完全無欠性」が否定される過程において、「歴史社会性」にふれるようなそぶりをみせるのである。Cとして要約した部分や次のような部分がそれである。
 「完全さに欠けている点をフィードバックで摘出する過程は、次の二つの重要な働きをもっている。1 表示体が直接指示をしていない意味内容を構成し、2 それによって、テクストが意図している〈完全無欠〉とは特殊なものであることを理解する枠組みを作り出す。」(P 一一二)
 「〈完全無欠〉とは特殊なもの」という認識は、予想が裏切られることによって生まれるというわけだ(「特殊なもの」とは、歴史社会的な特性ということだろう)。
 だが、「欠けたところなど予想できない」ような描き方をしていながら、その後でそれと矛盾するようなその人物の姿を描く場合、「支離滅裂でリアリティーに乏しい」という印象を与えないための歯止めはどこにあるのか。それは、最初の描写部分自体が、「完全無欠さ」をその独自の個性において描いている場合である。そういう場合に、読者は自分の読みを問いなおし深めることも可能になるのだ。
 だから、イーザーは、認識の転換を語るならば、「完全無欠さ」を描いているというその部分のなかで、その様な転換につながる諸契機がどのように作りだされているかを分析すべきなのである。「完全無欠さ」のとらえ直しも、そのような諸契機の発見と結びついて実現するのではないだろうか。
 a=「完全無欠さ」の描写→b=aと矛盾する側面の描写→c=aの特殊化――単純化していえばこれがイーザーの分析の仕方だ。だが、この分析では、a の部分の「完全無欠さ」が何か誰にとっても自明な「完全無欠さ」一般であるかのように扱われているために、a とb との対立が機械的対立になってしまい、各部分の相剋をとおして顕現する作品内部各部分相互の関連――統一の契機――が不明確になってしまうのである。


  4 日常性と芸術性(1)  
 
 ここで、もう一度、イーザーが前提にしている「読者」の問題にたちもどろう。「……完全さが言葉によって指示されると、まず彼には欠けたところがあるなどとは予測できない」という指摘は、前にも書いたように、作品の表現に示された「完全さ」に対して共感し、何ら疑問を感じな い「読者」、オールワージイの欠点を「予測できない読者」を前提にしている。だから、イーザーは、本当ならば、作品の文章の具体的な分析をとおして、その表現がどのような読者を予想したものか明らかにしなければならないわけだ。だが、「どの受容者も演じることになる役割の構図を示している」という「内包された読者」概念に災いされて、イーザーはその問題から目をそらしてしまうのである。
 「読者」が、その描写を通して、オールワージイは「完全無欠だ」と実感する場合、「読者」の実感は何を基盤として生まれてくるのだろうか。そのような実感を支えているのは、言うまでもなく「読者」の日常性である。「読者」が日常性において、そうあるべきだと感じている「完全無欠さ」とオールワージイが接点をもち、また、後者によって、そのような実感が生まれるのである。イーザーの指摘どおりに読みが進行するとしても、「虚構言語」は、「経験的現実」(体験の日常性)と深く結びついているのだ。
 さて、イーザーによれば、作品の展開過程において、このような実感は否定され、「読者」は自己の「経験的価値」を問いなおし、「修正」することになるわけである。だが 「矛盾」する側面が提示されたからといって、誰でもが自分の「経験的価値」を「修正」するわけではない。「修正」 しうるのは、自己の体験の中に「修正」をもたらすような要因が存在しているからである。
 「外部の原因は内部の原因を通じて作用する……鶏の卵は適当な温度を与えられると鶏に変化するが、しかし温度は石を鶏にかえることはできない」(毛沢東『矛盾論』岩波文庫 P三七)わけである。自分が信じている「完全無欠さ」に対して、たとえ明確には意識していないにせよ、心の中でなんらかの矛盾を感じており、また、自分(たち)の生活の中でそれを感じさせる要因が再生産されているからこそ、具体的な形象との出会いをとおして、それらが再組織され新たな自己凝視が始まるのである。
 これは、作者の側から言えば、作者は現実の読者の内部に潜むそうした矛盾を軸にして再構成した「内なる読者」との対話をとおして、作品を書いているということだろう。
 これらの点をふまえて作品を分析するならば、イメージの変革過程やそれを実現する作品内部各部分の相互の関連の具体的ありようがいっそう明確になってくるはずなのである。『トム・ジョーンズ』に即した具体的な反論はいずれ改めて行いたいと思うが、イーザー理論の以上のような問題点が、作品論全体を一面的なものにしているだろうことは、十分に予想できるところである。

 イーザーは、『トム・ジョーンズ』を例にあげたあと、「テクストと読者」との一般的な関係を次のように説明している。
 a 「読者とテクストの伝達は、動的な自己補正の過程をとる。読者は意味内容を組み立てて行くが、絶えず修正を強いられるからである。テクストの伝達過程はサイバネティック的であって、場面の枠組みが変化するにつれて、効果(作用)や情報のフィードバックが行われる。小規模な単位は次第に大きな単位となり、意味が意味を呼び、いわば雪だるま式に進行して行くわけである。」(P 一一二)
 b 「テクストと読者との相互作用は生起的な性格をもっており、それがもとになって、読書の間は、現実の出来事の中にいるような印象をもつ。こうした印象はバラドックスめく。虚構テクストは所定の現実を指示するわけでも、読者がいだいていそうな行動様式を写しとるものでもないからである。それどころか、虚構テクストは、読者と共通な文化コードに結びついているわけでもない。発話として欠陥のあるこの様態が、読書過程にあって、現実の印象を呼び起こすのは、この〈現実〉がなにかもっと基本的なもの、すなわち、現実そのものの性質から生じてくるからで ある。」(P 一一三)
 c 「読書そのものも生起的な〈偶発〉である。つまり、われわれが読み進んだところまでは、一応まとまりのある場面の性格をもつが、それは確実であると同時に流動的である。確実なのは、われわれがテクストに対して、場面ごとに新たに一定の態度をとらざるをえないからであり、また流動的であるのは、そうした新たな態度の手直しの種を含んでいるからである。そこで、読書は偶然の出来事と して経験される。しかも偶然とは現実の品質証である。ホワイトヘッドは、現実化の過程は美的な成果をともなうという。なぜなら、現実は移ろいいく像の連続でしか表現しえぬからである。これらの像は、読書過程において、絶えずさまざまに場面の枠組みを変える意味内容にあたる。こうしてまた、読者の位置も絶えず変化する。テクスト全体は決して一挙にとらえるものではなく、一連の変化する視点としてしか考えられない。視点の一つひとつは限定されているが、さらに大きな見通しを作り出す。これこそは、 読者がテクスト全体を包括する場面を〈現実化〉する過程である。」(P 一一四〜五)
 イーザーは、a で「テクストと読者」との関係を、「自動制御機構のモデル」にたとえて説明している。このモデルの中で、読者は能動的な役割を果たしているようにみえる。だが、良く考えてみると、このモデルでは、読者の能動性がどこから生まれてくるのかが、結局わからないのである。読者は、一方的にテクストから情報を与えられ、それによって「自己補正」するように誘導される存在にすぎないのだ。したがって、作者もまた、ここでは、単なる誘導者である。内なる読者との対話による相互変革の過程・作者自身の自己変革のプロセスの反映として作品の展開過程を位置づけ、作品の文体的特性をさぐるという観点は、ここからはうまれてこない。
 また、読者が作品と対話・対決することによって、その作品の積極面を軸に作品を再構成していくという過程――発展的再構成の過程も、イーザーの観点では見えてこないだろう。
 そして、こうした難点は、b・c に示されているような読者の「現実」と作品との相互関係――日常性と芸術性との相互関係に関するイーザーのとらえ方から生まれている のである。


  5 日常性と芸術性(2)

 イーザーは、「読書の間は、現実の出来事の中にいるような印象をもつ」と書き、その原因を追究している。「虚構テクストは、読者と共通な文化コードに結びついているわけ」ではないから、この印象は「現実そのものの性質から生じてくる」はずだ。「現実」は「流動的」であり「偶然」性こそが「現実の品質証」である。そして、「読書」もまた「偶然の出来事として経験される。」つまり、両者が、偶然性という共通性をもっているからこそ、読書過程で、「現実の出来事の中にいるような印象をもつ」のである。
 イーザーが「現実そのものの性質」をわざわざ強調するのは、歴史社会的存在としての読者のあり様から切り離して、読書過程を論じようとしているからである。あるいは歴史社会性は、読書過程にとって副次的な側面にすぎないことを示そうとしているからである。そしてそのために、「現実」の一面を、その具体的内容から切り離して取り出し、それこそが「基本的なもの」だとしているわけである。
 だが、このような「現実」分析によって、私たちの読書過程の内実は解明されるだろうか。いったい「現実」とは何か。前にも引用した熊谷氏の次の指摘に目をむけよう。
 「文学・芸術にとって現実とは、その本来の鑑賞者のリアリティーにおける現実ということ以外ではない。言い換 えれば、鑑賞者の主体――鑑賞者という媒体――に屈折した事物=世界の反映像としての現実のことにほかならない。作家の任務と投割は、鑑賞者として自分が選び取った対象のアクチュアリティーとリアリティーに立って行動することである。」(『芸術の論理』P 一一八)
 「現実の出来事の中にいるような印象」が生まれるのは歴史社会性を欠いた現実の偶然性によるものではなく、作品の描いている現実が、鑑賞者にとっての現実とつながりあっているからである。逆に言えば、鑑賞者が自己の現実と作品の描く現実との間に接点を見つけるからこそ、そのような印象生まれるのである。
 「わたしたちが小説を読んでいて、そこに小説(フィクション)を感じ、今、自分は小説を読んでいるんだということを意識している間は芸術過程は成り立たない。それが小説でなくなった時に、言い換えれば何かを読んでいるという感じではなく、自分がそこに一枚加わって生活過程の中にあるという感じになってきた時に、実は芸術過程の中に自分自身がいる、ということなのだろう。」
 「つまり、芸術の源泉は日常的な生活過程の中にあると同時に、芸術作品が芸術作品として機能し作用するのも、その体験の日常性――生活過程とのつながりにおいてである。」(同 P 二五〜二六)
 日常性と芸術性との弁証法的な相互関係が、ここに明確に指摘されている。イーザーのように、「現実の出来事の中にいるような印象」を説明するために、「現実」を偶然性一般などに還元する必要はないのである。
 また、文学・芸術の対象とする現実が「鑑賞者のリアリ ティーにおける現実」であるならば、そこで実感される偶然性というのも、その鑑賞者主体にとっての生活の実感において把握された偶然性ということになるはずである。作者は、そのような偶然性をとりあげ問題を追究するわけだ。
 例をあげよう。熊谷氏は、『野火』(大岡昇平/一九五二年) について、次のような指摘をしている(『現代文学にみる日本人の自画像』 一九七一年・三省堂 P 二四三〜五)。
 「『戦争へいくまでは、私の生活は個人的必要によって、少なくとも私にとっては必然であった。』と、いまは母国の精神病院に収容されているレイテ島の一敗残兵は語るのである。『それが一度戦場で権力の恣意に曝されて以来、すべてが偶然となった。』」
 「こうして生還したことも偶然なら、その結果である今の病院生活も、何もかもが偶然にすぎない。いっさいは偶然であり、偶然の所与にすぎない。したがって、生がそうであるように、死もまた偶然のたわむれにすぎない。今の自分の意識においては、そう考えるはかないのだ。」
 「現地の司祭館で、彼は女を殺した。けれど、『私が殺人者となったのは偶然である。』それは、彼が潜んでいた家へ彼女がはいって来たという偶然のために披女が死んだ、というだけのことである。
 なぜ、射ったか?
 女が叫んだからだ!
 弾丸が彼女の胸の致命的な部分に当たったのも偶然だった。彼はほとんど狙いはしなかったのだから。これこそ、まさに、事故と名づくべきものである。
 事故である。だが、それではなぜ、そうした事故は起こったのか? ……
 『すべてはこの銃にかかっていたのを、私は突然了解した。もしあの時、私の手に銃がなかったら、彼女はただ驚いて逃げ去るだけですんだであろう』から。」
 「『権力の恣意』にさらされる状態が過ぎさらぬ限り、また『個人的必要』がそれとして社会的調和をもたらすような時が訪れない限り、私たちは永遠にこの『偶然』の前に拝跪し続けねばならぬ、ということを、作者は語りたいのでもあろうか。」
 「『銃』というこの言葉が、われわれに『銃を執らしめたもの』を意味し、さらにまた『銃を執らしめようとしているもの』をも含めて言っているとしたら、問題は大きく転回する。」
 がそれはともかく、「精神病棟のこの復員者の観察と倫理感覚を一面肯定せざる得ないような、そういう歴史社会的シチュエーションの中で当時人々が生活していた、ということは確たる事実のようである。人々がその作品の中で出会ったのは、さまざまな意味をこめての、実はめいめいの自分であった。」

 熊谷氏のダイジェストとコメントは、『野火』という作品の心臓部を読者に媒介するものとなっている。イーザーの見解と対比した場合、次の点に注目したい。
 まず、『野火』において「現実」の偶然性は、「権力の恣意」に常時曝されている民衆にとっての「現実」の偶然性として描かれているという点である。そして、そのような「現実」の偶然性にリアリティーを感じうるのは、作中人物の抱える現実とつながりあう「歴史的シチュエーション」の中で生活している人々である。「現実」の偶然性とは、このように具体的な内容と結びついているのであり私たちが日常生活において出会うのも、また文学作品の鑑賞過程において出会うのもそのような偶然性なのである。内容を欠いた過程それ自体、偶然それ自体などにリアリティーなどを感じているのではないのである。(イーザーも本当は自己のある種の「偶然性」体験に基づいて、それを概念化しているはずであり、その点は、前にふれた「読者」概念の場合と同様である。したがって、その体験のあり方や体験の一般化の仕方を規定しているイーザーの立場が追究されねばならないわけだが、それは、イーザーのレパートリイ論を総括するさいにふれることに したい。)
 また、『野火』の原文や熊谷氏によるダイジェストを通 して見えてくることの一つに、偶然性を通して必然性―― 「権力の恣意」の貫徹という必然性――が姿を現すという問題がある。読者は、『野火』の鑑賞過程において自分の現実の中に潜むそのような必然性に出会うのである。
 さらに――これは熊谷氏のダイジェストでは直接には言及されていないが――戦場において銃をすてるという「私」の行為(その行為を導く思索のあり様)の描写は、現実変革へむけての形象的思索を、読者の内部につくりだしていく契機にもなっている。そして、自己の日常の生活過程の中に、現実変革の契機が存在していることを、作品の鑑賞をとおして実感しえたとき、そのような思索が可能になるのである。
 これは「権力の恣意」の貫徹によって翻弄され続ける現実の中に、その変革への可能性の追究をとおして、「必然的にして可能な現実」を発見(先取り)していくことでも ある。
 イーザーは、「現実」が一つの「過程」であるという点から、「現実」の根本的な性質としての「偶然性」という概念を導きだしているわけだが、「現実」の過程的構造はいままでみてきたように立体的であり、歴史社会性を徹底的に追究することなしには、その姿を明らかにすることはできないのである。


  6 読みの過程的構造

 では、日常性と芸術性との弁証法的相互関係において、読みの過程的構造を問題にするとはどういうことか。次の熊谷氏の指摘に目をむけよう(『文体づくりの国語教育』一九 七〇年・三省堂 P 一〇八〜一一)。
 「本来的な意味での読みの三層構造――読みの過程的構造の三層性――というのは、あらまし次のようなことだろ う。」
 「読み」の過程的構図とは「@前、A中、B先、という三層の読みの過程を何回となく――何回となくである――重層的かつ上昇循環的にくり返しながら、その文章が媒介する刺激とそれに対する自分のパースナルな反応・反射・反映のしかたが、印象の追跡という形で変化を遂げていく、ということにほかならない。それが、読みの三層構造ということなのである。」
 「@読みによるその文章の内容の理解――この、文章の内容の理解ということが、いわゆる意味での文章の理解ということの実際の中身だ――は、その文章表現(あるいは記述)が媒介しているある事物、ある現象に関して、それと同一事象に対する、受け手による受け手自身の反応様式の想起、という形でまず端緒的に成り立つのである。自己流の言いかたをすれば、先行体験の端緒的形成という形で成り立つ、ということである。」
 「言い換えれば、受け手のこれますの体験――と一応そう 言っておこう――が、受け手自身の新しい体験(=準体験)を成り立たせる媒体として機能してくる形になって、初めてその文章の理解が成り立つというか、文章理解への端緒が用意される、ということなのである。そういう限りにおいて、読みが読みとして成り立つ――つまり、文章が媒介する内容が受け内容として成り立つ――第一次の層は、自己の反応様式の想起という、その文章に接する以前の受け手の体験との関係・関連の中に求められるわけである。第一次の層を前と記した理由である。」
 「で、そのようにして、そこに想起された自己の反応様式をささえとしながら――あるいは、それにささえられなが ら――、受け手は、Aその文章に示されている他者の別個の反応様式との対比・対決の体験を、そこのところで準体験するのである。むろん、自分にとって未知の事象や、その事象に対する他者の体験や反応のしかたなどを、その文章の記述や表現に媒介されながらその片側で準体験しつつ、 ということにほかならない。」  (この項続く。)                  


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