「読者論」の吟味  
読者論ノート――W.イーザー著『行為としての読書』の批判的検討 (5)
井筒 満

1993.4 文教研機関誌 「文学と教育」161)
   

  1 前回の要約

 前回は、『行為としての読書』(轡田収訳/岩波現代選書)のT章前半部をとりあげ、次のような点にふれた。簡単にまとめておこう。
 @イーザーは、文学の特性を規定するものは、読者との相互作用という機能であるとして、反映論を否定している。だが、イーザーは、そこで反映を、「体験的事実」や既成の社会規範の受動的な引き写しと考えているにすぎない。文学を反映の独自な形態と認めることは、作品と読者との相互作用を否定することにはならず、むしろ、反映であるからこそ、独特の相互作用が実現するのである。
 A熊谷孝氏が指摘するように、文学というアピアランス(現象)を顕現させる反映とは、すぐれて〈媒体による反映〉なのであり、その場合の〈媒介者〉こそが、読者=鑑賞者なのだ。読者を問題にすることは、文学の反映機能を解明することにつながってこそ、生産的な意味をもつ。
 Bまた、イーザーは、文学のもたらす新しさとは、「支配的価値によってうみだされたマイナス面を露呈」することにあると指摘し、文学作品を時代精神の反映とする考え方を否定している。イーザーはこういう言い方によって、文学的反映・認識を、典型の認識として把握することを否定しているのである。だが、「マイナス面の露呈」にしろそれをなしうるような主体が形成されていればこそ可能なのだ。その主体は、階級性・世代性を担っているはずであり、作者はそのような普遍性とのつながりにおいて、現実を対象化していくはずだ。イーザーは典型とは何かを解明 しようとしないために、文学のもたらす新しさが、典型であるがゆえの新しさである点に目をむけない。
 さて、今回は、少しペースを早めて、U章「機能史から見た文学のテクストモデル」を読みすすめていきたい。T章で残っている問題も、U章とを関連づけることでより明確になる側面があると思う。


  2 「二重の回路」と「伝え合い」

 U章においてイーザーは、虚構テクストの「レパートリイ」と「ストラテジー」について論じている。
 「テクストと読者とは、場面があってこそ出会うわけであるから、こうした場面があらかじめ与えられていない虚構テクストは、場面形成のために必要な要素をそなえていなければならず、また場面形成が成立することによって、テクスト理解の過程が開けてくる。」
 そして、「場面形成」のためには、次の三要素が必要である。
 @レパートリイ(貯蔵)。これはテクストに取り入れられた「テクスト外の現実」であって、「既存の知識」・様々な「社会規範ないし歴史規範」・様々な「慣習」・「伝統」などを含んでいる。これらの要素は、虚構テクストの中で、「テクスト外の現実」の中にあるときとは別な新たな関連をもつことが可能になるが、同時にもとの関連も残っており、後者は前者を浮き立たせる背景を作りだしている。レパートリイはこのように「外界に対するテクストの関与の仕方」を示している。
 Aストラテジー(計略)。「ストラテジーの主要な任務は テクストの〈内部構造〉を組み立てるところにある。すなわち、ストラテジーはさまざまな規範をテクストの内部で結び合わせ、読者が産出する美的対象の枠組みを予示している。」テクストは「さまざまな遠近法の集合体」によって組み立てられており、「この遠近法は、基本的に四種類あり、語り手、登場人物、筋、そして読者の想像にゆだねられる部分(虚構の読者)に分かれる。」そして、「テクストを遠近法の組み合わせとして構成していく」構造が「ストラテジーがもつ基本的な結合ルール」である。
 B「レパートリイ」と「ストラテジー」の媒介によって読者がテクスト全体を包括する場面を現実化(実現)する過程。

 右の諸点を検討する前提として、日常的なコミュニケーションと文学的なコミュニケーションとの関係――さらに言えば日常性と芸術性との――関係についてのイーザーの見解を確認しておく必要がある。この関係把握に問題があれば、それは必ず「レパートリイ」や「ストラテジー」概念に反映しているはずだからだ。 T章の中で、イーザーは次のように書いていた。「テク ストと読者との関係が、発信者と受信者という情報理論モデルにそのまま当てはまりさえすれば問題はない。そのためには、テクストと読者の両方に共通し、内容が確定したコードの存在が前提となり、メッセージの受信が保証されていなければならない。その場合、メッセージは発信者から受信者への一回路をもつのみである。/ところが文学作品においては、メッセージは二重の回路を経て伝達される。すなわち、読者はテクストの意味というメッセージを、自ら構成しながら〈受信〉するのである。共通し、内容の確定したコードはない。共通コードに相当するものは構成過程で次第に作りだされてくるとはいえよう。」
 文学作品においてメッセージは、「発信者→受信者」と いう「一回路」によって伝達されるのではなく、読者による構成と受信という「二重の回路」によって伝達されるというのが、イーザーの見解である。情報理論モデルでは文学的コミュニケーションの特質を把握できないというのはそのとおりである。だが、その根本的原因は、情報理論モデルが、人間のコミュニケーションの本質をみのがしているからなのである。ではその本質とは何か。
 コミュニケーションを一方的伝達と考えるコミュニケーション理論に対する乾孝氏の批判に目を向けよう。『私の中の私たち』(いかだ社/一九七〇)や『生活のなかの心理学』(朝日新聞社/一九八一)に基づきながら、その論点を紹介すると次のようになる。
 @送り手A→送り意図→送り内容→送り媒体→受け手B→受け内容…これがこの種のコミュニケーション理論の図式であり、その場合送り内容と受け内容とが、どのくらいうまく照応したかということが「送り効率」といわれる。
 A「送り内容」に「受け内容」が百パーセント照応することが望ましいわけで、そのためには、途中で雑音などがはいらないような媒体が、受け手にふさわしい媒体だということになる。
 Bこれは電話の送信機、受信機を頭においてつくり上げた図式であり、命令コミュニケーションだ。だが、命令の形式は、命令者と被命令者との間に、本来の意味の体験の交換がない。またA→BをA→B+B→Aで補ったとしてもこれは命令の足し算にすぎない。
 Cまた、この図式では、送り手と受け手とは、閉ざされた差し向かいの世界を形作っている。
 Dだが、AとBとの間にコミュニケーションがなりたつ前提は、AとBとの間に共通の課題が先にあり、それに対して肩をならべているということである。
 E真の人間的なコミュニケーションとは、その課題に対する各々働きかけによって発展するものであり、相談型のコミュニケーションである。
 Fこの場合、予想された相手がAの中にもBの中にもあり、AがBに話すということは、AがBをくぐってA’にまで発展することであり、またこの過程でBはAをくぐってB’にまで発展するわけである。しかもAとBは、二人だけが相談しているにしても、そこに居合わせないもっと大勢の人たちの考えをふくみこみ、いわば、他の人たちの立ち会いのもとに談合しているわけだ。
 GいつもU字型に相手をくぐっている対話こそもっとも人間的なコミュニケーションである。

 人間的コミュニケーション(対話・伝え合い)の特徴がここにも明確に指摘されている。日常的なコミュニケーションも文学的なコミュニケーションも、人間的なコミュニケーションであるならば、それはこのような過程を内包しているはずだろう。文学的なコミュニケーションの独自性もこの点を前提にしてこそ解明されるはずだ。だからまた、A→B的なコミュニケーション観をどれだけ克服しているかが、文学的コミュニケーションについての見解を評価する試金石にもなるということにもなるだろう。
 ここで、先程のイーザーの叙述にもどろう。イーザーは文学作品において、「共通し、内容の確定したコードはない」という。なるほど、A→Bのようなかたちで、「送り効率」を確保するために、読者におしつけられた媒体はそこにはない。だが、文学作品がコミュニケーションの媒体となりうるためには、作者と読者とが共通する客観世界の中に生き、行動主体としての自分の課題意識によって対象化した客観世界(=現実)を、広い意味で共有していることが必要だ。この点に関しては、日常的なコミュニケーションと文学的コミュニケーションの間に違いはないはずだ。そして、こうした連続面をふまえてこそ、逆に、文学的コミユニケーションの独自性も明らかに出来るはずだ。だが、イーザーの場合、その点はどうなのか?
 また、彼は、「読者はテクストの意味というメッセージを、自ら構成しながら〈受信〉する」ところに、文学作品と読者との対話関係の特徴をみている。だが、こうした関係は、文学作品を読む場合にだけ生じるのだろうか? 乾氏が指摘しているように、人間のコミュニケーションは、U字型であることにその特徹がある。AがBに伝えるということは、AがBをくぐって自己の体験を見つめ、組織し直しつつBに伝えるということだった。これは、イーザーの用語で言えば、「自ら構成しながら〈受信〉する」ということだろう。
 また、BがAを理解するというのは、Aの意見が言葉という乗り物によってBに送りとどけられるということではない。BはAの言葉をてがかりにし、自己の体験を組織しなおすことによってAをくぐり、B’に自己を変革していくわけである。BがAを理解するのは自己の体験を組織し直すことによってなのだから、ここにも「自ら構成しながら〈受信〉する」という関係があるわけだ。
 もっとも、イーザーのこの言葉が「伝え合い」の関係を本当に意味しているのかどうかは問題だ。人間的コミュニケーションの共通性をふまえない「特殊性」の強調は、その「特殊性」の把握自体に様々なゆがみをもちこむはずだ。イーザーはここでは文学作品と読者との関係に言及している。それでは、作者が文学作品を創造していく過程との関わりをどう考えているのか。実はこれが、彼の「レパートリイ」論と「ストラテジー」論になるわけだが、そこに於ける分析が「伝え合い」の本質とどこまで結びついているかを検証することによって、イーザーの「二重回路」論の性格もさらに明らかになってくるはずなのだ。


  3 「虚構言語」と「日常言語」

 以上の点を念頭におき、「虚構言語」「虚構テクスト」の特徴についてのイーザーの指摘をさらにたどってみよう。
 「虚構テクストの場面形成」(U章Aの3)で、イーザーは次のように指摘している。
 「虚構言語と日常言語とは、決定的な点で共通性を失う。虚構言語は、現実の場面との結びつきがない。それに対して、発話行為というものは、成功するためには、場面が高度に規定されていなければならない。こうした場面が欠如しているからといって、虚構言語が成立しないということにはならない。むしろここに、虚構言語が通常とは異なった言語使用をしており、また特殊な性質をもっていることを明らかにする糸口がある。」
 「無媒介の知覚は、無媒介の認識と同じくありえない。実在は…把握が可能となるためには、必ず非在の痕跡をそなえていなければなら」ず、「およそ象徴というものは、こうした非在の痕跡」である。
 「世界をとらえるためには、世界をいったん別のものに移しかえなければならない。」
 「虚構言語はこうした象徴形成を行っている。…象徹と しての働きをもつ文学の言葉は、なんらかの経験的現実対象を〈再現〉するわけではなく象徴形成であることによって、一種の表現機能をもっている。つまり文学の言葉が、現実の対象と結びつかないのは、それが表現そのものでしかありえないということである。従って、虚横言語は、自己反映的(autoreflexiv)であり、言語活動そのものの表現だということができよう。象徴を用いる点では通常言語と共通するが、経験的対象との結びつきはない。だが、虚構言語は言語活動そのものを表現することによって、言語活動そのものや、言語活動の働きを明らかにすることができる。約言すると、虚構言語は、読者に対して場面形成およぴ実在しない想像上の対象を産出するための指示を与えるといえよう。」
 イーザーの言う「日常言語」と「虚構言語」との違いを 整理してみよう。
 @日常言語は、象徴を用いてはいるが、現実の場面(経験的対象としての現実)と結びつき、それによって高度に規定されている。
 A虚構言語は、現実の場面との結びつきはないので、象徴作用によって、言語活動そのものを表現し、また、そのことによって実在しない想像上の対象を産出するための指示を行う。
 2の最初に引用した部分の中にあった「場面があらかじめ与えられていない虚構テクスト」というイーザーの言葉は、「日常言語」と「虚構言語」とのこうした関係把握を前提にしたものだったわけだ。
 イーザーはここで、「現実の場面」「経験的現実」から「虚構言語」を切り離すことに躍起になっている。それは「虚構言語」が経験的現実の引き映しではなく新しいものを生み出すことを強調したいためだ。だが「虚構言語」をそう規定すると、「日常言語」は、既成の慣習の枠内で出来合いの情報をやりとりするものということになってしま う。なるはど、私たちの日常会話がこんな状態に落ち込んでしまう場合もある。例えば、乾氏が指摘しているような 「命令」型の会話やその裏返しとしての「馴れ合い」型の会話などがそうだろう。だが、私たちの日常的なコミュニケーションは、「伝え合い」であってこそ真に生産的なものになるし、またそれは実際に様々な生活の場面で、「命令」型に陥る危険性と対抗しながらも、実現しているわけである。
 「伝え合い」の過程において、AがA’に、BがB’に発展しているということは、そこに新しい内容が生まれたということだろう。それは、同時に、A・Bそれぞれが、自己と相手の置かれている場面をとらえなおしていく過程と重なりあっている。つまり、日常的なコミュニケーションにおいても、絶えず新たな場面形成が行われているのである。
 日常的コミュニケーションの疎外態にすぎないものを、その全てであるかのように規定し、それと対比したのでは、文学の言葉の独自性を明確にすることはできない。
 また、イーザーはここで「場面形成」とともに、「実在しない想像上の対象を産出するための指示を与える」という点を「虚構言語」の特徴として指摘している。だが、これも「虚構言語」だけの特徴だろうか。
 イーザーは、「象徴」を用いる点では、「日常言語」も「虚構言語」も共通しているという。そして、「象徴」を「非在の痕跡」だと難解な言葉で説明しているが、端的に言いなおせば、言葉は媒体にほかならないと指摘しているわけだろう。だから、イーザーは、「日常言語」と「虚構言語」とでは、言葉という媒体の操作の仕方にどんな違いがあるかを問題にしているわけだ。だが、「違い」を問題にする前に、媒体としての言葉はどんな機能をもっているのかをもっとはっきり整理しておく必要がある。
 熊谷孝氏は、「梅干し」という言葉を例にして、言葉の機能を、『文体づくりの国語教育』(三省堂/一九七〇)の中で次のように説明している。
 私たちは、「目の前に梅干があるわけでもないのに… 『梅干』ということばだけで、…すっかり、もうすっぱい感じになってしまいます。“ことば”というものは、つまりそんなふうに、そこにないもの――不在なものをイメージとしてよび起こす信号のはたらきをするのですね。」
 「目の前の梅干は“すっぱい”信号になるのでしたね。 『梅干』という“ことば”は、ところで、その信号のそのまた信号として“すっぱい”感じわたしたちを導くのでしたね。信号の信号だから、これは“第二信号”だということになります。このほうを第二信号と呼ぶとすれば、その前の信号を、“第一信号”と呼んで第二信号と区別したほうがいいでしょうね。“ことば”というものは全体として、そういう第二信号、二重の媒体のひとまとまりの組織、体系です。つまり、第二信号系なのであります。」
 「第二信号系というのは、信号の信号――すなわち二重の媒体において事物(=世界)を反映する、そのような組織活動のひとまとまりのシステムのことです。ことばを通して世界を反映する、現実を反映するということは、実は現実について反省する、ということにほかなりません。(ちなみに、反射・反映・反省――それらはひとつながりのことばです。もとは、一つの Reflexion ということです。)反省する? むしろ、反省し続ける、ということです。言い換えれば、反映のしかたを変えて認知を深める、反映のしかたそのものを外界の法則に合致するように自己規制していく、たえずそのような規制を行う、ということです。そのことが、第二信号系として“ことば”を操作する、ということです。」
 「このようにして、“ことば”が第二信号系としての生産的、実践的な機能を発揮するためには、わたしたちは、“ことば”系を、運動感覚の系、行動の系であるところの第一信号系に結びつくように操作しなければならない、ということになりましょう、いや、こむずかしいことを言っているのではありません。ウ・メ・ボ・シという音声を耳にしても、あるいはまた、平仮名の『うめばし』、漢字の『梅干』という文字を目にしても、その音声なり文字が、あのしわくちゃな物体の形やけったいな色合い、あの口の中がすっぱくなるような感じが、まさに行動の系におけるそのような感じの反射と一体化した形で、イメージとしてこちらの内側に生じなくては、それは、“ことば”――“ことば”信号にならない、という点を指摘したまでのことです。」
 「第二信号系を第一信号系に、逆に第一信号系を第二信号系に結びつける、つなぎの役目をするものはイメージで ある」
 「それぞれの民族は、そのそれぞれの民族の生活と歴史の中に浮き現れた問題状況に、まさにそれと対応する形の固有の具体的なしかたで対処することで、民族の生存と成長・発展をかちえてきたわけであります。その民族語、その国語に固有の“ことば”の組織というものは、このようにして、その民族が体験した歴史――そうした体験において切りとられた歴史の論理――の第二信号系への反映であると言えましょう。つまり、日本語なら日本語というものは、日本人が日本人に与えられた固有の歴史状況を、その固有の生活体験を通して反映(認知)したところの歴史の論理、またその限りでの客観世界の法則と見合うような論理組織を持っております。」
 「“ことば”は不在なものをそこによび起こす信号だ」という場合の不在なものとは、「空間的にそこにないもの」というだけではなく、「まさに時間・空間的に不在なもの」ということであって、「遠い昔の不在の先輩をそこに呼び出して会話することも可能になるわけです。“ことば”信号に媒介されてであります。」
 「また、不在の未来や、やはり不在の自分たちのあすについて、その未来像を予測的にさきどりするかたちでイメージとして描き、お互いそれについて語り合う、というようなこともやるわけです。信号の信号としての働きに媒介されてであります。」
 「民族語は、いわばその民族的体験の総決算の反映―― 第二信号系への反映なのです。民族体験の共通信号の体系なのであります。」
 熊谷氏の指摘をふまえてイーザーの見解を読みなおしてみるとどうなるか。まず、言葉は第二信号系なのであって、時空的に不在なものをイメージとして呼び起こす機能をもっているという指摘に目をむけよう。イーザーのいう「虚構言語」に限ったことではない。「実在しない想像上の対象を産出するための指示を与える」のが言葉の本来の機能なのだ。
 もっとも、イーザーの言う「想像上の対象」と熊谷氏の言う「不在なもの」とは意味が違う。熊谷氏は、言葉がそのような「生産的、実践的な機能を発揮するためには、わたしたちは、“ことば”を、運動感覚の系、行動の系」に結びつくように操作しなければならないと指摘している。行動・行為とは具体的な歴史社会的場面における人間(人間相互)の行動・行為なのである。つまり、そのような行動・行為の場面において操作されてこそ、言葉は信号として働くということである。
 民族語ということで言えば、その民族が与えられた固有の歴史状況に固有の具体的な仕方で対処してきた体験――固有な仕方において過去をくぐり未来を予測して現在に対処した伝え合いの過程――の第二信号系への反映が民族語なのだ。だから、文学の言葉自体も、民族語創造の不可欠な契機として位置づけるべきだし、「想像上の対象」もこのような過程の中に位置づけてこその意味が明確になるはずだ。
 要するに、日常的コミュニケーションも文学的コミュニケーションも歴史社会的場面と深く結びついているし、またそのコミュニケーションを担う主体が、自己の生きる場面をとらえなおし規定しなおしていく過程において、これらのコミュニケーションも実現するわけである。
 だが、イーザーはこの関係を無理やり引き離してしまうために、文学の言葉操作の独自性が逆に見えなくなってしまい、「虚構言語は…言語活動そのものの表現」であり、「言語活動の働きを明らかにすることができる」などと言うのである。第二信号系という反映機能がどんなものであるかはすでにみたが、イーザーの言い方を文字通り受け取ると、文学は、反映機能ときりはなされた言葉そのものを読者に提示するということになってしまう。この点についてのイーザーの見解をさらにおってみよう。
 「虚構テクストの類似記号は、表示体(Signifikant)の組合わせを具体化するが、表示体は記号内容(Signifikat)を表示する役割はもたず、むしろ記号内容を生産するさまざまな指示を表示しているのである。」
 「この一例として、フィールディングの『トム・ジョーンズ』に出てくるオールワージイをとり挙げてみよう。オールワージイは、最初、完全無欠な人間として紹介され、ついで偽善者のブライフィル大尉にひき合わされると、たちまちのうちにそのえせ信心のとりことなってしまう。ここで明らかなように、表示体〔完全無欠な人間としてのオールワージイを叙述していること〕は、完全無欠さを表示するためにだけ用いられているわけではない。むしろそれは、読者が記号内容を作り上げるための指示であり、内容は完全無欠という一つの性質を述べるものではなく、まさに致命的な欠陥、すなわちオールワージイには判断力が欠けていることを示している。従って、表示体はそれが直接表示している完全無欠という性質そのものを再現するわけではなく、完全無欠と思わせる表象条件を提示している。これが類似記号の独特な用例である。類似記号がその機能を充たすのは、対象との直接性が弱められる、というよりは、上の例で見たように、直接性が否定される度合いに比例する。というのは、表象作用においては、記号が直接表示しているものより、直接表示されていないものの方が想像力を喚起するからである。想像するための条件を示す類似記号の指示に従うと、読者はそこから特定の結論を生み出すことになる。先の例でいうと、完全な男に判断力が欠けているのを見て、読者は完全という言葉でなにが意味されるのかと考え直さざるをえなくなる。つまり、読者が作り上げた意味内容は、逆に表示体となり、完全無欠という言葉についてもっている経験的な価値を思い起こさせる。すると読者は、意味を限定することによって(完全な男にも判断力が欠けていた)その経験価値を意識化し、場合によっては修正することもしなければならなくなる。テクストの記号によって導かれるこのような変換を通じて、読者はイメージ対象を生み出す。このことは同時に、虚構テクストにとっては、読者主体が不可欠であることを示している。すなわち、テクストは素材としては単に潜在的なものにすぎず、読者主体をまって初めて顕在化されるからである。このようなわけで、虚構テクストはまず第一に伝達手段であり、読書過程は基本的にテクストと読者との一種の対話的相互作用過程と考えられる。」 この部分には、イーザーの読書過程論が彼の文学鑑賞のあり方とともに示されているのでいろいろと興味深い。そしてここにもさっきから指摘してきたイーザー理論の問題点が明確に現れているのだ。論点を整理してみよう。
 @「類似記号」――これは、記号内容を直接指示するのではなく、記号内容を作りだす指示を表すものと規定されている。イーザーは「完全無欠」という言葉を例にあげているが、この説明は「完全無欠」という言葉はどんな場合でも「欠点がない」という肯定的な意味でまず受け取られるということを前提にしている。だが、言葉の意味は場面規定ぬきに明らかにはならないのだ。  (この項続く。) 

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