「読者論」の吟味  
読者論ノート――W.イーザー著『行為としての読書』の批判的検討 (8)
井筒 満

1995.3 文教研機関誌 「文学と教育」168)
   

  8 読みの過程的構造(3)

 「読者論ノート(7)」の最後の部分を引用することから始めることにする。
 「『素地』の『先行体験』への転化という熊谷氏の指摘は、鑑賞体験が成立する過程を、日常性と芸術性との相互関係のなかでトータルにとらえている。このことは、イーザーの『既知のもの』に対する扱い方と比較すれば、いっそうはっきりする。」
 「……(1)既知のものの価値転換によって、読者はまず第一にテクストの中で価値を失った規範を適用しているのは、本来自分にとって既知の状況であるために、状況に対する意識が鮮明になる。(2)既知のものの価値転換は、テクストにおける一種の頂点を示し、それとともに既知のものが記憶の中に後退していく。だが、テクストの中に等価系を求めるためにはこの記憶に頼るほかはなく、その限りでは既知のものと対立するか、あるいはそれを背景として構成されることになる。」(『行為としての読書』轡田収訳 P 一四一〜二)
 「既知のもの」と「テクストにおける等価系」(新しいもの)との関係をイーザーはこのようにとらえている。 だが、「後退・対立・背景」というような規定で、読者の体験と文学作品の鑑賞体験との相互関係を説明できるのだろうか。(7)で引用した熊谷氏の指摘をふりかえっておこう。「過去における自分の、ある事物とのある接触のしかた、あるいは過去の事物体験、それが、現存の自分自身の行動体系につながるかたちの、ひとまとまりの体験に」なったときが、「先行体験」が形成されたときであり、この「先行体験」が媒体となって鑑賞体験が進行するのである。だから、「先行体験」と「新しい体験」とは「同時的にかさなりあってそこに形成される」わけであり、別の切り口から言えば、「先行体験」は「新しい体験そのものだ」と いうことになる。「新しい体験という、その体験の新しさを規制するものが、つまり先行体験のありかた」なのである。(『言語観・文学観と国語教育』 P 一四〇〜四六)
 「先行体験」として存在しているものを「既知のもの」として、「新しいもの」の単なる引き立て役のように位置づけたのでは、新しい体験が成立する過程自体がはっきり しなくなるのである。
 イーザーは、「既知のものの価値転換」がテクストの中で行われているというが、作者は、その新しい価値観をどこからもってくるのか。また、読者は、それをどのようにして自分のものにするのか。イーザーは、「価値転換」を自明の前提としているだけで、その基盤を問題にしていない。基盤は問題にしないで、読者の体験の中からは既成の「規範」だけを抜き出し、そうした規範から自由になっている作者――どうして自由になりえたのかはよくわからないのだが――が、その「規範」(既知のもの)の価値転換を行うという図式をイーザーは作り出しているのである。
 だが、読者の中に本当に新しい「等価系」(イーザーの用語をかりに使うならばだが)が成立するためには、読者の中にその新しさにつながっていくものがなくてはならないし、それが先行体験にまで組織される必要があるのだ。作者もまたそのような読者の体験に依拠しながら新しい意味体験(価値体験)の世界を創造していくわけである。
 これらの点について、イーザーの「ストラテジー」論をとりあげてさらに検討を加えることにする。


   9 ストラテジー論(1)

 イーザーの見解を要約することから始めよう。
 @.「ストラテジー」は「レパートリイ要素を秩序立て、また受容条件を整える」ためにある。「ストラテジー」はテクストごとに異なった技法をとって展開しているが、「個々に行われている技法の根底にある構造が問われる」必要がある。「とにかく、ストラテジーの任務というべきものは、既知のものにひそむ意外性の露呈であることは確かである。」(前掲書 P 一五〇〜一)
 A.「社会的現実の諸規範は、時代ごとに特殊な形態をとるコンテクストの中では、限定された意味をもっているが、いったんコンテクストから選択によってとり出されてくると、本来は予期されなかった意味が生じてくる。……こう して、規範がもとのコンテクストから引き離され、文学テクストの中に移されると、新たな意味が前景に現れるが、同時にもとのコンテクストもたぐりよせられてくる。というのも、もとのコンテクストが背景となるからこそ、そこからとり出された要素に新たな意味の範囲が与えられるのである。このように、すべての文学テクストの基本となる選択決定要素は、つねに前景−背景関係を作り出す。この関係は原理的に次の二つの働きをもつ。(1)ある要素を選択すると、もとのコンテクストが引き出されはするが、選択された要素は新たなコンテクストにおかれるために、意味の差異が生じ、新たな未知の機能をもつことになる。(2)前景−背景関係があるために、選択原理はテクストに対するあらゆる形の理解や経験が可能な基本条件を生み出す。つまり、既知の背景が選択要素の非活性化にともなって呼び出されなければ、その要素が新たなコンテクストでもつ未知の意味は理解不可能となる。」(同 P一六二〜三)
 B.「文学テクストでは、背景は明示されず変化しうるばかりか、その意味内容も、前景要素によって作り出される新たな遠近法に応じて変化する。既知の事柄は未知のものを理解する助けとなるが、逆にその未知のものは、われわれが既知の事柄について懐いている理解の構造を組み換える。こうした変化は、さらに、選択された要素の評価に反映し、それらの。要素の位置づけに変動が生じる。」(同 P 一六四) 「もとのコンテクスト(既知のもの)と新しいコンテクスト(未知のもの)」との相互関係が@〜Bで指摘されているが、その問題点は、レパートリイ論の場合と同様である。「新しいコンテクスト」がどこから生まれてくるのかがわからないのである。また、「新しいコンテクスト」を発見しうる主体はどのように形成されるのかもはつきりしない。全てを見通している主体(作者)が、自分の思いのままに「要素」を引き抜いたり移し変えたりするのである。「主題と地平の構造」についてのイーザーの指摘を読むとさらにこの点がはっきりする。
 C.「前景−背景関係」が、「外界に対するテクストの関与の仕方、つまりテクストの〈外部関係)」を示していたのに対し、「主題と地平の構造」は、「テクストにとり入れられた要素を結び合わす」「テクストの〈内部関係)」を示す。(同 P 一六七)
 D.「テクストの〈内部関係〉」は、「語り手、登場人物、筋、そして読者の想像にゆだねられる部分(虚構の読者)」という四種の異なった遠近法の組織体である。これらの遠近法は、「全く異なった基盤をとり……拡散する性質をもっているが、結局のところ、相互に遊離することはありえない。従って、テクストは、個々の遠近法に序列を与える手順を予示しておく必要がある。これをひきうけるのが主題と地平の構造であって、テクストに向けられる読者の視線を調整する。」(同 P 一六八〜九)
 E.読者は「遠近法のセグメント(断片)を渡り移」り、 その都度、主題と地平との交替が行われる。「地平は、それまで読んできた箇所それぞれの主題であったセグメントから成り立っている」が、「主題」も、「遠近法のセグメントからできた地平によって影響をうけている」のである。 このような過程を経て、読者の想像の範囲は次第に限定され、「読者によって異質な世界の見方も、テクストが示す条件通りにうけ入れられることになる。」(同 P 一六九〜一七一)
 F.「一つのセグメントは他のセグメントを地平にとって出現するために、それ独自の姿だけを示すことにはならず、いつも他のセグメントに姿を映すと同時に他を照明する。従って、個々の立場には、単独ではもちえなかった要素がつけ加わってくる。……美的対象は既存のものではなく、テクストの中におかれたさまざまな立場が相互に働きかけ合って生じる変化から作り出されるのである。……テクスト内のさまざまな立場は、社会的であれ文学的であれ外界システムからの特定の選択要素を再現しているので、読者は美的対象を生み出すにつれて、テクストにとり入れられた〈世界)に対する反応(リアクション)を起こしている。つまり、読者は選択された規範を新たな照明のもとに見る機会が与えられるわけで、ここにこそ、美的対象の究極的な機能がある。美的対象は、テクストに再現されたさまざまな立場に対する超越的な視点となる。」(同 P 一七一〜二)
 G.「……すべての立場の変化が蓄積されて行き、そこから美的対象が構成されることになる。そこで初めて、すべての立場は相互に等価となる。従って、等価系は、個々の立場や遠近法に基盤をもっているわけではなく、また、すべての立場や遠近法の総体以上のものである。美的対象という等価系は、未だ明らかな形を与えられていないものに明らかな形を与えるものであり、読者に対して、テクストの中で明らかな形を与えられているあらゆる立場を見渡し吟味する超越的な視点を与える。」 (同 P 一七四〜五)

 文学作品の各部分が、「相互に働きかけ合」う関係にある(F)という指摘は正しい。だが、そのような働きかけ合いの結果、「すべての立場は相互に等価となる」という指摘についてはどうか。これでは、相対主義の立場で全体を組織するのが、文学本来の方法だということになってしまう。
 また、そのような相対主義は、「あらゆる立場を見渡し吟味する超越的な視点を与える」(G)ことになるわけだが、この「超越的視点」とはいったい何か。「あらゆる立場を見渡す」というが、それが可能になる立場とはいったいどんな立場なのか。「超越的視点」に関するイーザーの説明を読むと、それが「Aでもない、Bでもない・Cでもない……・」視点であることは一応わかる。だが、「……ない」をいくら続けていっても、この視点の内実は一向に明らかにならない。
 作者の側から考えてみると、このような「超越的視点」に立って作者は作品全体を構成していることになるが、作者はそれをどのようにして獲得したのか。「新しいコンテクスト」の場合と同様にその点がはっきりしないのである。
 イーザーは、この「超越的視点」について次のような具体例を上げている。
 「……スモレットの『ハンフリイ・クリンカー』……この書翰体小説は、人物それぞれがもつ極めて個人的な遠近法を展開する。彼はしばしば同じ現実の現象を見てはいるものの、完全に対立した見方をすることが多い。ここで実際はどうであったかと想像するには、人物それぞれの特定な意見を突き合わせてみるほかはない。読者は、現実と現実に対する見方はどの程度一致しうるものであるかを考えさせられる。こうして、現実に対する見方はいずれも、現実の特定の面しかとらえていないことが明らかになり、いわば変更可能の地平におかれるわけである。その結果、こうしたさまざまな現実像を生み出す社会的ないし個人的傾向がこの小説の美的対象となって現れてくるが、これは同時に、われわれが現実をとらえる場合にも、つねにこうした傾向に支配されているということを教えている。」(同 P 一七九〜一八○)
 『ハンフリイ・クリンカー』を私は読んでいないので、作品に即して論じることは出来ない。だが、全ての立場を等価にするというストラテジ一概念や「超越的視点」という概念で分析すると、こんな作品論しかでてこないのかとは思うのである。
 「われわれが現実をとらえる場合にも、つねにこうした傾向に支配されている」という視点がこの作品が提示している「超趣的視点」だということになるのだろう。だが、こんな「一般論」を読者に「教え」るために、作者はわざわざ作品を書いているのだろうか。イーザーの立場で分析すれば、芥川龍之介の「藪の中」なども、同じような「教え」を読者に与える作品だということにたぶんなるだろう。 だが、こんな分析では、それぞれの作品の創造主体としての作者(その視点的立場)を明らかにすることはできない。


   10 ストラテジー論(2)

 イーザーの考え方では、作者は、万事を見通している神のような存在にならざるをえない。「語り手、登場人物、筋、そして読者の想像にゆだねられた部分」という四つの遠近法というイーザーの指摘(D)にしても、「登堤人物」の位置づけ方に、そのような考え方がはっきり表れている。
 「テクストと外界との関連――テクストの(外部関係) ――は、この構造を通じて読者の受容意識と釣り合うようにおき直される。この伝達過程にあって極めて重要な階梯は、選択されたレパートリイを個々の叙述の遠近法に振り分ける〈選別〉にある。すなわち、選択された社会規範ないし文学上の引喩は、人物、筋、語り手などの構成要素に振り分けられ、一定の価値判断が加えられる。……原理的には二種類の(選別)がある。すなわち、選択された規範は、主人公か脇役のいずれかによって代表される。主人公が規範を代表する場合は、脇役が規範に沿わなかったり離反したりする。脇役が規範を代表する場合、主人公はおおむね準拠枠に対して批判的な見地をとる。一方は規範の肯定であり、他方は規範の否定である。このようにレパートリイをさまざまな遠近法に振り分けることによって、選択要素それぞれの機能に対する価値基準が示されている。」 (同 P 一七五〜六)
 規範を「振り分け」て、それに「一定の価値判断」を加えると「登場人物」ができあがるというわけである。また、その「振り分け」(選別)の中心になるのは、主人公と脇役への「振り分け」(選別)である。
 主人公と脇役とは、「原理的には」「規範の肯定」と「規範の否定」という形で対置される。そして、作者は――FGの指摘によれば――「超越的視点」にたってこのような「振り分け」(選別)を行っているわけである。
 イーザーの創作過程論は、原料を選別し、一定の加工をほどこして、製品を作りだしていく工場における生産過程と似ている。作者のあやつり人形のように作中人物が位置づけられているからそういう印象が生まれるのだ。コミュニケーションを「伝え合い」の過程として把握できないイー ザーの弱点が(この点についてはこのノートですでに何回か指摘した)ここにも表れている。
 創作過程を問題にするとき必要なのは次のような熊谷孝氏の観点である。
 「……イリヤ・エレンブルグですが……こういっています。作者が小説の中で作れるものといったら、人物とその人物の環境だけである。人物の性格という意味です。ある性格を与えられた、その物たちは、やがて自分自身の性格にしたがって行動しはじめるようになる。そうなると、もう作者の手に負えなくなってくる。彼らは、作者が最初に予定した筋書きやプロットなどは無視して、彼らの環境と性格に合ったような行動をとり出すからである。「性格を変えるわけにはいかないから、ストオリーのほうを変更することで、予定外の事態に応対する」と、彼は語っています。」
 「作ちゅう人物の抵抗には勝てない、ということですね。 この作ちゅう人物の抵抗ということが、そして実は読者による抵抗ということなのですね。話をそこへ進める前に、事例をもう一つあげておきましょう。」
 「このあいだ、有吉佐和子がいっていたことだけれど、「香華」という彼女の作品ですね、あの作品が作者の最初の構想とはまるで違ったものになってしまった、という作者の内省報告みたいなものです。」
 「『作家って孤独だとよくいうじゃない? けど、これを書いているうちに、そうじゃないことがよくわかったのよ。読者と心が通いあい、はげまされるじゃない?』/『小説だって、お裁縫と同じで、最初マチ針は一応打つじゃない?』……『けど、こんどは小説の主人公に引きずり回されて、最初の構想なんか、とっくにどこかにいっちまったのよ。困ったのは、あのお母さん。いつまでたっても死なないじゃない? どうしても殺しようがないのよ。』」
 「作者という親は、子どもである作ちゅう人物を殺さなけりやならない場合もある。ところで、この子は死んでくれない。『あのお母さん』は『いつまでたっても死なない』のですね。いや、『殺しようがない』のですね。エレンブルグ流にいうと、『作ちゅう人物の抵抗があるから』ということになるのですが、有吉の場合、その抵抗が究極において読者による抵抗にほかならない、ということがハッキリしてませんか? つまり、『読者と心が通いあう』ことで、お母さんを殺せなくなってしまった、ということになるわけなのですね。」
 「……こいつを死なせちゃウソになる。憎まれっ子世に憚る、というのが現実なんだよ。真実に背中を向けちやいけない、生かしておきなよ……という読者の声が聞こえてくるのですね。有吉さんの場合じゃないが、オフクロさんを殺せなくなるのです。」
 「小説の主人公に引きずり回されて、オフクロさんが殺せなくなる、というのが実は構造的には読者による抵抗の結果だと、こう申しましたが、ここに表示から表現への弁証法、表示と表現の弁証法があるわけです。表示だったら殺していたはずの相手を、生かしてのさばらせるのは、それが表現だからであります。……殺したいと思う自分の感情……まずそれがあって、その感情をつき放す格好で他者の感情を媒介し、自他の感情がそこのところでぶつかりあい、揉み合うことになるところで別個の感情を醗酵させるのですね。」(以上、『言語観・文学観と国語教育』 P 一八〜四)
 「……その創作過程において、作ちゅう人物によるこの揺さぶりを経験しないような作品表現では、(媒介が不十分だという意味で)その表現はまだ熟していないのだ……」(『芸術とことば』 P 三七)

 熊谷氏は、作品の創作過程が、作者と作中人物、作者と読者との対話過程において進行していることを指摘している。イーザーの場合は、a 外界からの選択→b 選択したものの選別という機械的な二段階論で創作過程を説明している。確かに、文学作品によっては(――それが本当に文学と呼べるかどうかはともかくとして)、イーザーの創作過程論と あまり矛盾しないような作品もあるだろう。だがそれは、表示のレベルに止まっている作品にすぎないのであって、文学本来の構造や機能をそこから説明することはできない。
 もちろん、『行為としての読書』でイーザーが言及している作品が全て表示レベルの作品だというわけではないだろう。表現レベルの作品が、イーザーの概念装置にかかると表示レベルの作品になってしまう――そういうことがあるのではないかと思う。
 また、イーザーによる作者の位置づけかたを見ると、それは自然主義文学などの創作方法とつながっているようにも思える。それは次のような創作方法である。
 「(万里の長城のような壁があり)……カベの片側では事件が進行している。カベの反対側には読者がいるわけなんですが、読者にはその事件の様子はわからない……ところで、高いカベの上には一人の男が立っている。事件の模様を次つぎと読者へ向けて伝達してくれる……/万事お見通しの立場にある作者が、自分の意見や見解や判断を交えて、ごくごくひかえめな作家の場合でも感想程度のことは口にしながら『事件』をコメントする……」(熊谷孝『井伏鱒二』 P 一〇七)
 選択した規範を振り分けて作中人物をこしらえるというイーザーのストラテジー論は、「万事お見通しの立場にある作者」を前提にしなければ成り立たないだろう。また、作中人物を、血の通った生身の人間としてではなく、「規範」の人的表現のように位置づけている点では、「万事お見通しの立場」は、イーザー理論の中でより強化されているとも言えるわけだ。(この項続く)               
(新宿セミナー講師)

HOME「読者論」の吟味前へ次へ