文学と教育 ミニ事典
  
第二信号系(ことば)
第二信号系というのは、信号の信号――すなわち二重の媒体を組織して、その二重の媒体において事物(=世界)を反映する、そのような組織活動のひとまとまりのシステムのことです。ことばを通して世界を反映する、現実を反映するということは、実は、現実について反省する、ということにほかなりません。(ちなみに、反射・反映・反省――それらはひとつながりのことばです。もとは、一つの Reflexion ということです。)反省する? むしろ、反省し続ける、ということです。言い換えれば、反映のしかたを変えて認知を深める、反映のしかたそのものを外界の法則に合致するように自己規制していく、たえずそのような規制を行なう、ということです。そのことが、第二信号系として“ことば”を操作する、ということです。
 このようにして、“ことば”が
第二信号系としての生産的、実践的な機能を発揮するためには、わたしたちは、“ことば”系を、運動感覚の系、行動の系であるところの第一信号系に結びつくように操作しなければならない、ということになりましょう。いや、こむずかしいことを言っているのではありません。ウ・メ・ボ・シという音声を耳にしても、あるいはまた、平仮名の「うめぼし」、漢字の「梅干」という文字を目にしても、その音声なり文字なりが、あのしわくちゃな物体の形やけったいな色合い、あの口の中がすっぱくなるような感じが、まさに行動の系におけるそのような感じの反射と一体化した形で、イメージとしてこちらの内側に生じてこなくては、それは“ことば”――“ことば”信号にはならない、という点を指摘したまでのことです。〔1969年、熊谷孝著『文体づくりの国語教育』p.95〕


○言うまでもないことだけれども、この
第二信号系としての“ことば”の組織は、民族によってそれぞれに違います。さらには、その民族のくぐりぬけてきた、それぞれの歴史の曲がり角において微妙な変化を見せております。具体的には、音韻組織や文法組織、文体組織などの側面において、それらが、それらが複雑にからまりあいながら微妙な推移がそこに見られる、ということなのです。連続の中に非連続が、非連続の中に連続の関係が見られる、というわけなのであります。
 それぞれの民族は、そのそれぞれの民族の生活と歴史の中に浮き現われた固有の問題状況に、まさにそれと対応する形の固有の具体的なしかたで対処することで、民族の生存と成長・発展をかちえてきたわけであります。その 民族語、その国語に固有の“ことば”の組織というものは、このようにして、その民族が体験した歴史――そうした体験において切りとられた歴史の論理――の
第二信号系への反映であると言えましょう。つまり、日本語なら日本語というものは、日本人が日本人に与えられた固有の歴史状況を、その固有の生活体験を通して反映(認知)したところの歴史の論理、またその限りでの客観的世界の法則と見合うような論理組織を持っております。
 もしも、そのような論理組織を日本語が持っていないならば、日本の民族が当面してきた歴史状況を、民族の主体性において日本人自身、日本語によって考えるというようなことは不可能であったにきまっています。もっとも、日本語なら日本語の、フランス語ならフランス語の持つ、それぞれに固有なそのような論理組織は、数多くの歴史の曲がり角を体験する中で、いわば民族の歴史の中で煮つめられ組織されてきたのもにほかなりません。民族語、国語の歴史は、新しい歴史の問題状況に対応していくための新しい思考手段の獲得という形での、自己変革の歴史にほかなりません。連続の中に非連続の関係が見られるわけなのです。
 しかも、非連続の中にやはり連続の関係が見られるわけなのであります。すぐれて民族語はそのようなものなのであります。民族語、国語というものは、単なるその民族社会の成員間の通信上のとりきめ といったものではないからです。ただのとりきめ だったら、それを変えることもできましょう。また、ただのしきたりきまり だったら、相談ずくで変えることも不可能ではない。だが、民族語は、いわばその民族的体験の総決算の反映――
第二信号系への反映なのです。民族体験の共通信号の体系なのであります。

 細かいところまで話す余裕は、今、ありませんが、ともかく、
第二信号系としての“ことば”というのは、具体的には、民族語、国語のことです。以上のような性質を持った、それぞれの民族にとっての民族語、国語のことです。そこで、国語教育の究極の目的は、子どもたちの未来へ向けて、国語を国語として使えるような人間の基礎をつくり上げていくことだ、ということになりましょう。〔上掲書 p.96-97〕
   

〔関連項目〕
第二信号系の理論
“国語・国語教育とは何か”
国語自体の教育
  

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