文学と教育 ミニ事典
  
国語自体の教育
 国語教育の大きな目的の一つは、構文規則なら構文規則をきちんとつかんだ上で、「ことば」を作用因として自由に操作し、民族的な発想において自由に、ゆがみなく、思考活動をくりひろげてゆけるような人間の素地を、段階的につちかうことだありましょう。だからして、作用果としての言語自体の修得と習練は、じつは作用因としての言語自体の修得と習練のための手段にほかならないでありましょう。この 手段を欠いては、目的は実現しない。けれども、それは手段にほかなりません。それは基本的な手段ではあるが、しかも、もろもろの手段の中のひとつの手段にほかならないのであります。
 ことばを重ねますが、作用因としての――つまりは第二信号系としての言語自体の修得と習練ということが、国語教育のだいじな作業領域であります。とすれば、もっとも洗練されたかたちの「ことば」操作(作用因としての「ことば」操作)の体験にほかならない文学(文学体験)の指導を故意にその作業のわく からはずして、国語科の作業が果たして言語自体・
国語自体の教育になり得るか、ということなのです。
 
国語自体の教育? ……国語を国語として自由に使いこなすことのできるような人間に、子どもたちをはぐくんでいく教育、ということです。それを、もう少し整理したかたちでいうと、
 (1) 民族の共通信号としての、また民族的体験の総決算jの反映としての国語の、「ことば」体験としての実現
 (2) 民族的な発想において思考活動を進め、概念的にか感情ぐるみにか事物を認知できるような「ことば」体験の実現
ということをめざして行なわれる教育活動です。だからして、それは、ある人々が考えているような、思ったことが日本語で自由に話せるとか書ける、というふうな言語活動の調整にとどまるものではありません。たんに、それだけのことですと、先ごろのオリンピック・ムードの中での、ガイド用外国語学習の国内版みたいなものになってしまいます。
 国語教育というものは、そういう外人向けないし無国籍者あいての日本語学習(学習指導)ではありません。そうではなくて、民族的発想における事物認知をそこにみちびくような「ことば」操作の仕方の主体化、ということをめざした日本語の学習指導の体系が国語教育です。「ことば」操作のそのような仕方の実現が“血”の問題ではなくて、まさに教育の結果であるという限りにおいて、「子どもたちの外にある国語を与える」ことが必要になります。いわゆる意味の国語自体ではなくて、内容・形式一体の、民族の感情、民族の体験がそこに息吹いているこくごそのものを与える必要があるのです。
 さらに言えば、民族的「ことば」体験のもっとも洗練されたかたちのものである民族文学を積極的に、子どもや若者たちに「与える」必要があろう、ということなのであります。与える? ……そういう環境を用意する、といってもいいのですが。
〔1965年、文教研著『文学の教授過程』p.31-32〕

    

〔関連項目〕
作用因/作用果
第二信号系(ことば)
第二信号系の理論



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