文学と教育 ミニ事典
  
作用因(としての言語)/作用果(としての言語)
 文学教育は言語自体の教育ではない、というふうにいわれる場合の言語は、思うに言語学の次元でつかまれた言語、すなわち歴史的・伝承的な記号としての言語のことでありましょう。つまりは、民族的・社会的なしきたり として、また、そのしきたりに対するきまり という関係側面において、作用果(結果)としてつかまれた言語のことでありましょう。言語現象に対する言語学固有の対象化の仕方は、それを作用果として認知・認識しようとする構えにおいて保障されるわけなのですから。
 したがって、いわゆる言語教育の場にあっては、言語は、いわば社会的な決まりとして一定の意味(語義)をもった語い と、やはり一定の形態法則であり構文法則である文法との相乗積にほかなりません。かりに言語教育といういい方をするとすれば、その言語教育の場は、そのようなものとして、まさに「言語自体の修得と習練」の場である、といていいのであります。
 問題は、ところで、
作用果としての、そのような次元、そのような側面における言語だけが言語自体ではない、という点に関してであります。したがって、また、作用果としての言語の習得と習練を行なうことだけで、言語自体――国語自体の修得と習練が実現されはしない、ということなのですが。
 言語自体とは何か、何が言語自体ということ(いうもの)なのか、という場合、見すごされてならないのは、言語心理学がその次元で対象化するところの言語、すなわち個々の具体的なシチュエーションと、その場面規定のもとではたらく言語の、機能的な
作用因(原因)としての側面でありましょう.人間の思考活動(内部コミュニケーション)を支える言語(内語 internal speech) も、現実のコミュニケーションを現実に保障する言語(external speech) も、この作用因としての言語にほかならないのですから。
 そのような言語が、事物の第二信号として、内容・形式一体のものであることは申すまでもありません。「ことば」は、事物の意味の等価物 として内容・形式一体のものだ、という意味です。〔1965年、文教研著『文学の教授過程』p.26-27〕

    

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