文学と教育 ミニ事典
  
“国語・国語教育とは何か”
 自明のことだが、教師の“国語とは何か”が教師その人の“国語教育とは何か”を、そして国語科の教科構造に対する考えかたを決定する。そこで、“文体づくりの国語教育”の考える国語・母国語というのは、すでにしばしば語ってきたように、文体概念においてつかまれた日本語のことであった。それゆえの“文体づくりの国語教育”の提唱ということであったわけだ。
 その論理的な(また理論的な)根拠は、第二信号系の理論である。その言語観・メディア観である。そのメディア観をコミュニケーション・セオリー(伝え理論)に組み込んでの、わたしたちの
“国語教育とは何か”なのである。
 このようにして、“文体づくりの国語教育”が提唱する母国語の教育は、まず何よりも、民族的体験の総決算の第二信号系への反映である母国語――すなわち民族的体験の共通信号の系である母国語――を、まさに信号として操作できる人間(民族的人間)の基礎を、精神の発達を促しつつ子どもや若者たちの間につちかっていく組織的な作業である。本来信号であるところの“ことば”(=母国語)を、まさに“ことば”刺激・条件信号として操作できるように、ということである。
 ところで、国語教育がそういう作業であるということが、まさにそのことが国語教育を必至的・必然的に“文体づくり”の教育活動として結果することになるのである。その理由は(…)、要するに、人間、“ことば”でものを考える――知覚し想像し思考する――ということは、より具体的に言えば、個々人がめいめいの文体(――文体的発想)で考えるということだからである。人々は、“ことば”(――ことば系)に媒介された“ことば”体験においてかちえた自己の発想を、さらにまた“ことば”(=文章)に結びつけることで、その発想を確かなものにしていっているのである。(ごくあらっぽい、ラフな言いかたをすれば、文体的発想というのは、ことば・文章において保障された発想のことだ。それは、ある持続性において定着した発想である。)そこには文体と言えないような文体、他人からの借り物の発想や文体、ごく程度の悪い文体などもあるだろうが、しかしともかく人間は文体でものを考えるのである。考えるというより、まず感じる のである。ふだん、自分では意識しないような、ある思考のパターン、思考の心理的な基盤みたいなものを文体は主体――個々人の主体――の内部につくり出すわけだ。(…)

 上記の前提に立って、
国語教育の作業目的を、わたしたちは、むしろ一義的に“母国語の信号操作の教育活動”として考えるのである。具体的には、(中略)わたしたちはそれを、“文体づくりの教育活動”として考えるのである。いっさいの国語教育の作業は、究極において、この“文体づくり”という教育目的に奉仕するように組まれねばならない、とわたしたちは考えるのである。文体づくり――そのことが母国語教育のアルファでありオメガである。〔1969年、熊谷孝著『文体づくりの国語教育』p.201-203〕
    

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