抜書き帖 言葉・文学・文学教育・その他
  
    迷ったら古典に帰れ
  

斎藤兆史

「教養の力 東大駒場で学ぶことより

=2013 集英社新書 所収=

 詩の教養的価値を説いた十九世紀のイギリスの詩人・批評家マシュー・アーノルド(一八二二~八八)は、詩の価値を見極める際に、「偉大なる古典の詩をいわば試金石 (タッチストーン) として用いる」 ( 「詩の研究」 [‘The Study of Poetry’,1880] )手法を提唱した。価値の定まった名詩と並べて読み比べてみれば、それがどれくらいの格の詩であるかが判別できるという考え方である。
 情報でも、芸術作品でも、あるいはスポーツ選手でも、いま自分の目の前にあるものを格付けしたいとき、それを超一流のもの、「本物」と比べてみると、少なくともその相対的な価値が測れる場合がある。それを試金石とすり合わせてみるのである。

 (…略…)

 もちろん、最初から絶対的な価値が割り出せるなら苦労はいらない。だが、私たちは目の前にあるものの価値を測りかねるときがある。そのようなとき、いったん「古典」に戻ってみる。その分野の「本物」に触れてみる。そうしてあらためて目の前のものを眺めてみると、それがまったくの低級品か、古典や本物に肩を並べるほどの一級品かが分かる場合が少なくない。

 (…略…)

 
現代日本文学に親しんでいるわけではないので偉そうなことが言える筋合いではないのだが、最近、どうも安っぽい感動を売り物にする、お涙頂戴の小説が増えているような気がしてならない。なかには日本語自体が稚拙なものもある。
 たとえばその日本語を「小説の神様」志賀直哉 (なおや) や三島由紀夫の日本語と比べてみる。文章の構成、言葉の「濃さ」がまるで違う。ただし、そもそもの違いに気づかない読者がいるとしたら、試金石としての機能を果たさないことになる。
 あるいは、英語学習を経て文学作品まで読めるようになった学習者であれば、文学の英語がもっとも高度で美しい英語であることが分かるのだが、普段「実用的」な英文しか目にしていない学習者は、それが小難しい、特殊な英語だと思ってしまうらしい。そうなると、いくらこちらの英語のほうが明らかに上質だろうと言ってみても、まるで通じないことになる。
 昨今では、中学や高校の英語教科書からも文学は排除される傾向にあるから、学習者たちは日用に供する英語学習の先にさらに高度な英語を学び、文学に親しむ喜びがあることを知るチャンスもない。そもそも英語教師たちが、教師となる過程でそのような英文を読まなくなってきている。教師養成の課程において、英語教育学の「科学的」理論や教授法ばかり教え込まれて、高度な英語と格闘する訓練を受けていないのだから、試金石としての「古典」の用い方を学習者に伝えようもない。
 そう考えると、現代的な教養を身につけるための情報処理術として「古典」や「本物」という試金石を用いる前に、まずその質を理解するための教養が必要になるとの循環論法になってしまいそうだ。ただし、細かい区別をすれば、情報処理能力が現代的な教養の一部であるのに対し、「古典」の学習は伝統的な教養の一部を成していたものである。
 要するに、現代的な教養を成立させるためには、どこかに伝統的な、それこそ「古典的」な教養を保持していなければならない と言いたいのだが、これを教育においてどう行なうかについてはまたあとで述べる。
(150~153頁)
◇ひとこと◇  かつて、中学校・高等学校の国語教科書から鷗外や漱石の作品が消えていくということが大きな話題となった。鷗外・漱石に限らず、古典(近代古典)と呼ぶに値する優れた文学作品の、国語教育の中で軽視されていく傾向が、その後改まったとは聞かない。
 このような「教材」選択の面にも明確な形で表れた、国語教育における「文学の排除」の発想にこそむしろ問題があるわけだが、「文学の排除」の方向に進みつつある状況とその問題の深刻さは、英語教育の分野においてもまったく同様であることが、この本によりあらためて知らされた。
 たしかに、古典を真に現代的な教養を成り立たせるための基盤として捉えなおすことは、私たちの重要な課題の一つであろう。その課題追求の過程で、何が現代の私たちにとって欠くことのできない古典たりうるのか、広く文学史的観点から見極めて行くことは避けられない。筆者が例として挙げている志賀直哉・三島由紀夫の文学にしても、そのような面からの再検討が必要であろうことは、いうまでもない。 (2014.7.20 T)

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