抜書き帖 言葉・文学・文学教育・その他 |
「自由な選択」、その先にあるもの (見出しは当サイトで付けました。) |
佐藤 学+斎藤貴男 [討議] 「教育はサーヴィスか」より =「現代思想」2002.4= |
佐藤 アメリカで一九八〇年代半ばに『ショッピングモール・ハイスクール』という本がベストセラーになったことがあります。僕はこれを日本に紹介したんですが、個々のニーズを出発点として自由な選択を尊重する新自由主義の論理でいきますと、学校のカリキュラムは恐ろしく多様化する。しかし一人当たりの先生の授業コマ数は限られています。子どもが履修するコマ数も限られています。 その結果、学校は、お店がいっぱい並んだショッピングセンターと化すわけです。そうすると、教師の方は「いらはい、いらはい、こんないい商品がありますよ」と、手をかえ品をかえて生徒をひきつけようとします。一方生徒の方は、店から店へとふらふら歩き回って、ジャスト・ルッキング、ちょっと見るだけです。能力のある子どもは品物を選ぶことができるかも知れませんが、ふつうの子供達は安物ばかり掴まされて、おまけにクレジットまで背負ってしまう(笑)。 こういう新自由主義にもとづくショッピングモール・ハイスクールでは、教師も子どもも居場所を失い、お互いのかかわりを失ってしまって、疲れ果ててしまう。そうすると、ショッピングモールにはお誂えむきに、疲れた人がたむろするゲームセンターがある。これがクラブ活動です。教師も生徒もクラブ活動に熱心になる。しかしクラブ活動にも熱心になれない生徒や教師たちは孤独を味わい、よるべなさを感じてショッピングモールの端にあるクリニックセンターでカウンセリングを受けることになり、やがては学校を去っていく。 この本はきわめて卓越したメタファーで、新自由主義のレトリックが学校をどのように解体するか指摘したのですが、今まさにその通りのことが日本の学校に起ころうとしています。 斎藤 これをやっていたらそれこそ資本主義の自滅だろうと思います。というのは、なぜ僕らがお金を稼ぐ必要があるのかというと、もちろん自分のためというのが最初だけど、社会全体が経済成長に躍起になるのも全否定はしたくない。なぜかというと、お金があれば子どもにかけることができる。 教育とは何のためにあるかと考えたときに、今新自由主義としてやっていることは国のためにということでやっているからこれは論外なんだけれども、そうじゃなくて、子どもが第一義的には子どもをそのままはっぽりだしたら物理的に危ないし騙されるかもしれないから最低限の知識を社会として与える。あとは自由にしなさいよと言うのが基本だと思うんです。 その上にさらに大事なのは、新自由主義の批判をする人の中にも、多くは、あまり速いうちに選別して切り捨ててしまうと能力があるのに発揮できない子が出てくるだろうと言う言い方があります。僕はそれも間違っていると思う。 能力が有る無しに関わらず、仮に才能なんて全然なくても、そいつがやりたいって言ったらやらしてやる余裕を社会が持っておこう。そのためにこそ経済はあると思う。それは僕の思い込みかもしれないけれども、いちばん本来的に大事であるべき部分をこうも先にぶったぎってしまったら、何のために経済があるんだよ、と。存在意義そのものがなくなってしまうような気がするのです。 佐藤 まったくそうですね。資本主義社会そのものは長い歴史を持っている。しかし我々が知っている資本主義は産業主義の社会ですよね。産業主義の社会は商品の生産に労働力の再生産を従属させてきた。教育とか他人へのケアとか文化活動のような再生産を生産の手段にしてきたわけです。いまこそ産業主義から脱皮できるわけですから、再生産の方を人間の活動の中心において、生産過程を従属させるような社会へと転換する好機です。先程言った北イタリアの小都市ではまさにそういうことをやっている。僕が訪問し調査したレッジョ・エミリア市の財政がどこに使われているかと言えば、文化財の修復と教育なんです。過去の歴史の修復と未来への投資に財政が使われている。つまり歴史がなければ文化は発展しないし、教育がなければ未来はない。そういうはっきりした認識を持っているわけです。ところがいまの日本の財政を考えると、現在にしか目がむけられていない。ここでも新自由主義の問題は深刻だと思います。彼らのニヒリズムは未来に対して何のビジョンも持っていない。ただ市場のコントロールによって、お互いが自由になればいいじゃないか、この一点しか言っていない。 斎藤 これだけスピードが加速してくると、五〇年一〇〇年ではなくて、このままでは五年一〇年ですごいクラッシュが来ると思う。少なくとも僕が子どもなら絶対に暴れますね。だってお前なんかが希望を持つことも許さない、身分を弁えてろということは暴れていいって言われているのと同じだから。 佐藤 暴れないとどうにもならないもんね。 斎藤 そうですよね。ほかにも国民総背番号制とか盗聴法とか監視カメラとか。何を見ても締め付けてくるものばかりだ。人間はバカではないから、いずれ耐えられなくなる。残虐な犯罪が増えるでしょうが、それさえも支配する側は高みの見物。下々のモメゴトはインタテインメントだぐらいに考えているんじゃないですか。 佐藤 二〇年以上にわたってかれこれ一五〇校くらい各地の学校を訪れて改革を支援してきたんだけど、現在、公共性と民主主義を掲げる学校改革の新たなうねりが確実に広がっているのも事実です。今教師たちが喘ぎながら、あるいは親たちが市民と連帯しながら探っているものの中に、確実に未来への希望があると思います。日本の思想運動には様々な主題がありますよね。宗教とか経済とか、芸術とか。その中で教育も可能性に満ちた舞台にしだいになりつつある。これももう一面の事実です。 斎藤 時間との闘いですね。このような流れをそのままにしていたら取りかえしがつかなくなる。 佐藤 その闘いのいちばんの課題は新自由主義批判です。新自由主義をどう乗り越えるかが日々問われていると思います。 (p.89〜91) 【「新自由主義」に関して佐藤学氏が「討議」の中で述べている部分を、さらに数ヶ所抜き出しておく。】 ●新自由主義というのは市場原理にまかせるわけで、教育を責任という概念で議論するのではなくて、サーヴィスに置き換えて議論するところが決定的な問題だと思います。(p.79) ●なぜ日本に新自由主義がかくもはびこったのかという事を考えると、国家主義で教育が統制されたために、個人の自由、自己責任でなぜ悪いんだ、自己決定でなぜ悪いのか、自由な選択は素晴らしい、という一種の神話が支配していたわけです。(p.80) ●新自由主義のメンタリティは歴史修正主義のメンタリティと非常によく似ている。一言で言うと、政治不信、社会不信、人間不信です。だから市場のコントロールが全てになる。市場がいわば自然化され、もっと言えばゴッドになっていて、そこには忠実なんですよ。しかし誰も信用しない。(p.81) ●やっかいなのは、新自由主義の人々のルサンチマンと、人間不信、社会不信、政治不信、全てをサバイバルで見ていく主張が、あまりにも今のマスメディアを覆っているために、[(引用者注)新自由主義の源泉としてあると考えられる]貴族主義や転向とは無関係な子供達や一般の人たちを巻き込んでいて、ニヒリズムやシニシズムを醸成していることだと思うんです。(p.82) ●新自由主義の問題で、今、批判されているのは、階級階層差の拡大ですね。これは実際、そうだと思うんです。新自由主義の現実的な機能は、上層の選抜ではなくて、中間層もしくは下層の再編ですね。(p.83) ●新自由主義のレトリックを英語で言えば、プライヴァタイゼーションです。全てを私事化するわけですね。(p.85) |
◇ひとこと◇ この夏行われた文教研全国集会の基調報告の中で I 氏が取り上げた資料の一つ(その一部)である。「近代主義の今日的形態である新自由主義」が、いま、日本の教育をも大きく変えようとしているという I 氏の話は衝撃的であった。新自由主義のいう、多様なメニューからの、個々人の自己責任による自由な選択、という耳ざわりのいい言葉に幻惑されてはならないと思う。そして、実行されようとする政策に対し厳しい批判の眼を向ける必要のあることはむろんのこととして、同時に大切なのは、私たち自身の中にいつの間にか浸透した「内なる新自由主義(近代主義)」との絶えざる闘いであろう。佐藤学氏は東京大学大学院教育学研究科教授、斎藤貴男氏はジャーナリスト。(2002.10.10 T) |
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