抜書き帖 言葉・文学・文学教育・その他
  
 翻訳というのは日本文学なんです (見出しは当サイトで付けました。)
  

野崎 歓
(東大文学部准教授・翻訳家)
鴻巣 友季子

(翻訳家・エッセイスト)
青木千恵

(ライター・本紙編集委員)

「〈座談会〉翻訳家が語る 古典『新訳ブーム』」より

=有鄰 №481 2007.12.10

 少女時代の文学体験から自然に翻訳家に
 
 
  …略…
 青木 
鴻巣さんは、文学が好きでこの世界に入られたということでしょうか。
 鴻巣 
そうですね。
 野崎 少女時代に、翻訳書をむちゃくちゃ読んでいた。文学少女だったんだ。何でも読むという感じですか。
 鴻巣 そう。へんてこな訳なども多いんですけども、へんてこさ加減がぐっとくるみたいな部分があってね。小学校のときから、翻訳書一本やりだったんです。スタンダールの『赤と黒』なんか読んでました。
 野崎 それは興味深いな。鴻巣さんはさんざん文学を体験していて、それがあったから、自然な形で翻訳者になったということですね。
 鴻巣 よく言うんですけれど、ギター小僧がギタリストにあこがれて、とうとうギタリストになっちゃったという感じですよ。私のあこがれというのは、それと同じようなレベルの感じですね。
 野崎 じゃあ、「翻訳家になりたいんですけどどうすればいいですか」というのは、かったるい質問だと思いませんか。そんなもの勝手になれば、という感じでしょう。
 鴻巣 今日からなってもいいんだよって(笑)。別に誰にことわる必要もないし、免許皆伝とかもない。「翻訳家です」という看板を上げればいいだけです。
 野崎 それはいい。すばらしい答えだな。あと僕は、翻訳書を読むのが大好きな人間じゃないと、翻訳家にはなるべきじゃないと思うんです。

 自分の母語との衝突なくして真の理解はない

 鴻巣 八〇年代あたりからだそうですが、翻訳学校に行く人たちは、だいたい文学よりも、まず語学が好きなんです。実際優秀だし、原語読解も抜群にできて日本語もセンスがいい。得意の英語を生かして、何か自分探しという感じで、翻訳家を目指す。だけど「どんな作品が好きなの」と聞くと、意外と本は読んでいない子が多くて、それを先生が嘆いたりするんです。私は英語はできなかったわけじゃないですが、それより、文学が好きというほうが強かったですね。二十歳そこそこのころから、やるんだったら古典名作の域のものを訳したいと思っていました。
 野崎さんは『われわれはみな外国人である』で、今ダイレクト・メソッドということばかり喧伝されて、何でも原文で読みなさいとか、英語だったら英語で考えなさいと言われることを、ちょっと待ってと言っていて、私はその章に感動しちゃったんですが、そのとおりだと思いますよ。自分の母語との衝突なくして真の理解はあり得ないというお話でしたよね。
 野崎 ダイレクト・メソッド式に留学して帰ってきた人が、日本語力が全くなくて使いものにならなくて、悩むという例が結構ある。それはほんと大変なんですよ。
 鴻巣 この間、これも古典新訳のブームに乗って出たのかなとおぼしき本の訳者が、私は小学校の何年間かをアメリカで過ごしたので、英語文学は全部原文で読む癖がついてしまいました。だからこの作品に関しても、旧訳、既訳は読んでおりません。それどころか、英文学に関しては翻訳ものはほとんど読みませんと、非常に得々とした調子で書かれていたんです。
 私は、ちょっと違うんじゃないかなと思ったんです。翻訳者というのは、技術者であり、かつ文学者であるはずなのに、自分が今度新訳を出す作品が、これまで日本でどういう受容のされ方をしてきたかということに全く興味がひかれないということ自体がどうかなとも思ったし、ものを読まないということを自慢げに言っているのもいかがなものなのかと。

 原作に新鮮な水を注ぎ、生き返らせる

 鴻巣 翻訳すると原文が死んでしまうみたいな言い方をよくする。翻訳者がこんなことを言うのは僭越かもしれないんですが、偉大な文学って翻訳したぐらいでは死なないと思うんです。
 野崎 言葉の底力が本当にその瞬間あらわれる、翻訳してこその文学だということですね。
 最終的に日本語があるということのありがたさを、翻訳をやっていると感じますね。日本語で表現できることがすごくうれしいし、翻訳というのは日本文学なんです。もちろん、作家が小説を書くのと同じ形態ではないかもしれないけれど、読む人にとっては全部日本語なわけで、日本語を豊かにするということだと思うんです。
 鴻巣 『われわれはみな外国人である』のサブタイトルにも、翻訳は日本文学とちゃんと書いてありますね。
 野崎 ただし、訳者が作家ほどえらいといばるつもりはありません。我々がむさぼり読んでいたころ、訳は誰だろうなんて思わずに、ただ面白くて読んでいた。
 鴻巣 そうですね、なかなか目が向かなかったですね。
 野崎 でも、最終的には、やっぱり日本語の体験ですよね。だから、英語ができるから翻訳ができて、自分の翻訳は間違いないんだというのは、見当違いだと思わざるを得ないですね。
 いい翻訳を読むと、原作というのは一種、器みたいなもので、そこにまた新しい新鮮な水を注ぐことができるみたいな感じがしますね。新しい言葉に触れているんだなと、一般の小説以上に翻訳のほうが感じさせてくれる部分もあるのかもしれないです。
 鴻巣 柴田元幸さんに聞いたんだと思うんですが、イギリス人の学者たちが日本人に「日本人はいいよね、シェイクスピアが翻訳できて」と言った。私はこの言葉がすごく好きなんです。英語で書かれたシェイクスピアは一種類しか持ちようがないけれど、日本人は無限にバージョンを持てるというこの幸せ。
 野崎 ゲーテが、自分の詩がフランス語に翻訳されたのを読んで、すごく喜んで書いた詩があるんです。自分が摘んできた花を花瓶に入れておいたら、だんだんしおれてきたけれども、きょうそれがまた新しい水の中に差してもらって、きれいに花を開いた。
 それが翻訳の一番すばらしいところだなと思います。ある意味で一度言葉の壁を越えるということは、その原作がそこで死ぬということでもあると思う。通じないわけですから、日本人にフランス語のテキストを持ってきても、それは何の意味もない。でも、翻訳によってそれを生き返らせるというと、ちょっと大層過ぎるかもしれないけど、そういう営みでもあるんだろうなという気がします。
 鴻巣 一度死ぬというのは格好いいですね。でも、そんな感じがします。
 …略…

◇ひとこと◇ 「翻訳によって、それ を生き返らせる」――これは翻訳ということの意味を最も根本的なところで言い当てた言葉だと思う。野崎歓氏にはサン=テグジュペリ『ちいさな王子』、スタンダール『赤と黒』(いずれも光文社古典新訳文庫)、鴻巣友季子氏にはエミリー・ブロンテ『嵐が丘』(新潮文庫)、ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』(2009.1 河出書房新社刊行予定)などの、それぞれ新訳がある。「有鄰」は株式会社 有隣堂(横浜市)の発行する月刊情報紙。(2008.4.4 T)

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