抜書き帖 言葉・文学・文学教育・その他
 セザンヌが決定的な線を描かないのは (見出しは当サイトで付けました。)

丹尾安典+若桑みどり

[座談会]

「ああ言えばこう返す
二人三脚セザンヌ放談」より


=「芸術新潮」1996.1

若桑 もとにもどるけどセザンヌの影響は、たぶんに今日でも権威化した空疎なものとして残っていると思いますよ。いまだに小学校や中学校の教育のなかでは、セザンヌの静物を、それもあるパターンに偏したものを見せながら、「幾何学的な調和をとりながら構図をつくりましょう」なんていいながら教えているんじゃないかしら。その意味じゃ、幼児から大人までその影響は続いていると思いますけど、一番大事な人間の内部から湧きあがってくるような動機と結びついたフォルムや色のことは語っていないんじゃないかしら。ステレオタイプ化したセザンヌのなかには、セザンヌはいませんよ。なんでしょ、あのお経みたいにくりかえされる、「セザンヌは、円筒と球と円錐に自然を還元して描いた」というお題目は。
丹尾 そしてこれがキュビスムにつながる……というパターンね。それは、大学の西洋美術史のなかでも、いまだに形式的にくりかえされているとおもいますよ。それは何もセザンヌだけじゃなくて、絵というものを自分という生きた存在のまなこで見、自分の肉体化した言葉で語ろうとしない美術史家は、どんな画家のどんな作品に対しても、そういう空疎なお題目をとなえつづけますよ。作品にこめられた血や肉、人間が生んだイメージの生命とともに、自分がふるえる体験を持たないかぎり、作品も、それを見る人間も枯れていってしまいますよ。


「私の秘密(メ ・コンフィダンス)」という質問書の中の「あなたにとって、この世の幸福の理想とは?」に対するセザンヌの回答は「美しい公式(ベル・フォルミュール)を手に入れること」であった。〕

丹尾
 「美しい公式(ベル・フォルミュール)」というのは、まさに、コア、イデアに対する意識なんですよね。それは公式通りに絵を描くなんていうこととはまるで逆の態度ですよ。ためらいながら、いらいらしながら、うたがいながら、忍耐強く、執拗にコアのフォルミュールをセザンヌは模索していたにちがいないんです。
若桑 どうしてためらうかというと、自分のとらえたものが真実でないかもしれないから、そして、現象の奥に変わらぬものが絶対にあるのにとらえられないから、なんですよ。印象派は、木の葉をちらちらさせているけれども、ためらっていない。なぜためらっていないかといえば、現象がすべてで、その奥を見ようとしてないからなのよ。セザンヌが決定的な線をかかないのは、探究しているからなのよ。
丹尾 ためらいがあるから、リアリティが生まれるんですね。決定的な線は、引こうと思えば引けちゃうけど、それでは世界が自分にふれてくる有様は伝えられないんですよ。
若桑 絶対と相対のゆれのなかで、かれは探究を続けていった。そのプロセス、それがセザンヌの絵ですよ。
丹尾 セザンヌの絵には、たくさんの塗り残しがあるけれども、そこにわれわれが見るのは、塗れなかったという消極的な意味ではなく、そこまで到達したという積極的な痕跡ですね。
若桑 「レアリザシオンrealisasionの困難」とセザンヌが言っているのは絶対の探究者だからなのよ。そして絶対の探究は決して実現されない。私の学生時代に、セザンヌのまねしてわざと塗り残しをこしらえるヤツがいたけど、コイツは絶対の探究なんて絶対にしてない。ヘタな絵描きはちゃんと最後まで塗れ!(笑)
◇ひとこと◇ 「セザンヌの神話崩し」(丹尾)を共通基盤に持ちながら交わされる二人の熱いことばに、深い共感をおぼえる。「セザンヌ」を、いま「芥川龍之介」に、「太宰治」に、「芭蕉」に、……置き換えてみれば、それはとりもなおさず私たちが永年にわたり懸命に取り組んできた課題である。「作品にこめられた血や肉」などという捉え方には違和感を感じないわけにはいかないが、にもかかわらず、こうした異なった芸術分野の人たちの議論からも批判的に多くを学びたいと思う。丹尾(たんお)安典氏は早稲田大学教授(美術史)、若桑みどり氏は前千葉大学教授、現川村学園女子大学教授(美術史)。(2002.7.16 T)

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