〔 特集: いま、なぜ、『君たちはどう生きるか』(吉野源三郎)か 〕

いま、なぜ、『 君たちはどう生きるか 』 (吉野源三郎) か  
高村英夫  山本有三/吉野源三郎 著 君たちはどう生きるか  (唯物論研究会 『唯物論研究』64 1938.2)


 本書は、帝大新聞、読書新聞、それからコンテムポラリー ジャパーンなどにも既に新刊紹介されてをり、近頃の評判の書の一つで、過ぐる歳末には築地小劇場で芝居にもなつたものである。
 執筆者は、山本有三、吉野源三郎の両氏とあるが、序文によると、山本氏は病気のために殆んど吉野氏によつて出来たものだと言はれてゐる。吉野氏は、聞くところによると、哲学専攻の学者であると言ふ。さう言ふ一哲学者によつてこの児童の物語が書かれたと言ふところが本書の特異な点を形造つてゐる。
 これまでの児童読物はいつも定つた一つのイデオロギー的前提のもとに書かれてゐた。そのイデオロギーなるものも一応童心尊重を主張するものではある。けれどもそれ等は児童がその既成イデオロギーと全く別に自分自身の経験を獲得しても、その経験の糸をほぐし、それを解明し、育てるやうな児童の「真実の経験」尊重を意味するものではない。旧来のイデオロギーを前提とした童心尊重は児童が未発達であることに興味をつなぐが、それの成長に興味をつなぐものではない。
 本書は何よりもまづ児童の「真実の経験」を既成のイデオロギーから解放する。本書の物語の主人公はまだ白紙に近い中学二年生であつて、彼は彼として少年なりに社会を観察し、自然を観察して、古きイデオロギーに教はらない素直な自分の経験を獲得してゆく。さうしてこの本のなかには「叔父さんのノート」と言ふものが出て来て、これが著者の立場を示し、少年が獲得したまだカオス状態の然し少年としては真実な経験、それを親切に迎へて、分化させ、発展させ、無イデオロギーの原始から救ふ。そして正しい世界観へ誘導する。そのことが同時に若き読者に対して正しい方向の説明となつてゐるのである。
 或る日、不図ビルデイングの屋上から都会を眺めて、その少年は、自分をも含めて凡て人間と言ふものは等しく(、、、)社会形成の一分子である、と言ふ重大なる発想を獲得する、「叔父さんのノート」はその発想に解明を与へて、自分も一分子であると言ふことから自己中心的見方の誤りを説明して、知性的な、客観的な、ものゝ見方と言ふことを話して聞かせる。物語はそう言ふところから始つて、社会の正義が尊重され、それの実行力が賛美され、また自然についても社会についても科学的思考の尊重さるべきであること、そのほか消費と生産、富と貧困、或は英雄についての反省、実践のチヤンスについて、文化の世界性、等々、物語のなかの事件の起伏と織り交ぜられて一々重要な思想が暗示されてゐる。
 「どう生きるか」と言ふことは児童特有の問題ではなく成人にとつても切々たる問題であつて、本書は、いまのやうな時代、成人にとつても亦興味ある書物である。
 何よりも本書は著者自らが謂ふ文化進歩の線を行くと言ふその一つだけで他のあらゆる雑多な子供の読物と比較すべくもない。そして真実の広い教養と言ふ点でも秀越する。
 著者の説述の立脚地は人道のそれであると言へる。私はいまの社会でそれは正義であると思ふ。「結論」がそのまま理解できない場合そこへ誘導される諸前提を本書によつて与へられる子供等はせめても幸福である。
 ただ一二の疑問を言ふと、本書中には再三人類の進歩と言ふことが説かれてゐるが一般に又「いま現に」何が進歩的であるかと言ふ事の暗示がこれで足りてゐるのか、と言ふこと。実行の契機をつかむべきことを知り乍ら何がそれであるかを将来帰趣すべき諸条件の提示が乏しくはないかと言ふこと。それから童心が切望する話の本当の面白さ、笑ひ、従来の児童文学がその方面で相当に開拓した部分が本書では、欠けてゐないか。
 それから豊かな説得力を感じながらも何かしら著者の作物を感ずる部分も可成りにあつた。
 このやうなアルバイトの持つ意味は大きい。著者の将来への継続と発展を期待したい。

 

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