〔 特集: いま、なぜ、『君たちはどう生きるか』(吉野源三郎)か 〕

いま、なぜ、『 君たちはどう生きるか 』 (吉野源三郎) か  

  岐路に立つ文学教育――「君たちはどう生きるか」(吉野源三郎)と「朽助のいる谷間(井伏鱒二) 
(文学教育研究者集団 第65回全国集会 2016.8)
 

 
プログラム前文      いま、日本は大きな岐路に立っている。一つは、3月の平和安全法制(戦争法)の施行だ。日本の自衛隊が海外の戦争にかけつけ、殺し、殺される事態がいつ起きてもおかしくない。憲法9条がまさに無きものにされた。しかし、この事態のなかで、かつてないほどの多くの市民、国民がたちあがっている。とくに若い世代は、いままでにない語り口で「民主主義ってなんだ」「戦争法を本当に止める」と街頭から発信した。SEALDs(自由と民主主義のための学生緊急行動)だ。日付と名前をいれて「私は」「ぼくは」と一人称で語る。自分の発言に責任をもつ、自分も変化するという前提で話す。そのSEALDsの「選書プロジェクト基本図書15冊」のなかに『君たちはどう生きるか』(吉野源三郎)がある。1937年に刊行されたこの本が時代を超えて現代の若者の心に響いている。読み直してみた。中学生のコペル君が叔父さんとの対話のなかで自己凝視し、成長する物語だ。自分中心でなく、自分を人間関係の網の目のなかに位置づける。対話の相手もその網の目のなかの個人として尊敬する。そこにこそ、ほんとうの対話が成立する。いま、国語教育は、どう伝えるかのhow-toにやっきになっているように思う。大事なのは、何をどう伝えるかということ、いや、何をどう伝え合うかということ。文学教育の課題だ。1920年代の最後の年に発表された「朽助のいる谷間」(井伏鱒二)とともに、考えたい。

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