作家コーナー ■ケストナー (Erich Kaestner  1899.2.23-1974.7.29)
   

   ケストナー文学への言及
  半藤一利 『世界史のなかの昭和史』
(平凡社ライブラリー 2020.7) より


 
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 さらに昭和八年が歴史的に注目すべき年であったいくつかの事実をつけ加えます。
 まず日本帝国の国際連盟脱退があります。リットン調査団の調査報告にもとづく国連の対日勧告案が国連総会に提出されたのが八年二月のこと。それには、わかりやすくいうと①満州は中国に主権のあることの明記、②日本軍のひとまずの撤退、③国連外にある米ソ両国を加えた関係委員会による日中交渉の促進など、日本としてはうけ入れ難い事項がふくまれていました。
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 二月二十四日、国連総会は勧告案を四十二対一で可決しました。反対の一票は日本のもの。日本全権松岡洋右たちは「サヨナラ」を正式に表明し退場します。日本が栄光ある「世界の孤児」になった瞬間でありました。
 いずれにせよ、民草は、一方的かつ確信的な新聞報道に吹き込まれ、国際的な被害者なのに〝加害者〟として非難されていると信じ、強烈な危機感と孤立感と、それにともなう排外的な感情とをつのらせていきました。そのことが何をうんだか、後の歴史が示すとおりです。
 それに考えてみると、ドイツの国会議事堂の炎上が日本の国連脱退の三日後の二十七日。また、その日、天皇はヒトラー政権樹立の報告をはじめてうけている。またまた、歴史的偶然とはつまりは神の思し召し、必然なのだといいたくなってきます。
 ドイツが話題にのぼったところで、ついでにナチスの焚書についてかいておきたいと思います。ヒトラー独裁確立後のベルリンで、中世さながらの焚書の愚挙が再現されたのが五月十日のことでした。非ドイツ的・マルクス的・ユダヤ的なものとみなされる書物が、この日、すべて炎のなかに投げこまれたのです。アインシュタイン、フロイト、トーマス・マン、ツヴァイクなどの著書二万冊が灰と化す。
 同じように火あぶりの刑に処せられたものに、『エーミールと探偵たち』『飛ぶ教室』などの作家ケストナーの著書もふくまれていました。「将来の告発者として居あわせたい」と決意した彼は、多くの作家が亡命するなかで、ベルリンにとどまっていました。そしてこの日、わざわざ自分の本が燃やされる現場に見物に出かけたのです。
 「私たちの本がめらめらと燃える炎のなかに投げこまれるのを見、うそつきゲッベルスの長広舌を聞いた」
 その『日記』にかかれたこの個所を読むたびに、この作家の精神の強さにはげしい感動をおぼえるのです。
 その野蛮なナチス・ドイツが国際連盟から脱退するのがこの年の十月十四日。進んで「世界の孤児」となることをこの国も選びとったわけです。孤児の淋しさをかこつ日本の眼前に突如として現れた、といっていいかと思います。そして孤児同士の視線は妙に交錯し合って、両国はこのあと急接近していく。昭和史にナチスがからみだしたことになるわけで、いっぽうで、この二つの大国の連盟からの脱退は、せっかく世界が模索してきた集団安全保障体制をガラガラと崩したことにほかなりません。世界情勢はこのあとがぜん怪しくなり、不安となる。が、当座はそれほどの危機感をもって欧米列強はうけとめようとはしなかったのです。(p.88-90)

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 ドイツ国民は、突撃隊(SA)の暴虐がとりのぞかれたことにホッとしたときがあったようです。そこが歴史の不可思議なところで、ごく一部をのぞいて民草はこの虐殺をむしろ歓迎した。つぎに何が待っているかわからないままに、いや、わからないゆえに時の流れに任せていったのでしょうが。そかし、やがて、突撃隊の残忍さに親衛隊(SS)と秘密警察(ゲシュタポ)の残忍さがとって代わったにすぎないことを思い知らされ、戦慄させられることになる。しかも信頼すべき伝統ある国防軍がその蛮行を黙認しつづけたことにも、やがてはショックこの上ない思いをさせられることになるのです。
 島国に生をうけた日本人には容易にできることではないのですが、こうなると祖国を捨てて他国に亡命していくドイツ人が当然のことながら次第にふえていきました。生計の道を断たれて亡命を余儀なくされたユダヤ人や作家たちはもちろんのこと、反ナチスの大学教授やジャーナリストも多くいました。科学者のアインシュタイン、思想家のベンヤミン、作家のトーマス・マン、ベルトルト・ブレヒト、アルノルト・ツヴァイクなどなど。その人びとのペンや弁舌をとおして、ヒトラーのドイツの暴虐を訴える声は世界に広まっていきました。たいして知識人の大敵というイメージを平気で打ちだしたヒトラーは、ドイツ市民権を剥奪した人びとの名を定期的に公表していきました。
 ドイツ文学者池田浩士氏の著『ファシズムと文学』によると、ヒトラーが政権の座についてからちょっとあとの昭和八年五月五日に、フランスの作家ロマン・ロランが早くもナチスの蛮行にたいする抗議の手紙を、ドイツの一新聞に送っていたというのです。さすが『ジャン・クリストフ』の作家と思わず手を叩きました。
 偉大な世界市民の国として愛してきたドイツが、いまや足で踏みにじられ、血で汚され、世界中から嘲りはずかしめられている。鉤十字の連中が、自由精神の士たち、ヨーロッパ市民たち、平和主義者、ユダヤ人、社会主義者、共産主義者を追放し、好き勝手なことをやっている、と訴えた上で、ロマン・ロランはこうドイツに残っている知識人たちを告発するのです。そのごく一部を。
 「諸君は、公表されラジオで流されている諸君の指導者たち――ヒトラー、ゲーリング、ゲッベルス――自身の言明を、知らぬと言いはるつもりか? 彼らの暴力扇動、自分以外の人種を、たとえばユダヤ人を絶滅せねばならぬという、かれらの人種主義の宣言、西欧にとってはとうの昔に過去のものとなっている中世のこうした腐臭を、知らぬと言いはるつもりか?」
 ロマン・ロランのこうしたいくつもの詰問にたいして、それを突きつけられた〝諸君〟のひとり、ビンディングという作家が新生ドイツの現実を全面的に擁護した一文をもって答えたというのです。この作家の作品など一編も読んだことのないわたくしには、どんな作家なのかまったく見当もつきませんが、当時のドイツ文壇の大御所であったらしい。しかも、それは長い長い返答であったといいますが、これもその勘所のほんの一部を。
 「ドイツ――このドイツ――は、ドイツを 欲する という、いかなる代償を払っても、いかなる破綻と引きかえにでもそれを欲するという、狂おしいまでの憧憬から、内面の憑かれたような状態から、血まみれの陣痛のなかから、生まれたのである。これをまえにしては、いかなる告発もくずれ去る」
 引用がこれだけではそのいい分を完全には理解しかねるかもしれませんが、池田教授がかいている解説には、わたしも多分そうであろうな、それは正しいなという思いを抱くのです。
 「ビンディングのナチス・ドイツ支持宣言は、亡命することもなくまたナチ党員となって権力と一体化することもなくドイツにとどまった圧倒的多数のドイツ人の気持を、いささか大仰にではあれ、ほぼ代弁していたといえよう」
 つまり太平洋戦争下の日本人(わたくしたち少国民もふくめます)の気持ちと、どこか共通するものがあるように思えるのです。どんなに負け戦さがつづき敗色濃厚となりながらも、なお神国思想があり、世界に冠たる民族の思いがあり、八紘一宇の理想のもとに、アジアの盟主たるべく運命づけられた国民という信念が日本人一般にはありました。もちろん煽りに煽られて仕込まれた観念でしかなかったかもしれませんが、終戦時十五歳のわたくしは、かなり反戦的な考えをもっていた親父の薫陶もあって、いくら何でもそれをそのまま鵜呑みにしてはいませんでしたが、歴史はじまっていらい一度も征服されたことがないという民族の誇り、国家への信頼は、やっぱり八月十五日の天皇放送を聞くまであったと思います。
 祖国、生をうけた国家というもの、うるわしの山河、それは「いかなる代償を払っても、いかなる破滅と引きかえにでもそれを欲するという、狂おしいまでの憧憬」は民草の気持ちの底のほうにあるようです。つまりそれが素朴な愛国心というもの。それに国家が乗っかる、大いに利用する、じつはそこが国家というものの恐ろしさであるようです。戦争中にそれをわたくしたちはいやというほど体験させられました。ついには見捨てられることも知らず、純な民草は国家に最後までついていったのです。
 ドイツの民草もおそらくそうであったのでしょう。昭和八年八月には全人口の十五人に一人、成人(有権者)の十人に一人がナチス党員であったといいます。そしてそのまわりには、彼らを支持し、協力し、あるいは容認する人びとがほとんど。ビンディングがかくように「世界は、われわれが体験してきたようなことをかつて体験したことがないのである。すべてはまだ始まったばかりである」とそう信じて。(p.106-109)

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 独ソ不可侵条約が正式に発表されて、八月二十四日には改めて全世界を驚倒させましたが、イギリスのチェンバレン首相は議会にて「まったく不愉快きわまる条約であるが、だからといって、英仏両国のポーランド保護の決意にはいささかの変化もない。ヒトラー総統がこれを誤解すると、きわめて危険な事態を招くことになるであろう」と演説します。
 それを知らされたその夜のヒトラーはじつに不機嫌であったといいます。宿敵スターリンとの握手という世界的な離れ業をやってのけたというのに、イギリスとフランスにさしたる効果を与えなかったのかと、大きな失望を感じたからです。そして不機嫌の底のほうから憤怒のつきあげてくるのを感じていました。
 いや、いまは各国の指導者が何を思ったかということより、わずかな情報を知るのみの国民の一人ひとりがうけた衝撃がどうであったか、そっちに視線を向けるべきかもしれません。いつの時代でも、日常の生活をせっせとやっている人びとにとって、あり得ないと思うような政治状況の急変は、いつでも天から降ってくるように突然のものであるからです。
 ドイツの作家ケストナーは、急激に破局に向いつつある地球上で、ただ一つ残された希望の象徴と思っていたソ連という国と共産主義に、愕然としつつ最後の決別の辞を送ったのがこの日であると、はっきりとかいています。
 「それは、リッペントロップの到着を歓迎してモスクワ空港でハーケン・クロイツ(鉤十字)の旗が掲げられ、赤軍の軍楽隊がナチス党歌を演奏した時であった。それが最後であった。その時いらい、ヒトラーの同盟者(共産党)が私を反革命家と呼んでいるかどうかなどということは、もはやまったく気にならなくなったのである」(ヴォルフガンク・レオンハルト『裏切り』より引用)
 ソ連の作家エレンブルグも、パリでソ連政府機関紙イズベスチヤの通信員として働いていたが、この報をニュースで聞いたときのことをかき残しています。
 「その日のうちに、身体の調子がおかしくなってしまった。しかも、その病気は医者にも診断時不可能なものであった。要するに、それから八ヶ月もの間、私は食べることができなくなり、体重が十八キロ以上も減ってしまったのである。(中略)私はカカシのように痩せ細ってしまった」(『わが回想』第四部)
 それでは日本人は? となると、歌人斎藤茂吉も詩人木下杢太郎も、その日の日記をひらいてみたがまったく一行たりともそれらしい記載は残していない。まして永井荷風においてをや。それらしいことは噂でもうさんざん聞かされたこと、いまさら何だ、すべては遠いヨーロッパでの出来事と、だれの関心も呼ばなかったわけでもないでしょうが。とにかく日本国民は大した衝撃をうけなかったようです。また『昭和天皇実録』にも二十四日の記述にはそれらしいことはまったくない。(p.257-259)
(p.257-259)
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【付1】
  半藤一利 『B面昭和史1926-1945 (平凡社リブラリー 2019.2)「あとがき」より

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 たしかに「歴史はくり返す」と昔からいわれています。わたくし自身はかならずしもそうは思っていないのですが、かなりそのとおりと確信している人が多くいます。なるほど、歴史をふり返ると、そう考えても間違ってはいないように思われる共通点がある。例えば、国力が弱まり社会が混沌としてくると、人びとは強い英雄(独裁者)を希求するようになる。また、人々の政治的無関心が高まると、それに乗じてつぎつぎに法が整備されることで権力の抑圧も強まり、そこにある種の危機が襲ってくるともう後戻りはできなくなる。あるいはまた、同じ勇ましいフレーズをくり返し聞かされることで思考が停止し、強いものに従うことが一種の幸福感となる。そして同調する多くの仲間が生まれ、自分たちと異なる考えをもつものを軽蔑し、それを攻撃することが罪と思われなくなる、などなど。そうしたことはくり返されている。と、やっぱり歴史はくり返すのかなと思いたくなってしまいます。
 それに、歴史は人間がつくるものなのです。つくった当事者は去っていっても事実は残ります。そのあとに、その当事者とはまったく異種の人間が生まれ育たないかぎり、多分に同じようなことをするに違いないのです。征服欲、虚栄心、攻撃性、名誉欲、暴力への恍惚といった感情が、素地として植えつけられた人間があとを継ぐ限り、太平洋戦争のように国民が大政翼賛の空気に押し流され、ちょっとしたきっかけで暴発することは、永遠にくり返されるのかもしれません。人間が断々乎として、無謀で悲惨な殺し合いを拒否する意思を保たなければ、歴史はくり返すというほかはないかと、いまはわたくしもそう考えないわけにはいかないかなという気持ちになっています。
 しかし、『戦争論』で知られるクラウゼヴィッツは「戦争は、それ以前の事態にまったく関わりなく突如として勃発するものではない」といっています。それはそのとおりで、教訓としなければならないのは戦争への過程、つまり前段階です。あとになって「あのときがノー・リターン・ポイントだった」と悔いないためにも、わたくしたち民草がどのように時勢の動きに流され、何をそのときどきで考えていたか、つまり戦争への過程を昭和史から知ることが、平和でありつづけるための大事な日常的努力ではないかと思われるのです。
 過去の戦争は決して指導者だけでやったのではなく、わたくしたち民草がその気になったのです。総力戦の掛け声に率先して乗ったのです。それゆえに実際に何があったのか、誰が何をしたのか、それをくり返し考え知ることが大事だと思います。無念の死をとげた人びとのことを忘れないこと、それはふたたび同じことをくり返さないことに通じるからです。少々疲れる努力ですが。本書が少しでもその役に立てばありがたいと本気で願っています。(p.591-593)
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   二〇一五年十二月十五日                            半藤一利

 (筆者・半藤一利は2021年1月12日死去。享年90。)




【付2】
  高橋健二 『ケストナーの終戦日記』 (駸々堂出版 1985.8)「まえがき」より
   
(原題:"Notabene 1945. Ein Tagebuch von Erich Kästner" 『四五年を銘記せよ、エーリヒ・ケストナーの日記』)

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 本書には、1945年のほぼ前半期の手記がふくまれている。大きな年代記を見ればわかるように、それは動乱の数か月であった。第三帝国は崩壊した。

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 その半年の混乱の中で、わたしはベルリンからチロールを経てバイエルンに移動した。国土は破壊されたアリヅカに似ていた。わたしは、じぐざぐに入り乱れて走る数百万のアリの中の一匹だった。日記をつけているアリだった。わたしは走りながら見たこと聞いたことをメモした。

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 このメモは、「自分の記憶のための発火物質」、いつの日かわたしが燃えあがらせるであろうベンガル花火の材料になるはずであった。雷鳴と血なまぐさいしるしを空に見せ、車輪によって、回転する火の車輪によって車裂きにされた人間を遠く長く目に見えるようにする、すさまじい花火になるはずであった。ことばを変えると、わたしは一大長編小説を書くつもりだった。だが、それを書かなかった。
 わたしは二つの理由から降服した。それが自分にはできないことに気づいたからである。また、自分がそれを欲していないことに気づいたからである。

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 一九三三年から四五年にかけての長編小説を書くことができないという自分の無能力よりも、そもそもそれが書かれ得るという可能性を、わたしはずっと前から疑っていた。

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 ナチスの千年の国家は大長編の材料を持っていない。それは大きな形には役に立たない。「人間喜劇」にも、「非人間喜劇」にも役立たない。――十二年間にわたってふくれあがった犠牲者と刑吏との数百万名の名簿を建築学的に組み立てることはできない。統計を作曲することはできない。それを企てたところで、大長編はできあがらず、できるものは、架空のアドレスや偽名に満ちた、芸術的見地で整理された、即ち、ゆがめられた血なまぐさい人名簿であろう。
 
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 歴史家は怠けてはいない。記録が集められ、評価される。回顧するために全容が開放される。やがて過去が検討され得るようになる。教室でも。――どうしてそうなったか、どういうふうであったかを、示すこと、見ることができるだろう。だが、大きな年代記は数をあげ、清算をする。それが年代記の任務である。年代記は数を確証するが、人間を隠す。そこに年代記の限界がある。それは、全体において起きたことを伝える。だが、その全体は半分に過ぎない。
 数が生きたり死んだりしたのか。大勢のユダヤ人の母親がポーランドの広場でドイツ軍の機関銃火の中に追いこまれながら、泣いている子供らを慰めた時、その母親たちは数のつながりだったろうか。

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 人間が、幾けたもの数のように黒板に書かれ、また海綿の一なでで消された。大年代記には人間みんなのために場所があるが、みんないっしょのために場所があるだけで、個々の人間はその中には現われない。個々の人間は学校の地球儀上にわたしの家にある小さいモミの木がさがせないように、年代記の中にはほとんど何もさがすことができない。個々の人間は、他の書物に見いだされる。書物をのぞきこむものは、望遠鏡によって凝視するのでも、顕微鏡をのぞくのでも、レントゲン線のスクリーンを見つめるのでもない。肉眼で十分である。過去の断片が一対一の尺度で現われ、過去が明白になる。人間が目に見える。人間が等身大で現われる。

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 日記は、過ぎ去った現在を提供する。在庫目録の作成としてではなく、瞬間撮影の形で。――展望の形ではなく、のぞきこむことによって。日記は、実物教授の材料を、メモの形のアマチュア写真を、偶然が配列した場面を、過去がまだ現在と呼ばれた時のスナップショットを含んでいる。

 あの過去は、克服されない過去は、落ちつかない幽霊に似ている。わたしたちの日々と夢の中をさまよい、太古からの幽霊のしきたりに従って、わたしたちから見つめられ、話しかけられ、耳をかされるのを待っている幽霊に似ている。わたしたちが、肝をつぶして、ナイトキャップを引っぱって目と耳を隠してみたところで、なんの役にもたたない。幽霊を直視して、「語れ!」と言うほかはない。過去を語らねばならない。わたしたちは傾聴しなければならない。そうしないうちは、わたしたちも過去も落ちつけないだろう。

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                                        エーリヒ・ケストナー
   一九六一年春


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