年譜・ケストナーの生活と文学 | |
※ この年譜は、文学教育研究者集団著『ケストナー文学への探検地図――「飛ぶ教室」/「動物会議」の世界へ』(こうち書房 2004.11刊)所収の「年譜・ケストナーの生活と文学」(芝崎文仁 作成)に基づいている。(もとの年譜は“読む年表”として作られているが、ここでは主として技術的な理由からその趣旨を必ずしも生かしきれていない面があることをお断りしておく。) ※ 元の縦書を横書に変えたほか、形式上・表記上に若干の変更がある。年齢欄を新たに加えた。また、 明らかなミス・プリントは訂正した。 ※ ▼印の作品は、諸種の年表(等)において発表年が必ずしも一致していない。ここでの扱いについては「凡例」(1)の後段を参照されたい。 |
1899〜1905年 誕生と家庭 | ||||||||||
0歳 | 1899年 エーリヒ・ケストナーは2月23日ドレスデンに生れた。「2月午前4時ごろ、かれこれ7年の結婚生活ののち、彼女は国王通り66番地で男の子を産んだ。金髪の巻き毛のふさふさした子どもだった」(『わたしが子どもだったころ』以下
A)。両親、エーミール・ケストナーとイーダ・アマーリアの二人はイーダの姉たちの勧めで結婚した。イーダにとって愛
のない結婚だったという。その後の「父親の歩んだ道は、工業化によって特徴づけられていた。彼は革具師だった。彼のすばらしい革製品は展覧会で賞を与えられた」(『子どもと子どものための本』以下
B)。「父はたしかに第一級の職人、いや、皮の芸術家だったが、劣等な商人だった」(A)。そのため、「1985年に店と仕事場を損をして売り、リーデルおじさんに呼ばれて、ドレスデンに移住した。そこでエーリヒが生れた。機械の時代は戦車のように、手仕事と自立との上をころがって行った」(A)ので、「独立の職人、父エーミールはリボルト・トランク工場の収入の低い労働者になった」(B)のだ。
【ドイツ社会】 |
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1906〜1916年 小学校〜教員養成所 | ||||||||||
5歳 | 1904年 収入の少ないケストナー家では、ケストナーが五歳の時、間借り人を置いた。それはみんな学校の先生であった。その先生たちはケストナーが小学校の先生になることを勧めた。母イーダは「(教育費を稼ぐために)共かせぎをしようと決心した。息子が学校にはいった時、彼女は三十四歳だった。三十歳以上の女にとって、そのころ職業につくのは簡単なことではなかった。しかし彼女は思いまどわなかった。有能な美容師を見つけて、仕込んでもらった。彼女はお金をかせぎ、息子が十三歳まで通った市立小学校と、その後通った師範学校の費用を払った。」(B) | |||||||||
7歳 | 1906年 ケストナーは、ドレスデン市立第四小学校に入学した。間借り人の先生に憧れて、小学校の先生になりたいと思った。 | |||||||||
8歳 | 1907年 八歳のころから、母イーダと二人で徒歩旅行に行くようになる。「測量用地図をたよりに一日四十キロから五十キロ歩いた。一週間、ときとしては二週間。父はきちょうめんで、私たちが帰ってくる前に家中をきれいに掃除した」(B)とケストナーは書いている。また、芝居とオペラを二人で観にいった。安い立見席券のために母は何時間も並んだ。ケストナーが母と一緒の時、父はいつもひとりで家で留守番である。 その父がクリスマスには手作りの贈り物をしてくれた。母は息子のためにたくさんの買物をしてきた。ふだん仲の悪い両親は、息子をめぐって火花をちらすはめになり、両方に気を使わなければならず、ケストナーにとってクリスマスは気が滅入る日になった。 |
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13歳 | 1912年 教員養成所予備クラスに合格。翌年、全寮制のフレッチャー男爵記念教員養成所に入学した。「師範学校時代は、すぐれた学問的教育を受けられたにもかかわらず、彼にとっていわば生活の拷問室だった。屈託のない、天分のある、陽気な少年たちを『部下』に訓練しなおすやり方を、彼はたえず心身の打撃と感じた。……彼はたえず教育者たちの方法に反抗した」(B)。しかし、「授業は、知性をはたらかせ、耳を開いて受けた。彼は勉強好きで、まめで、よい生徒として、いや、首席として抜群だった。しかし、彼は、教授がお通りになるとき、新兵のようにわきにさがり、ズボンの縫い目に手をあてて敬礼することをきらった。母親が病気になって、彼がうちで母のため料理をしてやらなければならなくなった時、彼は寄宿舎から逃げ出した」(B)のだ。この体験をケストナーは後に『飛ぶ教室』のなかに生かしている。 | |||||||||
15歳 | 1914年 戦争が始まり、上級生たちに召集令状がきて、戦場へ出かけ、戦死した。そのため教員不足が生じ、ケストナーは実習生として教壇に立った。子どもたちを前にして自分が教員に向いていないと自覚した。「先生や教育者は、落ちつきがあって、がまんづよくなければならない。じぶんのことでなく、生徒のことを考えなければならない」が、「わたしはがまんづよくもなく、落ちつきがない」(A)と判断したのだ。
【ワイマール体制】 |
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1917〜1925年 軍隊へ、そしてギムナジウム、大学へ | ||||||||||
18歳 | 1917年 夏、ケストナーにも召集令状がきた。十八歳。配属された中隊では、ヴァウリヒ鬼軍曹の理不尽な仕打ちのために心臓を痛め、入院した後、除隊となる。再度召集されるが、ドイツ帝国の崩壊で帰還した。この戦争を経験して、後に「軍服を着た高校生」「ヴァウリヒ軍曹」「きみ知るや、大砲の花咲く国を」などの詩を書いている。 |
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19歳 | 1918年 ケストナーはもっと勉強したいとギムナジウムに入学した。自由な雰囲気の学校に喜び、一層勉強に励み、抜群の成績で、「ドレスデン市の金の奨学金」を受けて、ライプツィヒ大学へ進み、ドイツ文学、演劇史、哲学、などを専攻した。また、詩を教員養成所時代に書きはじめ、大学の時から本格的に書き始めた。学生たちが出している『ライプツィヒ学生詩集』に三編の詩(「薄明かり」/「君の手」/「帰郷」*)を載せる。 | (* 三つの作品名はドイツのケストナー関連HPに拠る。) | ||||||||
22歳 | 1921年 冬、レッシングの「ハンブルク演劇論」をテーマに博士論文と取り組むため、ベルリンに移った。物価高騰のため、アルバイトをしなければならず、生活は困難を極めていた。 | |||||||||
23歳 | 1922年 ライプツィヒ大学のケスター教授の誘いを受けて、再びライプツィヒに戻った。助手の給料だけでは生活できず、サンドイッチマンなどの仕事までした。そんななかで、インフレ時代を皮肉ったエッセイ「マックスと燕尾服」を書いて『ライプツィヒ日報』に投稿した。掲載されたのが縁で、この新聞社に学生の身分のまま勤務することになった。初任給200マルク。新聞に演劇評論、美術評論、風刺詩、政治時評などを書き、他の雑誌にもエッセイなどを書いてジャーナリストの仲間入りをした。 | |||||||||
24歳 | 1923年 挿絵画家エーリヒ・オーザーと知り合い、ケストナーが文章を書き、オーザーが挿絵をつけるという共同の仕事をしている。 | 〈1923年〉 ・詩「地球は丸いよ」 |
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26歳 | 1925年 論文「フリードリヒ大王とドイツ文学」を完成させ、文学博士号を取得した。また、学制の身分のまま『新ライプツィヒ新聞』の文芸欄第二編集長となった。他の新聞、雑誌にも文化面にすぐれた評論を書き、若手作家として認められていく。
【戦後のインフレ】 |
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1926〜1923年 『世界舞台』へデビュー〜詩集の出版〜児童文学へ | ||||||||||
27歳 | 1926年 1921年にベルリンで知り合い、深く愛し合うようになった女学生イルゼ・ベークスと別れた。その思いを後に詩「情緒のないロマンス」に書いた。この時期、収入も安定したので、いつものように父を留守番に残して、母イーダと二人で北イタリアからスイスを旅行した。この旅行のなかで、恋人イルゼのことも相談している。 | 〈1926年〉 ・詩「裸になった男の手紙」 |
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28歳 | 1927年 ケストナーのかなりエロティックな詩「室内楽名演奏家の夕べの歌」をオーザーの挿絵つきで、もう一人の友人エーリヒ・クナウフが編集する『プラウエン人民新聞』に掲載した。これが没後百周年のベートーベンにふれていたことで、保守派から猛攻撃を受け、『新ライプツィヒ新聞』編集長を辞めさせられ、生活の糧を失った。しかし、ベルリンで演劇評論を書き送ってくれれば、毎月一定額を支給するという『新ライプツィヒ新聞』の申し出を受けて、ベルリンへ移住した。このベルリン行きが幸運をもたらし、後のケストナーのすぐれた業績を生んだ。『新ライプツィヒ新聞』に演劇評論を書く一方、当時最も権威のあった雑誌『世界舞台』にも発表の場を得、政治評論家クルト・トゥホルスキーの親交も得た。その他当時の有数の人たちと交わった。 | 〈1927年〉 ・詩「時は自動車を駈る」 ・詩「一八九九年生まれ」 ・詩「きみ知るや、大砲の花咲く国を」 ・詩「室内楽名演奏家の夕べの歌」 ・短編小説「小さな男の子の旅」 |
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29歳 | 1928年 第一詩集『腰の上の心臓』を出版。1万5千部のベストセラーになった。また、ケストナーは子どもの本を書くようになる。それは、、「(28年の)秋、その刺激は『世界舞台』の出版者から来ました。自由主義的な、平和主義的な左寄りの週刊誌の出版者は創刊者の未亡人エーディト・ヤーコプゾーンでした。彼女はヒュー・ロフティングのドリトル先生シリーズや、A.A.ミルンの『クマのプーさん』や、カレル・チャペック二巻を、ドイツ語訳で出していました。「いいドイツの著者がいないんですと彼女は言いました。『子どもの本をお書きなさい!』/わたしはすっかり面食らいました。『一体全体どうして、そんなものがわたしに書けるなんてことを思いついたんですか。』/『あなたの短編にはたびたび子どもが出てきますもの』彼女は説明しました。『そのほうのことはたっぷりごぞんじですよ。あと、ほんの一歩ですよ。子どもについて書くだけでなく、子どものためにもお書きなさい!』/『それはたしかにひどくむずかしいが、やってみます』とわたしは言いました。」(B) | 〈1928年〉 ・第一詩集『腰の上の心臓』 ・詩「即物的物語詩(情緒のないロマンス)」 ・詩「郊外の別れ」 |
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30歳 | 1929年 『エーミールと探偵たち』を出版。このころ、トリヤーとも出会い、挿絵をかいてもらう。以後多くのケストナー作品の挿絵をトリヤーがかいている。第二詩集『鏡の中の大騒ぎ』を出版。これも大ヒットで、「ケストナー、詩をブームに乗せる!」という広告も出、ハイネ以来の読まれ方をした。当時の著名なジャーナリスト、ルドルフ・フランクは、「実用抒情詩」ということばを使って批評した。後(1936年)に、『ドクトル・エーリヒ・ケストナーの抒情的家庭薬局』(小松太郎訳では『人生処方詩集』)を出版している。ケストナーはオーザーと一緒にソ連のモスクワやレニングラードを訪問した。この頃、ソ連に興味をもって多くの芸術家が訪問し、「社会主義」の国ソ連の実状を確かめようとした。感銘を受けて帰ってくる人たちもいたが、多くは少なからず失望してきた。ケストナーもその一人であり、「案内された所とそうでない所を少し見てきた。でも、ベルリンの自由と、危険覚悟での暮しのほうが、ぼくたちにはよいように思われた」と、述べている。この時期、ケストナーは、『世界舞台』を中心に、そこに集う当時一流の人たち(編集長カール・フォン・オシエツキーの他、クルト・トゥホルスキー、ヘルマン・ケステンなど)と、自由のための論陣を張っていた。後に児童文学については、児童文学研究家クラウス・ドーデラーが次のように評している。「ケストナーは子どもたちに呼びかける。自信をもって堂々と、しかも賢く生きなさい。そして、困っている人を見かけたら手助けし、いつも前向きでいて、勇気を失わず、自分の人生を切り開いていきなさい。そうすれば必ず人生の成功者になれるだろうと」。
【ナチスの政権獲得の過程】 |
〈1929年〉 ・詩「感情の反復」 ・詩「明後日の幻想」 ・詩「間借り人の憂鬱」 ・詩「ある種の夫婦」 ・詩「軍服を着た高校生」 ・詩「もう一つの可能性」 ・詩「真相告知」 ・詩「レッシング」 ・詩「クルト・シュミット、譚詩にかえて」 ・詩「詩の決意」 ・詩「千二百米の高地における高貴な人々」 ・短編小説「おかあさんがふたり」 ・第二詩集『鏡の中の大騒ぎ』 ・『エーミールと探偵たち』▼(最初の児童文学) ・ラジオ劇『時を生きる』 〈1930年〉 ・第三詩集『ある男が通知する』 ・詩「高山の仮装舞踏会」 ・詩「寝室会議」 ・詩「場末の通り」 ・詩「不信の譚詩」 ・詩「経歴概略」 ・映画脚本『エーミールと探偵たち』 ・コメディ映画脚本『それならむしろ肝油を』 ・絵本『腕長アルトゥール』▼ ・絵本『魔法にかけられた電話』▼ 〈1931年〉 ・『ファービアン』 ・『点子ちゃんとアントン』 ・詩「息子への手紙」 ・詩「ヴェルダン、多年の後」 ・詩「人類の発達」 ・詩「鉄道譬喩」 ・詩「ケストナーさん、どこにポジティブなものがありますか?」 〈1932年〉 ・第四詩集『椅子の間の歌』 ・『五月三十五日』▼ ・詩「何度でもいおう」 ・詩「行進の歌」 ・詩「男声のためのホテルのソロ」 ・詩「顔を後ろは誰も覗かない」 |
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1933〜1945年 ドイツに踏み止まって見たもの | ||||||||||
34歳 | 1933年 国会議事堂放火事件と緊急令の発令をチロルで聞いたケストナーはスイスのチューリヒに行き、ドイツから亡命してきた顔見知りの人々と会った。みんなはケストナーに亡命を勧めたが、ケストナーはベルリンに戻った。5月10日の焚書事件は、各地で行なわれたが、ケストナーはベルリンのオペラ座前で、この蛮行を見つめていた。焼かれた本は二万冊、ドイツ人は二十四人であり、そのなかにはケストナーの本『ファービアン』と四冊の詩集があった。ケストナーの名前は、ハインリヒ・マンとエルンスト・グレーザーと一緒に呼ばれ、「退廃とモラルの崩壊に反対!」「家庭の規律と風紀を守ろう!」と、学生は叫んでは本を火のなかに投げ込んだ。その場にいた顔見知りの一人の女性が、ケストナーを見て驚き、思わず「ケストナーがいる」と叫んだ。ケストナーは素早くその場から逃れた。後年1982年に、その時警備についていた一人の警官がそれを証言している。ケストナーの作品は、『エーミールと探偵たち』を除いては、すべて販売禁止、図書館の閲覧禁止となる。 | 〈1933年〉 ・『飛ぶ教室』 ・詩「余計な質問に対する当然の答え」 |
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35歳 | 1934年 執筆禁止を受けていたケストナーが、『雪の中の三人男』の出版のための広告を出したところ、出版は不許可となり、自分のためも含め一切の文章を書くことを禁じられた。しかし、外貨不足に悩むナチスドイツは、人気のあるケストナーの作品の国外での出版は許可した。以後ケストナーの作品は国外で出版された。また、チェコスロヴァキアのプラハに住んで反ドイツ的抵抗運動をしている容疑で初めて逮捕されたが、ベルリンにずっと住んでいるとわかり、釈放された。密告による二度目の逮捕も密告内容がデマとわかり、免れた。しかし、その危険性がなくなったわけではない。 | 〈1934年〉 ・『雪の中の三人男』(国外出版を許可された最初の作品) 〈1935年〉 ・『エーミールと三人のふたご』▼ ・『消え失せた密画』▼ 〈1936年〉 ・『ケストナー博士の抒情的家庭薬局』(邦訳名『人生処方詩集』など。政治色のない詩を選んで編集) ・詩「森は黙す」 ・詩「墓場の老婆」 ・詩「堅信礼を受ける少年の写真によせる」 |
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37歳 | 1936年 ベルリンでオリンピック開催。何もすることのできないケストナーは、オリンピックを見て過ごした。37年1月には、「ドイツ警察の日」に『エーミールと探偵たち』の映画を子どもたちに見せると大宣伝しているのに驚いた。しかし、ケストナーへの警戒がゆるんだのではなく、その数週間後に二度目の逮捕があり、生活費や出版社などについて、きびしく追及されたが、釈放された。 | |||||||||
38歳 | 1937年 5月の徴兵検査は、心臓が悪いため徴兵不合格者のスタンプが押された。その後、オーストリアにきたトリヤーと会うために、日帰りの国境往来をした。この経験をもとに、翌年『ゲオルグと予期せぬ出来事』(戦後版は『小さな国境往来』に改題。邦訳題名『一杯の珈琲から』)をトリヤーの挿絵つきでスイスにおいて出版した。ここでも多くの友人に亡命を勧められたが、ベルリンに帰ってきた。 | |||||||||
39歳 | 1938年 8月には、ロンドンにいるトリヤーに会いにいった。『ティル・オイレンシュピーゲル』の挿絵の相談である。ここでも亡命を勧められたが、戦争が起きそうな情況なので、急いでベルリンへ戻った。ヒトラーは「今こそ、国に新しい秩序を打ち立てよう」と叫んでいたが、これは、ユダヤ人への残虐非道な迫害を意味していた。11月10日の夜、ユダヤ人の商店を鉄棒をもって打ち壊していく男たちの異様な光景に出会った。それは、11月9日の夜(後にドイツ人は「水晶の夜」といった)から始まったもので、ユダヤ人へのすさまじい迫害を示していた。ケストナーは、「良心という、人が本来もっている普遍的なものさしが、とりあげられてしまった。」と書いている。 | 〈1938年〉 ・『ゲオルクと予期せぬ出来事』(邦訳名『一杯の珈琲から』など) ・再話『ティル・オイレンシュピーゲル』 |
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40歳 | 1939年 9月1日、独逸軍がポーランドを侵略することで、第二次世界大戦は始まった。ケストナーは戦争のなかで、作品発表の場もなく、沈黙を守るしかなく、国内で起きていることをひそかにメモに書いていた。国内外の友人との連絡はほとんどなくなり、憂鬱になっていた。 | |||||||||
41歳 | 1940年 1月には、ケストナーは自分に宛て「ひとりぼっちなんだ」と手紙を書き、それに返事を書いていた。しかし、ケストナーの知らないところでケストナーの詩(「きみ知るや、大砲の花咲く国を」や「集団墓地からの声」など)がドイツ各地で、戦場でさえコピーによって読まれていた。ゲットーのなかでも、『ケストナー博士の抒情的家庭薬局』の手書きコピーが回し読みされていた。 | |||||||||
43歳 | 1942年 収入のなくなったケストナーの生活は困難になっていた。それを大学時代からの知り合いのルイーゼロッテ・エンダーレが支えた。その関係から、1942年はじめ、ウーファ映画社で映画の脚本を書くことを依頼された。その仕掛け人は反ナチでかつ親衛隊員であったシュミットである。シュミットがすべてを取り計らい、ケストナーはベルトルト・ビュルガーの偽名で脚本(『ミュンヒハウゼン』)を書いた。映画は1943年3月5日に公開されたが、映画にはビュルガーの名前もなかった。封切り前にこの映画を見たヒトラーが、ケストナーの作品と知って、ビュルガーの名前を削ったからである。そのため、外国での出版を含めた完全な執筆禁止令がケストナーに出された。戦後、ケストナーはこの映画の件でナチスドイツの芸術が国際的に評価される手助けをしたと非難された。 | 〈1942年〉 ・映画脚本『ミュンヒハウゼン』(『ほらふき男爵の冒険』の翻案、翌43年映画化) ・映画脚本『小さな国境往来』(『ゲオルクと予期せぬ出来事』の改題、翌43年映画化) |
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44歳 | 1943年 この作品の執筆中、ケストナーの死亡記事がスイスの新聞に報じられた。「スイスに亡命しようとして、ナチス親衛隊に射殺された」と。 | 〈1943年〉 ・映画筋書『大きな秘密』(出版できず→1949年『ふたりのロッテ』、50年映画化) ・喜劇『忠実な手に』(上演できず→戦後に上演) |
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45歳 | 1944年 2月、イギリス軍の空襲で、ケストナーは四千冊の本をはじめ、すべてを焼失し、ルイーゼロッテ・エンダーレと同棲することになった。この時期、ケストナーは「寸鉄詩」というとびきり短い簡潔な詩を書きためた。戦後『短く簡潔に』という詩集にまとめている。この年、ナチスに近寄り過ぎたために疎遠になっていた友人ふたりを失った。クナウフとオーザーが逮捕され、オーザーは自殺し、クナウフは死刑を宣告され直ちに処刑された。ケストナーは同じ運命の危険性を自覚した。ケストナーはルイーゼロッテとウーファ映画社に近いポツダム市へ転居した。7月、ドレスデンの両親を訪ねた。焼失前のドレスデン最後の町並を見た。帰宅すると、危険人物として、家主から家を追い出された。 | |||||||||
46歳 | 1945年 2月、ドレスデンは四回の空襲で破壊し尽くされた。しかし、両親が無事であることがわかり、安心した。2月末に三回目の徴兵検査に呼び出された。検査に当たった軍医の計らいで徴兵は免れた。しかし、ソ連軍が近づいているベルリンは異常な状況で、ナチスの皆殺し計画があり、名簿には、ケストナーの名前もあった。その危機のなかで、ウーファ映画社のシュミットに再び救われた。撮影隊にまぎれこんで、マイヤーホーフェンへ行くことができ、ドイツ敗北のニュースをこの地で聞いた。【第三帝国の時代】 |
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1945〜1974年 戦後のドイツから死去まで | ||||||||||
46歳 | 1945年(続き) ケストナーは、敗戦を機に様々な人の生き方を見た。女性教員養成所の校長たちの、同意の上の殺人という自殺による数体の死体。村人たちの「心の色」をごまかすための言い訳の数々。ナチ党員ではなかった、ユダヤ人を差別しなかった、ヒトラー風チョビヒゲを剃り落としたなど。この種の変わり身の早い連中を憎んだ。ケストナーとルイーゼロッテはミュンヘンの廃墟から出発した。ミュンヘンに続々と集まってくる生き残りの人たちと、キャバレー「見世物小屋」をスタートさせた。『ノイエ・ツァイトゥング』紙が秋に創刊され、その文芸欄編集長に迎えられた。 | 〈1945年〉 ・詩「一九四五年の行進」 |
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47歳 | 1946年 1月、ケストナーは青少年向け雑誌『ペンギン』を発行し、「祖国の建て直しにあたって……まちがった部分を急いで修正しなければなりません。」と書いた。9月、ケストナーはベルリンを訪ねた。多くの友人が出迎えてくれたが、その廃墟の有様に驚き、ベルリンでの仕事は難しいと判断し、秘書メヒニヒをベルリン支局に残して、連絡をとることにした。その後、ドレスデンを訪ねた。あまりの破壊に怒りを覚える。無事な両親と会えた。 | 〈1946年〉 ・詩集『自著一覧』(『自著検討』とも。1933年以前の四冊の詩集からの抜粋。社会的、政治的、社会的批判の性格をもつものを集めた) |
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48歳 | 1947年 1月、新聞社を辞め、作家活動に専念した。6月には、国際ペンクラブに出席するため、スイスのチューリヒに行った。翌年には、トーマス・マンの支援によってドイツ・ペンクラブを結成、国際ペンクラブへの加入が認められた。その後、ドイツは東西に分裂したため、1951年に西ドイツに連邦ペンセンターを結成し、その初代会長に就任した。 | |||||||||
49歳 | 1948年 『ペンギン』は廃刊となった。ドイツは東西に分かれて占領され、大国の対立の場となってしまった。ケストナーは詩「大国への手紙」を書いて、批判した。 | 〈1948年〉 ・詩集『短く簡潔に』 ・評論集『日々の雑貨』 ・喜劇『忠実な手に』上演 ・詩「大国への手紙」 |
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50歳 | 1949年 ドイツ連邦共和国とドイツ民主共和国の二つの国が生まれた。同じ年、NATOが結成され、ソ連との対立を深めていった。ケストナーはそのような時代に、子ども向け絵本『動物会議』を発表した。挿絵はトリヤーが担当した。ケストナーとトリヤーとの最後の共同作品となった。(トリヤーは1951年に死去) | 〈1949年〉 ・絵本『動物会議』 ・『ふたりのロッテ』 〈1950年〉 ・『ふたりのロッテ』映画化 ・エッセイ「神経過敏な時代」 ・再話『長靴をはいた猫』▼ 〈1951年〉 ・再話『ほらふき男爵』▼ ・詩「小さな自由」 ・詩「春の目覚め」 〈1952年〉 ・評論集『小さな自由』 〈1954年〉 ・連作詩「十三月」 〈1956年〉 ・再話『シルダの町の人々』▼ ・再話『ドン・キホーテ』 ・戯曲『独裁者の学校』 〈1957年〉 ・『わたしが子どもだったころ』 〈1959年〉 ・著作集全七巻を刊行 〈1961年〉 ・『ケストナーの終戦日記』 ・再話『ガリバー旅行記』 〈1963年〉 ・『サーカスの小人』 〈1967年〉 ・『サーカスの小人とおじょうさん』 〈1969年〉 ・「大人のための著作集」全八巻を刊行 〈1998年〉 ・全集全九巻を刊行(C.ハンザー版) |
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52歳 | 1951年 母イーダが死んだ。八十歳。父が母の最期を献身的に介護した。母の死後ケストナーは八十五歳の父と、しばらく一緒の生活をした。 | |||||||||
53歳 | 1952年 東西対立のなかで、西ドイツは再軍備し、核兵器の配備が計画された。ケストナーは平和主義の立場から、再軍備反対の運動に参加した。「春の目覚め」はこの運動のなかで歌われたシャンソンである。 | |||||||||
58歳 | 1957年 父エーミールは大晦日に、ドレスデンで死んだ。九十一歳。その二週間前の12月15日、愛人フリーデル・ジーベルトとの間に、息子トーマスが生まれた。トーマスが二歳になった時、認知した。ルイーゼロッテは動転して悲しんだが、別れなかった。フリーデルはトーマスを連れてベルリンに移住した。 | |||||||||
59歳 | 1958年 「核廃絶への戦い」と名づけた平和運動を支持して運動に参加した。これは、1957年に、アデナウアー首相が西ドイツに核配備を宣言したことに抗議しての運動である。そして、ナチを復活させないために、警告し続けたのである。 | |||||||||
62歳 | 1961年 ケストナーは、ウィーン市での四日連続の講演会(毎回四千人が参加したという)で、挫骨神経痛の発作のため倒れ、更に病院での検査の結果、結核も発見され、一年半の療養生活をスイスのサナトリウムですることになった。この年、核問題と取り組んできたケストナーは、戦争を起こさせまいと、戦時中から書き留めてきたものをまとめた『ケストナーの終戦日記』を出版し、「1945年を忘れるな!」と書いた。この間、息子トーマスのために『サーカスの小人』を書いた。 | |||||||||
66歳 | 1965年 第二の焚書事件がデュッセルドルフ市で、市公安局の許可のもとで起こった。ケストナーは身を震わせて怒った。市長が若者のいたずらだったと軽視しようとしたことに、ナチの焚書に言及して、文化破壊の重みを訴えた。 | |||||||||
75歳 | 1974年 7月29日、食道ガンのため、ルイーゼロッテに看取られながら死去。享年七十五歳であった。 |
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