太宰文学略年譜

※ この年譜は、
文学教育研究者集団著・熊谷孝編『太宰文学手帖』(みずち書房 1985.11刊)所収の「太宰文学略年譜」(佐藤嗣男 編)に基づいている。
※ 縦書を横書に変えたほか、形式上・表記上に若干の変更がある。また、 明らかなミス・プリントは訂正した。
〔第一期〕 世代形成期/習作期
(1) 出生~小学生時代(0~13歳)
0歳 1909年(明治42)  六月十九日、青森県有数の大地主、津島家の六男として同県北津軽郡金木村(現金木町)に誕生。戸籍名津島修治。父源右衛門は後に、衆議院議員、貴族院議員(多額納税)を歴任。長兄文治は戦後民選の青森県知事を四期つとめた。
〈思想的形成の土壌となったかもしれない、この時期の精神的風土〉
① 「小学校四、五年のころ末の兄からデモクラシイという思想を聞き」云々(太宰『思い出』)

② 「五年生の時、……修治さんの土蔵の中に掛けてあるの(干し餅)と、私たちのもってったのと、全部交換しちゃったんです。(盗んだと先生に叱られていると)島津君が走ってきて……『同じ人間に生まれて、同じに勉強を受けて、なぜ私の家ばかりがああいう立派なものをたべるんだろう。そういうしいな餅を、家の人に食べさせたいために交換させたんだ。』」(大橋勇五郎談/桂英澄『太宰治と津軽路』)

〈病弱説への反証〉
① 「……一般民家の子供らに比して良家の子弟らしいひ弱さは感じられるが、六年間を通じて腕白と道化の評判が高く、とくに最後の二か年を無遅刻無欠席で通した太宰が、中学に進学できないほど『病弱』であるはずがなかった。何よりも長兄・次兄・従姉りえ・タケらの証言がこれを裏書きしている。」(相馬正一『評伝太宰治』)

② 前記『太宰治と津軽路』の中村貞次郎・越野たけの証言参照。

〈津島家の物的・精神的風土〉
① 『思い出』『帰去来』『故郷』『津軽』の四作品参照。

② 「明治の廃藩置県の際、津島家は十三町歩の田畑を有する無名の小地主に過ぎなかった。……明治初年に一介の小地主に過ぎなかった津島家が、わずか三十年たらずの間に二百五十町歩の田畑を持つ県内屈指の大地主にのしあがるに至った経緯を考えてみると、そこには北辺寒冷地帯における零細農民と金貸し兼業地主との宿命的な相関関係が浮き彫りされてくる。……太宰が生まれる二年前に父源右衛門は村の中心部に大邸宅を新築するが、……津島家を中心とする官庁街を形成することにも成功した。特に筋向かいの警察署の屋上には高い望楼が組まれ、津島家を小作争議から守る役割を果たしていた」云々(相馬正一「根源復帰の祈り」/「太陽」1971.9)

③ 「私が初めて太宰の生まれ故郷に行ったのは、昭和十七年の十月末です。……田園の豪家というよりは、きっちりした市中の商家風です。……家の中の雰囲気も、何となく商家風で、……食事どきなど、二つも三つも食卓をつづけて、両側に十数人の者が並ぶのです。……にぎやかな中に礼儀と和やかさこそあれ、『人間失格』に書かれているような肌寒い、厳かな儀式めいたものなど、少しも感じられませんでした。太宰はとみていると、この家での生活が、ずっと続いていたかのように落着いて箸を動かしています。……太宰はよく三鷹のくらしのことを、『その日暮し』といっていました。『その日暮し』といえば、明日の米塩の蓄えも無いような生活ではないか、まさか、それ程でもないのに……が、ここへ来てみて、はじめて、太宰の言葉に同感されたのでした。それと同時に、伝統のベルトにのっていればよいような、こうした日常生活を送っていて、一歩、他郷に出て、ちがう環境に入るとしたら、大変な苦労を嘗めることだろうと、考えさせられもしました。」(津島美知子「思い出の断片」/1966年筑摩書房版太宰治全集別巻)

④ 熊谷孝「太宰文学の原点をさぐる道筋」(「文学と教育」87号)

7歳 1916年(大正5)  金木町立尋常小学校入学。
13歳 1922年(大正11)  金木町他合同立の明治高等小学校入学。  
・1892 芥川龍之介生。
・1898 井伏鱒二生。
・1910 大逆事件。日韓併合。
・1914 第一次世界大戦。
・1917 ロシア革命。
・1918 シベリア出兵。米騒動。
・1922 森鴎外没。日本共産党結成。

(2) 中学校入学前後~高校入学前後(14~18歳)
14歳 1923年(大正12)  三月、父死、長兄文治津島家相続。四月、県立青森中学校入学、青森市内に止宿。 〈芥川への傾倒〉
① 「青森中学の同級生……平山四十三(よしぞう)さんは、……芥川龍之介にたいそう傾倒していて、芥川が一高、東大だというので、猛烈に勉強したようなこともあるが、学校の勉強はふだんから気を抜かず、一所懸命にやっていたという。」(前出『太宰治と津軽路』)

② 「太宰治が、いつ最初の試作をしたか知らないが、青森中学に在学中『太郎』という短編を、東京の菊池寛氏に送ったという話を私はきいている。……芥川龍之介を尊敬していたので、芥川氏の親友であった菊池さんに原稿を読んでもらいたいくて送ったかとも思われる。」(井伏鱒二「解説」/前出太宰治全集別巻所収)

〈井伏文学との出会い〉
「私は十四のとしから、井伏さんの作品を愛読していたのである。二十五年前、あれは大震災のとしではなかったかしら、井伏さんは或るささやかな同人誌に、はじめてその作品を発表なさって、当時、北の端の青森の中学一年生だった私は、それを読んで、坐っておられなかったくらい興奮した。それは、『山椒魚』*という作品であった。……私は埋もれたる無名不遇の天才を発見したと思って興奮したのである。」(太宰「井伏鱒二選集第一巻後記」/前出太宰治全集10所収) * この『山椒魚』は『幽閉』のこと。 
   
16歳 1925年(大正14)  青森中学校交友会誌、同人誌等に習作的な小説・戯曲を書きはじめる。
18歳 1927年(昭和2)  四月、四年修了で弘前高校文科入学、弘前市内に止宿。七月、芥川龍之介の死に衝撃。九月、小山初代(後の夫人、1937 離婚)との出会い。
・1923 関東大震災。大杉栄暗殺。/井伏鱒二『幽閉』
・1925 普選法・治安維持法議会通過。/芥川『大導寺信輔の半生』
・1927 第一次山東出兵(実質的な意味における日中戦争の開始)/芥川『河童』/改造社『マルクス・エンゲルス全集』/岩波文庫刊行開始。
(3) 高校生時代~大学入学前後(19~21歳)
19~21歳 1928~30年(昭和3~5)  同人誌・弘高新聞・校友会誌などに習作的な作品の部分として再録されているコントふうの作品(『葉』収録の『哀蚊』など)もある。    〈自殺未遂事件〉
1929年末の自殺未遂事件の持つ意味は、後の自殺未遂事件のそれと区別して考えられる必要がありそうに思われる。
① 「青井の家に小作争議が起ったりして……薬品の自殺を企て」云々(太宰『葉』)

② 前出((1))の大橋勇五郎談など参照。

〈井伏との出会い〉
「初めて太宰君に会ったのは、昭和五年の春、太宰君が大学生として東京に出て来た翌月であった。太宰君は私に二度か三度か手紙をよこし、私が返事を出すのに手間どっていると、強硬な文意の手紙をよこした。会ってくれなければ自殺するという意味のものであった。私は驚いて返事を出した。」云々(前出、井伏「解説」)  
20歳 1929年(昭和4)  十二月、自殺未遂。  
21歳 1930年(昭和5)  四月、東京大学仏文科入学、東京戸塚に止宿。五月、井伏鱒二との出会い。この頃から非合法運動に参加。十月、小山初代、家出して修治のもとへ。いったん帰郷。十一月、初代の件で分家させられる。同月、心中未遂。
・1928 三・一五事件。ナップ成立。張作霖爆死事件。治安維持法改悪。葛西善蔵没。第二・第三次山東出兵。/小林多喜二『一九二八年三月一五日』
・1929 日本プロレタリア作家同盟結成。山本宣治暗殺。四・一六事件。労農党結成。/井伏鱒二『朽助のゐる谷間』『山椒魚』『炭鉱地帯病院』『屋根の上のサワン』
・1930 新興芸術派クラブ創立、モダニズム=エロ・グロ・ナンセンス文学流行。浜口首相狙撃。/井伏鱒二『さざなみ軍記』執筆開始。

(4) 大学生時代初期(21~22歳)
22歳 1931年(昭和6)  二月、初代上京、新居を品川区五反田に、夏、神田同朋町に。十一月、神田和泉町に転居。この年、工藤永蔵の要請により再び非合法活動をはじめる。小説の創作活動停止に近い状況の中で、俳諧の研究と創作に関心を示す。
・満州事変起る(九月)。秋、東北地方・北海道に大冷害。/井伏『丹下氏邸』『川』(~1932)
〈俳諧へのアプローチ〉
この作家の文体的発想に影響するところ大きいが、特に連句的発想の摂取について着目したいと思う。
「(『葉』の)『外はみぞれ、何を笑うやレニン像』という俳句は、共産党問題で苦しんでいた神田岩本町のアパートにいた当時、色紙に書いてかけていたものである。」(前出、井伏「解説」)
〔第二期〕 〈希望を失った人の書いた小説〉の時期
22~23歳 1932年(昭和7)  八月、『思い出』を書きはじめる。十一月から十二月頃、『ねこ』を書く(後『葉』に収録)。
非合法活動のため淀橋、日本橋等々と転居。六月、初代の過去を知らされる。七月、青森警察署に出頭。九月、芝白金三光町に転居。十二月、青森検事局に出頭。
・三月、満州国建国宣言。
・五月、五・一五事件。コミンテルン32年テーゼ。
・七月、特高設置。
・八~十月、大森ギャング事件。
・十月、共産党会議(熱海) 一斉検挙。唯物論研究会創立。
  
〈転向をめぐって〉
① 「この時期のシンパ活動に関して太宰は作品の上でもまったく仮構を用いているわけではなく、……(共産青年同盟直属の地方委員会の下部組織である地区委員会の)『地区委員』もしくは『行動隊々長』のポストに就くことも、当時の状況からすれば必ずしも不可能なことではなかったように思われる。」(前出、相馬『評伝太宰治』)

② 「私は……獄内の諸費用として、修治に毎月五円宛の送金を頼んだ……私が逮捕(1931.9.9)されてから党のためにどんな活動をしたかも知らない。ただ、私が逮捕されたあと、郷里の党組織との連絡には、参与したのではないかと推察される。……『裏切者』などと極めつけるのは、事情を知らない人達の考えることで、修治のあの精一杯の党に対する寄与に対して気の毒だ」云々(工藤永蔵「太宰治の思い出」/「太宰治研究」10)

③ 「……私はその(1932)十二月一日朝、京橋で逮捕され……先きに工藤を失い、いままた私と連絡を絶たれた太宰はこのあたりから左翼運動を離れて行ったようだ。」(渡辺惣助「激しい渦の中で」/「太陽」1971.9)

④ 「太宰君は、私にも左翼になるように勧誘に来たことがある。私は、いやだと云った。では一緒に散歩しないかと太宰君に誘われて散歩に出た。新宿の中村屋の二階でお茶をのんだ。ここで、また太宰君は、私に左翼になれと云った。あまりくどいので私は腹を立て、中村屋を出ると、人ごみのなかで太宰を撒いて帰ってきた。」(前出、井伏「解説」)

⑤ 「(当時)党の文学的方針は、いわばプロレタリア・リアリズム文学論で一括されていて、太宰自身もそれに反抗できる別途の文学的方針はもてなかった。……ぼくは当時の党はことに文化問題に関するかぎり、ひどく幼稚なものを含んでいたと思っている。……この青年期における「党への苦しい印象」というものが、彼の生涯を通じて……彼を悩ましていたと考えることができるように思う。……これは党の文化的方針の誤謬として、党の方でも責任……をもっていいことではなかろうか……そこには天皇主義時代が決定していた天皇主義的性格もあれば、封建的な押しつけ主義もあったからである。しかも党を去ってしまうと、党の発展がわからなくなって、……太宰は生涯その古い型の党の印象だけをもっていたようにぼくは思う。……しかし太宰がついに新しい党の理念、じつは党そのものの理念をつかむことができなかったとしても、その良心の『眼』を失わなかったことだけは称賛してもいいことだと、ぼくは思っている。」(山崎外史「太宰治と共産党」1965 筑摩版太宰治全集第1巻月報1)

⑥ 「プロレタリア文学というものがあった。私はそれを読むと、鳥肌立って、眼がしらが熱くなった。無理な、ひどい文章に接すると、私はどういうわけか、鳥肌立って、そうして眼がしらが熱くなるのである。」(太宰『苦悩の年鑑』)

23~24歳 1933年(昭和8)  二月、太宰治をペンネームとした最初の小説『列車』*(十九日付サンデー東奥 *印は1936年刊行第一短編小説集『晩年』に収録の作品、以下同じ)。三月、『魚服記』*(海豹)。四、六、七月、『思ひ出』*(海豹)。

二月、今官一の紹介で「海豹」同人となる。同月、杉並区天沼に転居。
・二月、小林多喜二虐殺。
・三月、国際連盟脱退。
・五月、滝川事件。
・六月、佐野・鍋山転向声明。
・十一月、野呂栄太郎検挙。

〈ペンネームについて〉
① 「(新宿)駅の横の出口のところで、……指さきで、手のひらに一字ずつ、太、宰、治、と書いて見せ、『ダザイ、オサム、と読むんです。』と云った。すこし気恥ずかしそうな顔であった。……従来の津島では、本人が云うときには『チシマ』ときこえるが、太宰という発音は、津軽弁でも『ダザイ』である。よく考えたものだと私は感心した。」(前出、井伏「解説」)

② 「なお、筆名〈太宰治〉が最初に現れるのは、昭和八年二月一日発行『海豹通信』第二便の『消息欄』である。……また、太宰治の筆名で最初に発表された文章は、同月十五日発行『海豹通信』第四便の『故郷の話(Ⅲ)』の『田舎者』である。」(山内祥史『太宰治 文学と死』)

24~25歳 1934年(昭和9)  四月、『洋之助の気焔』(文芸春秋/井伏鱒二と合作、井伏の名で発表)。同月、『葉』*(鷭)。七月、『猿面冠者』*(鷭)。十月、『彼は昔の彼ならず』*(世紀)。同月、「飾らぬ生水晶」(八日 帝国大学新聞/井伏の名で発表)。十二月、『ロマネスク』(青い花)、「かくれんぼ」(同/筆名 青井はな)。

十二月、同人雑誌「青い花」創刊に参加。
〈「鷭」について〉
「季刊誌『鷭』の第一号は、昭和九年四月十一日付の発行である。同人は古谷綱武、檀一雄、雪山俊之、古谷綱正の四人になっているが、実際には兄(綱武)と檀一雄の二人の雑誌である。……発行時は、綱武二十五歳、檀、雪山二十二歳、私が二十一歳で、檀は東京大学経済学部の学生だった。」(古谷綱正「『鷭』発行の頃」/「鷭」復刻版別冊「解説」所収)

「檀さん二人で雑誌を作ろう、ええやりましょう、たぶんそういうことできまったと思う。……資金は私の父の生命保険を解約して得た金に、檀さんが……親から引き出してきた若干金をそれに加えて当てた。……『鷭』という誌名は、漢和字典を引いて、この鳥の名はでれも知らないだろうと、それをおもしろがってきめた。私たちも知らない。のちに檀さんと鷭とはどんな鳥か見にいこうと上野動物園に見にいった記憶がある。……ほとんどの原稿は、私が敬意、親愛をかんじていた人たちに、ときには懇願するようにして、すべて無稿料で書いてもらった。檀さんはとにかく太宰治を応援して、太宰の力作をここに発表したいということだけが念願だったのではないかと思う。私もそれを支持していたのはいうまでもない。……『鷭』は五百部を印刷したと思っている。売れたのは一号も二号も数十部に過ぎないで……わずか二号で廃刊になってしまった。」(古谷綱武「『鷭』刊行の頃の思い出」/同前所収)

25~26歳 1935年(昭和10)  二月、『逆行』*のうちの「蝶蝶」「決闘」「くろんぼ」(文芸)。五月、『道化の華』*(日本浪曼派)。七月、『玩具』*『雀こ』*(作品)八月、(十、十一、十二月)、「もの思ふ葦〈その一〉」(日本浪曼派)。九月、『猿ヶ島』*(文学界)。十月、『ダス・ゲマイネ』(文芸春秋)。十一月、『逆行』*の「盗賊」(七日付 帝国大学新聞)。十二月、『地球図』(新潮)、「もの思ふ葦」(十四、十五日付 東京日日新聞)。

三月、東大落第決定、都新聞社入社試験に失敗。鎌倉で自殺未遂。四月、日本浪曼派同人となる。盲腸炎で入院、腹膜炎を併発し重態、パビナール使用、以後中毒で苦しむ。七月、千葉県船橋へ転居。八月、『逆行』が第一回芥川賞次席となる。佐藤春夫に師事。九月、東大除籍。秋頃、田中英光との交際始まる。
・二月、天皇機関説事件。
・四月、文部省国体明徴を訓令。
・内務省著作権審査委員会創設、文芸統制強化。


26~27歳 1936年(昭和11)  一月、『めくら草紙』*(新潮)、「もの思ふ葦」(新潮、作品、文芸通信、文芸汎論、文芸雑誌)。一~三月、「碧眼托鉢」(日本浪曼派)。四月、『陰火』*(文芸雑誌)。五月、『雌について』(若草)、「古典龍頭蛇尾」(文芸懇話会)。六月、「悶悶日記」(文芸)、第一短編小説集『晩年』(砂子屋書房刊/*印作品を収録)。七月、『虚構の春』(文学界)、「走ラヌ名馬」(二十五日付 工業大学蔵前新聞)。十月、『狂言の神』(東陽)、『創生記』(新潮)、『喝采』(若草)

二月、パビナール中毒により入院治療。八月、第三回芥川賞の選にもれ衝撃を受ける。十月、パビナール中毒激しく入院。十一月、初代、画学生と過失を犯す。同十二日、退院、杉並区天沼に転居。退院したその夜から『HUMAN LOST』の執筆開始。同月二十五日、熱海温泉行。その間『二十世紀旗手』脱稿。十二月二十八日、金を使い果たし旅館に檀一雄を置いて単身帰京。
・三月、人民文庫創刊。
・六月、島木健作『若い学者』
・九月、鶴田知也『コシャマイン記』
・二月、二・二六事件。
・三月、メーデー禁止。
・日独防共協定締結。

〈二・二六事件について〉
「関東地方一帯に珍しい大雪が降った。その日に二・二六事件というものが起った。……実に不愉快であった。馬鹿野郎だと思った。……狂人の発作に近かった。……このいい気な愚行のにおいが、所謂大東亜戦争の終りまでただよっていた。/東条の背後に、何かあるのかと思ったら……からっぽであった。怪談に似ている。/その二・二六事件の反面に於いて、日本では、同じ頃に、オサダ事件というものがあった。オサダは眼帯をして変装した。衣更(ころもがえ)の季節で、オサダは逃げながら袷をセルに着換えた。」(太宰『苦悩の年鑑』)
27~28歳 1937年(昭和12)  一月、『二十世紀旗手』(改造)。「音について」(二十日付 早稲田大学新聞)。四月、『HUMAN LOST』(新潮)。六月、新選純文学叢書『虚構の彷徨、ダス・ゲマイネ』(新潮社刊)。七月、版画荘文庫4『二十世紀旗手』(版画荘刊)。十月、『燈籠』(若草)。十二月、「思案の敗北」(文芸)、「創作余談」(十日付 日本学芸新聞)。

三月、初代と水上温泉へ、心中未遂。六月、杉並区天沼一丁目二一三番地に転居。七月、初代、青森へ帰る。
・五月、井伏『厄除け詩集』刊。

・三月、「国体の本義」出版。
・七月、蘆溝橋事件(日中戦争開始)。
・九月、国民精神総動員実施要綱発表。
・十一月、日独防共協定調印。
・十二月、人民戦線事件。

  
  
〔第三期〕 〈希望を持とうとする人の書いた文学〉の時期  (1938年後半頃より)
28~29歳 1938年(昭和13)  二月、「他人に語る」(文筆/のち「『晩年』について」と改題)。三月、「一日の労苦」(新潮)。五月、「多頭蛇哲学」(あらくれ)。七月、「答案落第」(月刊文章)。八月、「一歩前進二歩退却」(文筆)。九月、『満願』(文筆)。十月、『姨捨』(新潮)、「富士に就いて」(六日付 国民新聞」。十一月、「女人創造」(日本文学)。十二月、「九月十月十一月」(九、十、十一日付 国民新聞)。

九~十一月、井伏の滞在する御坂峠の天下茶屋へ。九月十八日、石原美知子と甲府石原方で見合い。十一月、美知子と婚約。
・三月、石川達三『生きている兵隊』発禁。
・四月、井伏『さざなみ軍記』刊。

・三月、唯物論研究会解散。
・四月、国家総動員法公布。

〈太宰書簡より〉
「太宰もこのごろ多少屹っとなって居ります。少しずつ重量感でてきました。むかしのニヤケタウソツキの太宰もなつかしいが、あれでは生きてゆけません。」(10.17/山岸外史宛)
29~30歳 1939年(昭和14)  二月、『 I can speak 』(若草)。二~三月、『富嶽百景』(文体)、『黄金風景』(二、三日付 国民新聞)。四月、『女生徒』(文学界)、『懶惰の歌留多』(文芸)。五月、「正直ノオト」(十九日付 帝国大学新聞)、書下短編集『愛と美について』(竹村書房刊)。六月、『葉桜と魔笛』(若草)。七月、短編集『女生徒』(砂子屋書房刊)。八月、『八十八夜』(新潮)。十月、『畜犬談』(文学者)。十一月、『おしゃれ童子』(婦人画報)、『デカダン抗議』(文芸世紀)。十二月、「市井喧争」(文芸日本)。

一月八日、杉並区清水町の井伏家で美知子と結婚式。甲府市御崎町に住む。九月、東京府三鷹村下連雀一一三番地に転居。(六畳、四畳半、三畳の三間/家賃二十四円)。
・七月、井伏『多甚古村』刊(特に、その一部が『多甚古村(一)』『多甚古村(二)』として「文体」の二月号、三月号に発表されている点に注目)。

・七月、国民徴用令公布。
・九月、第二次世界大戦起こる。

〈太宰書簡より〉
「仕事します。遊びませぬ。うんと永生きして……もう十年くるしさ制御し少しでも明るい世の中つくることに努力するつもりでございます。このごろ何か芸術について動かせぬ信仰持ちはじめてきました。」(1.10/井伏宛)  
41歳 1940年(昭和15)  一月、『鴎』(知性)、『春の盗賊』(文芸日本)、「心の王者」(二十五日付 三田新聞)。一月~六月、『女の決闘』(月刊文章)。二月、『駈込み訴へ』(中央公論)。三月、『老(アルト)ハイデルベルヒ』(婦人画報)、「諸君の位置」(月刊文化学院)、「酒ぎらひ」(知性)。四月、『善蔵を思ふ』(文芸)、「作家の像」(都新聞)、単行本『皮膚と心』(竹村書房刊)。五月、『走れメロス』(新潮)。六月、太宰治短編傑作集『思ひ出』(人文書院刊)、『古典風』(知性)、「三月三十日」(満州生活必需品会社機関誌)、「自信の無さ」(二日付 東京朝日新聞)、単行本『女の決闘』(河出書房刊)。七~十二月、『乞食学生』(若草)。九月、「『女の決闘』その他」(月刊文章/のち「自作を語る」と改題)。十一月、「独語いつ時」(二十五日付 帝国大学新聞/のち「かすかな声」と改題)。十二月~翌年六月、『ろまん燈籠』(婦人画報)。

旺盛な創作の傍ら、井伏たとの交遊もしばしば。招かれて若い世代のために講演(東京商大、新潟高校)も。
十二月、単行本『女生徒』が第四回透谷文学賞次席となる。
・四月、井伏『へんろう宿』。
・七月、伊藤整『得能五郎の生活と意見』。
・十二月、宮原無花樹『牛づれ兵隊』、田中英光『オリンポスの果実』刊。

・七月、大東亜新秩序、南進政策決定。
・八月、全政党解党終了、新体制準備会初総会。
・九月、日本出版文化協会設立(出版の統制一元化)、日独伊三国同盟調印。
・十月、日本文芸中央会設立(全文壇の統合)、大政翼賛会発会。十一月十日、紀元二千六百年記念式典。
      
31~32歳 1941年(昭和16)  一月、『東京百景』(文学界)、「弱者の糧」(日本映画)。五月、単行本『東京八景』(実業之日本社刊)。六月、「『晩年』と『女生徒』」(文筆)。七月、書下し小説『新ハムレット』(文芸春秋社刊)。八月、短編集『千代女』(筑摩書房刊)。十月、「世界的」(十五日付 早稲田大学新聞)。十一月、『風の便り』(文学界)、『秋』(文芸/『風の便り』の一部)。十二月、『旅信』(新潮/同前)、『誰』(知性)、「私信」(二日付 都新聞)

六月、長女園子誕生。八月、十年振りに故郷金木町に帰省。十一月、文士徴用令書を受けたが胸部疾患を理由に免除される。同月、文士徴用でシンガポールに行く井伏を東京駅に送る。十二月八日、『新郎』脱稿。
・五月、予防拘禁所官制公布。日本文芸家協会、文芸銃後運動開始。
・七月、文部省教学局「臣民の道」刊行。
・十月、ゾルゲ事件。東条内閣成立。
・十二月八日、太平洋戦争開始。同月、言論・出版・集会・結社等臨時取締法公布。

   
32~33歳 1942年(昭和17)  一月、『恥』(婦人公論)、『新郎』「或る忠告」(新潮)、「食通」(博浪沙)、私家版『駈込み訴へ』(月曜荘刊)。二月、『十二月八日』(婦人公論)、『律子と貞子』(若草)。四月、「一問一答」(十一日付 芸術新聞)、小説集『風の便り』(利根書房刊)。五月、『水仙』(改造)、単行本『老(アルト)ハイデルベルヒ』(竹村書房刊)。六月、新日本文芸叢書『正義と微笑』(錦城出版社刊/書下し)、創作集『女性』(博文館刊/注、『待つ』収録)。七月、『小さいアルバム』(新潮)、「甘口辛口」(現代文学/のち「無題」と改題)。八月、「炎天汗談」(芸術新聞)。九月、「天狗」(みつこし)。十月、『花火』(文芸/全文削除を命ぜられる。戦後『日の出前』と改題発表)。十一月、文藻集『天信翁』(昭南書房刊)。

二月、甲府市明治温泉にて『正義と微笑』執筆。三月、『待つ』脱稿か。六月頃から、しばしば簡閲点呼を受ける。七月二十三日、初代、青島(チンタオ)で没(30歳)。十月、母たね重態のため妻子を伴って帰郷。十一月二十~三十日、甲府市石原方で『黄村先生言行録』『帰郷』『禁酒の心』執筆。十二月八日、『右大臣実朝』執筆のため静岡県三保に行くが急遽金木に帰郷。同月十日、母没。
・一月、橋本英吉『系図』。
・三月、志賀直哉「シンガポール陥落」、岩上順一『歴史文学論』。
・九月~十月、座談会「近代の超克」(文学界)。

・二月、シンガポールの英軍降伏。
・五月、日本文学報国会結成。
・十二月、日本出版文化協会、用紙割当を大幅に減配。

〈『花火』削除等について〉
「『花火』は、戦時下に不良の事を書いたものを発表するのはどうか、というので削除になったのだそうです。……今月の二十日頃までに、短編などの仕事を全部片づけて、それから、いよいよ『実朝(サネトモ)』にとりかかるつもり。ナイテ血ヲハクホトトギス、という気持です。」(10.17/高梨一男宛)  

〈『右大臣実朝』について〉
① 「太宰治論の焦点を、『右大臣実朝』試論という課題とテーマにしぼった理由は、……この『右大臣実朝』やある意味では『津軽』、そして戦後初頭の幾つかの作品に太宰文学の達成――達成へ向けての可能にして必然的な作品形象のありようを見つける、という私なりの仮説の自己検証を今度のこの仕事に期した、ということにかかわっているわけです。」(熊谷孝『太宰治―「右大臣実朝」試論』「あとがき」)

② 「ちなみに、芥川龍之介について、太宰治は私たちに次のように言っていた。君たちがもしもの書きたらんとするなら、まず芥川を超えることを目標としたらいい。芥川を超えることができないなら、むしろ筆を折り、故郷へ帰って百姓をした方がましだ。そして、太宰自身は、『右大臣実朝』を書いて芥川を超えたと思った、と、そんな風に言っていたのである。芥川に対して、太宰は血縁に対する哀憐のような心情を抱いていたことは確かだが、またライバル意識を燃やしていたことも確かであったと思われる。」(桂英澄『太宰治と津軽路』)

③ 「小説『鉄面皮』に、『実朝を書きたいというのは、少年の頃からの念願であったようで、その日頃の願いが、いまどうやら叶いそうになって来たのだから、私もなかなか仕合せな男だ』と太宰が書いている。……というのは、まるで天から授かったように、実朝を書くのに絶好のテキストを与えられ、……いさみ立って、執筆を決意したことを表わしている。それが『鶴岡』源実朝号(昭和十七年八月九日、鶴岡八幡宮社務所発行)である。……この百二十六頁の冊子によって、最大の便宜を得たのは三鷹の太宰治である。この冊子の内容のうち、『源実朝年譜』は、太宰がこれに欠けている公暁のことなどを補って書き入れしたり、○印をつけたり、インクをこぼしたりなどしていて、『右大臣実朝』構成上の骨子として、この年譜を執筆中役立てたことが歴然としている。……太宰が(この本の『源実朝関係主要文献』によって)『吾妻鏡』以外の古文書から引用した一例を挙げると、元久元年、藤原信清の女が……京都を進発したときの記述は、『明月記』の抜萃が、「―泣尋沙塞、出家郷歟」と原文のまま、……『主要文献』に採録してあるのを、「―けれども花嫁さまの御輿から幽かに、すすり泣きのお声のもれたのを―」と太宰が意訳したのであって、他にもこのような箇所がある。……次に、太宰にとって大変幸運であったことは、龍粛訳注『吾妻鏡』の第四巻までが岩波文庫本で既に刊行されていたことである。……まず『鶴岡』を得、次に『訳注吾妻鏡』第四巻までを求めて、これで根本的な資料は揃ったわけである。……大阪に本社のある錦城出版社の東京支配人、大坪草二郎氏……はアララギ派(というよりむしろ根岸派)の歌人で、ある短歌雑誌の幹部であり、八月九日の実朝祭(生誕七百五十年記念)に列席し、『鶴岡』を持っておられたので、これを太宰に贈られた。……『実朝』は三鷹と甲府で書いた。三鷹のわが家に、『実朝』であけくれた『実朝時代』とでもいうべき時期があった。……実朝が乗りうつったかのようになって、つっ立ったまま「大日の種子より出でてさまや形 さまやぎやう又尊形となる」、「ほのをのみ虚空にみてるあびぢごくゆくゑもなしといふもはかなし」など、実朝の和歌を口誦んでいる姿は無気味であった。……『訳注吾妻鏡』はもちろん龍博士の原文からそのまま引用させて頂いている。けれども外の作品でも資料からその一部を引用するに当たって、本意は変えないまでも、多かれ少なかれ自己流に表現を変えて引用し、コピーの機械のようにそのまま写さない。これが太宰の性癖の一つであった。」(津島美知子『回想の太宰治』)
33~34歳 1943年(昭和18)  一月、『黄村先生言行録』(文学界)、『故郷』(新潮)、『禁酒の心』(現代文学)、昭和名作選集28『富嶽百景』(新潮社刊)。四月、『鉄面皮』(文学界)。五月「赤心」(新潮)。六月、『帰去来』(八雲第二輯)。八月、「わが愛する言葉」(現代文学)。九月、新日本文芸叢書『右大臣実朝』(錦城出版社刊/書下し)。十月、「作家の手帖」(文庫)、『不審庵』(文芸世紀)、「金銭の話」(雑誌日本)。

一月、亡母法要のため妻子を伴って帰郷。山岳、甲府行。石原方および明治温泉に滞在、『右大臣実朝』を完成。秋、『雲雀の声』(二百枚。七月に死去した京都の木村庄助の療養日記をもとに完成。小山書店から刊行予定)が検閲不許可のおそれありと出版中止(戦後『パンドラの匣』と改題改作の上出版)。
・二月、出版事業令公布。
・三月、谷崎潤一郎『細雪』連載禁止。日本出版協会設立(日本出版文化協会改組。統制強化)。
・十二月一日、第一回学徒出陣。同月、徴兵適齢一年引下げ。

34~35歳 1944年(昭和19)  一月、『佳日』(改造)、『新釈諸国噺(裸川)』(新潮)、「横綱」(十三日付 東京新聞)、「皮財布」(日本医科大学殉公団時報)。三月、『散華』(新若人)。四月、「芸術ぎらひ」(映画評論)。五月、『雪の夜の話』(少女の友)、『武家義理物語(新釈諸国噺)』(文芸)。八月、単行本『佳日」(肇書房刊)。九月、『貧の意地―新釈諸国噺―』(文芸世紀)。十月、『人魚の海―新釈諸国噺―』(新潮)。十一月、『髭候の大尽(新釈諸国噺)』(月刊東北)、新風土記叢書7『津軽』(小山書店刊)、「純真」(十六日付 東京新聞)

一月、文学報国会から大東亜五大宣言の小説化を依頼され、『惜別』執筆を意図。五月十二日~六月五日、小山書店から『津軽』を依頼され、津軽旅行。七月、『津軽』完成。八月、長男正樹誕生。初秋、『佳日』が「四つの結婚」と題して映画化、封切。十二月上旬、出版許可を得た『雲雀の声』が印刷工場罹災で全焼。十二月上旬、水谷八重子一座が「四つの結婚」を江東劇場で上演。十二月二十~二十五日、魯迅調査に仙台行。
・一月、防空法による疎開命令。改造・中央公論に対する弾圧(横浜事件)。
・七月、改造・中央公論に廃刊命令。
・十一月二十四日、B29東京初空襲。

      
35~36歳 1945年(昭和20)  一月、単行本『新釈諸国噺』(生活社刊)。四月、『竹青―新曲聊斎志異―』(文芸第六号)。二月、『惜別』完成。三月、『お伽草紙』執筆開始。三月末、甲府に妻子疎開。四月二日、罹災。同月、甲府へ疎開。七月初旬、『お伽草紙』完成。七月七日、甲府空襲、石原家全焼。七月二十八日、妻子と津軽へ再疎開。三十一日、金木着。
・三月十日、東京大空襲。
・八月、広島・長崎被爆。
・八月十五日、敗戦。

〈太宰書簡より〉
「……どんな事があっても、とにかく仕事をするより他は無い。」(4.17/小山清宛)

「……やっぱり仕事だけですね。ただ考えていたんでは、不安やら後悔やらで、たまりません。そちらも、どうか、ヒッソリお仕事を。」(5.9/小山宛)
〔第四期〕 〈民主主義踊りの状況への反逆〉の時期
36歳 1945年(続き)  九月、単行本『惜別』(朝日新聞社刊)。十月~翌一月、『パンドラの匣』(河北新報)。十月、単行本『お伽草紙』(筑摩書房刊/書下し)。十二月、単行本『愛と美について』(南北書園刊)。
・八月、日本文学報国会解散。戸坂潤獄死。
・九月、GHQプレスコード指令。三木清獄死。
・十月、政治犯三千名出獄。徳田球一ら「人民に訴う」声明。治安維持法・特高廃止。選挙権男女同権。日本共産党再建。雑誌「新生」刊。
・十一月、「新潮」「文芸」「人民評論」「民主評論」刊。財閥解体指令。
・十二月、農地改革。国教分離指令。労働組合法発令。

〈太宰書簡より〉
「これから世の中はどうなるかなどあまり思いつめず、とにかく農耕、それから昔の名文にしたしむ事、それだけ心がけていると必ず偉人になれると思います。もう死ぬ事はないのだから、気永になさい。」(8.28/菊田義孝宛)

「……いつの世もジャーナリズムの軽薄さには呆れます。ドイツといえばドイツ、アメリカといえばアメリカ、何が何やら。」(11.23/井伏宛)
36~37歳 1946年(昭和21)  一月、『庭(津軽通信)』(新小説)、『親といふ二字(同前)』(新風 創刊号)。二月、『嘘(同前)』(新潮)、『貨幣』(婦人朝日)。三月、『やんぬる哉(津軽通信)』(月刊読売)。四月、『十五年間』(文化展望 創刊号)。五月、『未帰還の友に』(潮流)、「津軽地方とチエホフ」(アサヒグラフ 十五日号)。六月、『苦悩の年鑑』(新文芸)、『冬の花火』(展望)、「政治家と家庭」(十五日付 東奥日報)、単行本『パンドラの匣』(河北新報社刊)。九月、『春の枯葉』(人間)。十月、『雀(津軽通信)』(思潮 第三号)。十一月、『たづねびと』(東北文学)、単行本『薄明』(新紀元社刊)。十二月、『男女同権』(改造)、『親友交歓』(新潮)

四月、長兄文治、衆議院議員に当選。七月、祖母いし没。十一月十二日、金木を出発、十四日、三鷹に帰る。十二月、『冬の花火』上演禁止。
・四月、志賀直哉「国語問題」。
・井伏鱒二『波高島』(五月) 『侘助』(六月) 『追剥の話』(九月) 『橋本屋』(十一月) 『当村大字霞ヶ森』(同前)。

・一月、天皇人間宣言。「中央公論」「改造」「世界」「展望」「近代文学」刊、雑誌の復刊・創刊続く。
・四月、総選挙。
・五月、メーデー復活(米よこせメーデー)、極東裁判開廷。
・十一月三日、日本国憲法公布。同月、当用漢字新かなづかい制定。
 
〈太宰書簡より〉
「『桜の園』を忘れる事が出来ません。いま最も勇気のある態度は保守だと思います。私はバカ正直ですから、態度をアイマイにしている事が出来ません。」(1.28/小田嶽夫宛)

「文化と書いて、それに文化(ハニカミ)というルビを振る事、大賛成。私は優という字を考えます。これは優(すぐ)れるという字で……優(やさ)しいとも読みます。……人偏(にんべん)に憂(うれ)うると書いています。人(ひと)を憂(うれ)える、ひとの淋しさ佗しさ、つらさに敏感な事、これが優(やさ)しさであり、また人間として一番優(すぐ)れている事じゃないかしら、そうして、そんな、やさしい人の表情は、いつでも含羞(はにかみ)であります。私は含羞(はにかみ)で、われとわが身を食っています。酒でも飲まなきゃ、ものも言えません。そんなところに『文化』の本質があると私は思います。……いままた、チエホフの戯曲全集を読み返しています。」(4.30/河盛好蔵宛)  
37~38歳 1947年(昭和22)  一月、『トカトントン』(群像)、『メリイクリスマス』(中央公論)、「新しい形の個人主義」(月刊東奥)、「織田君の死」(十三日付 東京新聞)。三月、『ヴィヨンの妻』(展望)、『母』(新潮)。四月、『父』(人間)。六月、単行本『姨捨』(ポリゴン書房刊)。七~十月、『斜陽』(新潮)。七月、創作集『冬の花火』(中央公論社刊)、単行本『ろまん燈籠』(用力社刊)。八月、単行本『ヴィヨンの妻』(筑摩書房刊)。十月、単行本『女神』(白水社刊)。十一月、「文学の曠野に」(小説新潮/のち「わが半生を語る」と改題)。十二月、単行本『斜陽』(新潮社刊)。

二月、神奈川県下曽我村に太田静子を訪問。三月、山崎富栄と知りあう。同月、次女里子誕生。五月、『春の枯葉』が伊馬春部の脚色演出でNHKからラジオ放送。十一月、太田治子誕生。
・六月、原民喜『夏の花』。
・七月、井伏帰京。

・一月三十一日、二・一ゼネスト中止指令。
・五月三日、新憲法施行。

    
38~39歳 1948年(昭和23)  一月、「かくめい」(ろまねすく)。三月、『美男子と煙草』(日本小説)、「小説の面白さ」(個性)、単行本『太宰治随想集』(若草書房刊)。三月・五月~七月、「如是我聞」(新潮)。四月、「徒党について」(文芸時代)、八雲書店刊『太宰治全集』(全十四冊)配本はじまる。五月、『桜桃』(世界)。六~八月、『人間失格』(展望)。
死後、六月、『グッド・バイ(変心一)』(二十一日付 朝日新聞)。七月、『グッド・バイ―作者の言葉』(朝日評論)、「黒石の人たち」(月刊読物)、単行本『人間失格』(筑摩書房刊)、同『桜桃』(実業之日本社刊)。八月、『家庭の幸福』(中央公論)、「やはらかな孤独」(表現)。十一月、単行本『如是我聞』(新潮社刊)。

二月、俳優座、『春の枯葉』上演。同月、吉原愛子(美知子の妹)没。五月頃、疲労・不眠・喀血著しくなる。六月十三日、山崎富栄とともに玉川上水に入水。同月十九日、遺体発見。同月二十一日、自宅で告別式(葬儀委員長豊島与志雄、副委員長井伏鱒二)。七月十八日、三鷹禅林寺に埋葬、法要(法名、文綵院大猷治通居士)。
・二月、大岡昇平『俘虜記』。
・同月、筑摩書房刊『井伏鱒二選集』配本始まる(一~四巻「後記」太宰執筆)。
・三月、井伏『山峡風物誌』。
・六月、井伏『復員者の噂』。
・同月、豊島与志雄『高尾ざんげ』(新潮文庫)刊(「解説」太宰執筆)。
・六~七月、福田恒存「道化の文学」(群像)。
・七月、坂口安吾「不良少年とキリスト」(新潮)。
・八月、井伏「太宰治の死」(ホープ) 「太宰治のこと」(文芸春秋)。
・同月、臼井吉見「太宰治論」(展望)


・一月、帝銀事件。
・七月、GHQによる新聞事前検閲廃止。公務員の争議権・団体交渉の停止。

〈太宰の死について〉
① 無理心中説・他殺説
「三鷹署はあえて発表はさし控えたが、太宰の首筋を細紐でしめた絞殺のあとから、かれの死は富栄による他殺であると認定したのである。」(三枝康高『太宰治とその生涯』)
「直接の原因は、女性が彼の首にひもをまきつけ、無理に玉川上水にひきずりこんだのである。遺体検査に当った刑事は、太宰の首にその痕跡のあったことをずっと後になって私に語った。しかし一緒に死んだのだから、そのことをあらだてるにも及ぶまいという話であった。」(亀井勝一郎『無頼派の祈り』)

② 心中説
「私はすぐ間近かで、検視医と同じくらいの間近かさで、太宰さんに見入っていたが、その首筋には、締められた痕跡など、断じてなかったのである。」(野原一夫『回想太宰治』)
「太宰治は、その……生涯を我が手で閉じ、……愛に殉じた山崎富栄も……みずから武蔵野の流れに投じた。」(長篠康一郎『太宰治武蔵野心中』)

③ 芸術的死説
「太宰治の死の原因を……彼の文芸の抽象的な完遂の為であると思った。文芸の壮図の成就である。」(檀一雄『太宰と安吾』)

④津島修治の死説
「坂口安吾の言葉を借りれば、太宰の死はフツカヨイ 的哀弱死である。……[太宰がメチャメチャ酔って、(死のうと)言いだして、サッチャンが、それを決定的にしたのであろう](「不良少年とキリスト」)……ここには作家〈太宰治〉は存在しない。在るのは、一途な女の恋情にほだされて〈死〉を共にした市井人〈津島修治〉の影だけである。」(相馬正一『評伝太宰治』)

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