芭蕉の時代 井筒 満 (『文学と教育』№183 1998.12) |
はじめに 資料として配布しておいた、「熊谷孝編『西鶴・芭蕉・蕪村年譜』(一九八一年八月/荒川有史補訂、一九九四年三月/但し、蕪村に関しては一七二五年以降の部分を省略/p25~p27参照)をまず見てください。この年譜にそって話を進めていきたいと思います。この年譜は、西鶴・芭蕉・蕪村の文学の歴史社会的場面規定を明らかにするという明確な課題意識に基づいて、熊谷孝さんが作成したものです。芭蕉や西鶴に関する事項を年代順にただ羅列しただけの、よくあるような年譜ではありません。今回、熊谷さんの一連の西鶴論・芭蕉論*――私たちの研究の基盤となっている――を読み直してみて、この年譜がいかに役立つかを改めて実感しました。それでこの報告では、この年譜にそいながら、「芭蕉の時代」に関する熊谷さんの指摘を私の理解した範囲で紹介することにしたいと思います。 芭蕉に関しては様々な研究が積み重ねられており、私自身も、そうした研究から学ぶことは多いのですが、熊谷さんの提起している論点は、私達の研究の方向性を明確にするうえで非常に重要な意味を持っていると思うんですね。それで、熊谷さんの仕事をここでなぞっておきたいということなんです。
熊谷孝編「西鶴・芭蕉・蕪村年譜」 (一九八一年八月、荒川有史補訂一九九四年三月)
注4 同上、新旧特権町人の不在j主化促進政策の側面 封建制社会の時期区分と芭蕉 日本社会に於ける封建制の成立過程や、封建制の時期区分に関して、熊谷さんがどういう見解をもっていたのか、その点をまず確認しておきましょう。熊谷さんは「鷗外、龍之介から鱒二へ」(『文学と教育』一九八四年・八月)の中で、封建制の時期区分を次のように提示しています。 ①封建制の成立期(戦国期)→ ②封建制の確立期(元和・寛永期)→ ③端緒的な、封建制の動揺期(元禄期)→ ④封建制の動揺期(享保期)→ ⑤解体へむけての封建制の動揺期(寛政期)→ ⑥封建制の解体期(天保期) 日本社会における封建制成立の画期をどこに求めるかという問題は、太閤検地論争以来、それをめぐって激しい論争が闘われてきたにもかかわらず、未だ決着がついていない問題であるように思います。熊谷さんは、そうした論争史をふまえつつ、また、西鶴や芭蕉の文学への考察を通して、「封建制」の成立期を「戦国期」とすることが妥当だと考え*、右のような時期区分を提示しているわけなんです。
こうした名主の中間搾取を否定し、名主に奴隷的に従属していた人びとを、一人前の小農民(単婚小家族自営農民)として自立させ、年貢負担者にする。また、このようにして自立した農民(農奴)と年貢収奪者としての大名という単一化された関係に、土地の所有権と収益権を統合していく。日本の封建社会は、このプロセス――戦国の動乱の中で進行し、太閤検地によって促進された――を通じて成立するわけです。 だから、大名領主が封建小農民を収奪する――しかも、全余剰労働の収奪を目指す――体制というのが、日本の封建社会(幕藩体制社会)の基本構造になります。熊谷さんは、それが確立するのは「元和・寛永期」だというのです。そして、芭蕉は、封建制の確立期から封建制の端緒的動揺期である元禄期にかけて生きた人だってことがわかりますね。では、封建制の動揺とはどういうことなのか。それをはっきりさせるために、年譜の「一般社会事象」欄に記載されている幕府の法令に示された幕府の政策の特徴をみることによって、封建制の基本的構造やその動揺期の意味が明確になってくるわけです。まず、一六四三年の欄の「田畑永代売買禁止令」です*。
ところが、一六九五年(元禄六年)になると、「質地取扱に関する十二ヵ条の覚」を幕府は出しています。一六四三年の時点では、田畑の売買を禁止しており、また質入地に関しても質流れを認めていなかったのが、この時点になると、幕府は質流れを認める処置をとるようになるのです。これで得をするのは誰かというと、大百姓たちです。小百姓たちから土地を収奪していいということになったわけですから。つまり、小百姓の保護政策から大百姓の保護政策への転換です。 以後、「請返し請求権を十年以内に制限」(一七一八年・享保三年) → 「徒党禁止令」(一七二一年・享保六年) → 「質流し禁止令の(布告と)廃止」(一七二二年・享保七年) → 「小作料を年貢並みに扱うことを布告」(一七四〇年・元文五年)というように、幕府は、次々と、大百姓保護政策を打ち出していくわけです。 大百姓というのは、もう少し厳密にいえば、寄生地主です。彼らは、土地を収奪して小百姓たちを自分の小作人にし、そこから小作料を収奪するのです。そういう存在を幕府は容認するようになる。中間搾取者を排除し小百姓を自立させることが封建制の基本だったのだが、この時点でもう一度、農村の中に新しい中間搾取者が登場してくる。そして、その中間搾取者と結びついて、幕府権力は、支配体制を維持しようとするわけです。 「封建制の動揺」とは、このことを意味しているのであり、年譜からも明らかなように、寄生地主制への大きな一歩を踏み出しつつあったのが元禄期(端緒的動揺期)であり、寄生地主制が確立していくのが享保期(動揺期)だと熊谷さんは位置づけているわけです。で、繰り返しになりますが、簡単にいって、芭蕉は、封建制の確立期に生れ、封建制の端緒的動揺期にいたる時期を生きた人だということ、芭蕉文学を読む場合、これをまず基本として押さえておく必要があるだろう、ということなんです。 新興町人階級の解体・雑階級者としての芭蕉 今度は、芭蕉の生活史に即しながら年譜を見ていきたいと思うんです。まず、一六四四年(寛永二一年)、「松尾金作、伊賀上野の、郷士出身の手習い師匠の次男として誕生」とあり、一六五五年(明暦一年)~一六六一年(寛文一年)の欄には、「芭蕉……藤堂新七郎家の下士(蝉吟の小姓)貞門俳諧へ」とあります。 芭蕉は藤堂藩の出身ですけれど、藤堂氏は、幕府が目指した小百姓自立政策を忠実に実行した、「近世大名の一典型」であり、外様大名の中でも幕府の信望が最も厚かった大名だということです*。そういう藩に芭蕉は生まれている。また、彼の父親は郷士出身――郷士というのは、実質的には農民身分なんだけれど、武士に準じる身分を与えられているという存在です。しかし、芭蕉の父はそういう身分にあきたらず、本当の武士になることを目指して城下町に出てくるのだが、彼自身は失敗してしまう。それで、今度はその夢を息子の芭蕉に託すことになる。そして、芭蕉を、藤堂新七郎家の嗣子である良忠(俳号蝉吟)の小姓にすることに成功するわけです。
その結果、芭蕉はどういう選択をしたか。一六六六年の欄に「芭蕉、離郷、京へ(?)」とありますが、京都の北村季吟のもとで、芭蕉は、本格的な俳諧師・詩人への修行を積み重ねていたのではないか、と熊谷さんは推定しているわけです。だた、貞門俳諧にも疑問・不満を感じはじめた芭蕉は、江戸へ下り、談林はの俳人として頭角を現わし、ついに、江戸談林の第一人者となります。 ところが、一六八〇年(延宝八年)、「芭蕉、談林と訣別、江戸を去り深川村(後の芭蕉庵)へ」ということになるんです。この「訣別」の意味するところについて考えるために、もう一度、年譜の「一般社会事象」欄をたどってみたいんです。 一六三九年(寛永十六年)に「寛永鎖国令」が出されています。「鎖国」は、幕府による貿易独占という意味をもっています。これが日本の産業と商業に与えた打撃は大きく「鎖国を契機とする経済不況、年を追って深刻化」という事態になっていくわけです。得をしたのは、幕府権力と結託した糸割符商人など、一部の特権門閥商人にすぎませんでした。そして、江戸時代の初期においては、この糸割符商人や幕府・藩に出入りする御用達の呉服商など、特権門閥商人たちが商業を支配していたのです。で、芭蕉は、貞門俳人として出発するのですが、貞門派という文学集団の基盤は、この「特権町人、あるいは特権町人と関わり浅からぬ堂上公家、本願寺のような寺院貴族、と藤堂蝉吟がその一人であるような地方の上級武士」だったわけです*。
ところで、一六五五年(明暦一年)~一六六一年(寛文一年)の一般社会事象欄に、「初代新興町人の進出/商業的農業(交換価値生産を目的とした農業、加工業)の、畿内を中心とした普及・発展」とあります。特権門閥町人に対して新興町人とはどんなタイプの町人だったのか。 新興町人の進出の基盤には農業生産力の発展があるのです。前述のように、全剰余労働力部分収奪を目指した封建領主に拠る搾取は苛酷なものであったけれど、農業経営の主体として小農民が自立したことは、奴隷的状態からの解放という点で一定の明るさを生みだし、彼らの生産意欲をかきたてます。「徳川時代を通じての農業生産力の発展は、正に、太閤検地によって、『名主』の絆より解放され、『昼夜得も寝ず、夫婦男女の子供ひたすら精出す』農奴としての小農民の肩にかかっており、その営々たる努力のうちに着々と実現せられたものである*。」ということなのです。 生産力の発展に加えて、慶安~寛文・延宝の頃になると、領主による全剰余労働部分収奪体制が後退してきて、農民の手元に一定度の剰余労働部分が残るようになります**。これが商品化農業の発展を促す基盤になるわけで、農民自身が商品生産者としての性格を持つようになるとともに、そこに農民剰余を扱う新しいタイプの商人たちが台頭し、国内の各地に新しい市場を開拓していきます。 つまり、幕府権力にすがってそこから甘い汁を吸うのではなくて、民衆が作りだした剰余生産物に依拠して商業活動を展開する人たちがでてくるわけです。熊谷さんが「新興町人」と呼んでいるのは都市在住者だけではありません。いま述べたような商品生産者としての性格を持つようになった農民たち、彼等もそういう意味で商工階級の一部になっている。「農民身分をも商工階級に組み込んだ、町人の新しいタイプ」を目指して、熊谷さんは「新興町人」と呼んでいるわけです。
芭蕉は、そうした談林派に身を投じ、非常な努力をしてついに宗匠の地位をえるわけですが、その談林派とも一六八〇年に訣別する。それはなぜなのか。熊谷さんは次のように指摘しています。 「この時期の庶民大衆は、急激な商業資本・金貸資本の攻勢の前に、経済生活の面でも精神生活の面でも極度の疎外・抑圧を経験しはじめていた……/そのことの最も象徴的な現象は、一六七五年の三井高利の越後屋の江戸進出と、それに続く八〇年代初頭のこの三井の両替店の開業ですね。ひとにぎりの新興町人上層者たちによる資本の寡占・集中化と、庶民大衆に対する経済面・精神面の圧迫。大衆は、生活のいっさいを妥協と屈従の中に過ごすほかなくなって来ていた……/僕がほんとうに言いたいのは、芭蕉が、通俗化の傾向をいっそう強いものにして来ていた談林俳壇を見かぎり、江戸という、 「……三井高利は越後屋の新商法による莫大な利益・利潤を資本に両替店を兼業するわけですが、こうした資本の集中化現象が同時に、新興町人社会内部における階級分化を結果するわけだけど、上層町人と中下層町人とへの階級分化・固定化のシンボリックな現象がこの三井の両替店の開業だ、と僕は思ってみているわけ。『銀が銀を儲くる時節』(『永代蔵』)が、こうして七〇年代末には訪れたわけですね**。」 年譜の、一六七五年(延宝三年)~一六八三年(天和三年)の欄を見ながらこの指摘を読むと、さらにはっきりしてくると思います。新興町人の内部には、新興町人相互の競争や経営規模の違いなどは最初からあったわけですが、特権門閥町人との対立関係においてみるならば、民衆的な基盤を共有しているという点で、新興町人階級と呼べるような共通性があった。だが、それが資本の集中化による新興町人内部の階級分化によって崩れていく。三井などは、いわば、新興町人のチャンピオンですが、今度は幕府権力と結びついて御用商人化していく。つまり、新興町人内部が、新特権町人とそれ以外の中下層町人とに分化し、前者が後者を収奪するという体制になってくるわけです。
「思えば芭蕉が、生粋の町人である西鶴よりも先に、八〇年という年に、新しい抵抗の文学、新しい異端の文学、通俗に背を向けた文学を創りだしていった。……農村出身の、町人階級に所属せざるところの雑階級者である彼こそ、本来の新興町人の一人である西鶴などより、いちはやく矛盾を感じ取るわけですね。/……(芭蕉は)別の階級的立場から、真の意味の新興町人精神を受け継いだ文学を書いた。あれも新興町人文学ですね。彼自身がその階級に属そうが属すまいが、であります*。」 特権門閥町人との闘いの中で、また、民衆的な基盤との結びつきのなかで培われた新興町人精神。新興町人たちのそうした積極面は、上層町人たちにべったりくっついていたのでは継承できない。雑階級者**としての道を歩んでいった芭蕉にこそ、継承――発展的継承が可能だったということだと思うんです。
芭蕉にとっての「旅」 人間精神の自由を求めて、芭蕉は深川に逃亡する。そして、一六八四年(貞享一年)、「野ざらしの旅」へ出ます。芭蕉にとって「旅」とは何だったのか、ということがよく話題になりますが、いままで述べてきたような歴史社会的場面規定と関連づけてこの問題も考える必要があると思います。つまり、「封建制の端緒的動揺期」における人間疎外と闘い、民衆的人間精神の自由を守り通すために、芭蕉は「旅」に出たんだという点ですね。 芭蕉は旅先で様々な人たちと出会っています。で、「野ざらしの旅」などでは、自分の求める文学を創造する契機となるような新しい連衆たちとの出合いを経験するわけです。だから、芭蕉の「旅」には二つの側面があると思う。一つは、自分の人間を守るために逃げる・逃亡するという側面。もう一つは、本当の意味で対話できる相手(連衆)との出会いを求めて、という側面です。この点について、熊谷さんは、『冬の日』に即して次のように指摘しています。 生産から遊離した消費都市江戸の商人たちとは違う、生産とつながっている名古屋の商人たち。「連句はかく作るべきものといったお決まりのパターンからぐっとはみ出したところのある、いきいきとした連衆との出会い」を芭蕉は「野ざらしの旅」で経験する。そして、その出会いが新しい俳諧を生み出す契機となり、『冬の日』が誕生する*。
同時期であっても、新しい文学を生みだす可能性をもっている人たちが存在する地域とそうではない地域があるわけですね。そういう「地域差」の内容を明らかにしていくことも、芭蕉の「旅」の意味を考えるうえで重要だと思います。それでは、「奥の細道の旅」の場合はどうだったのか。ゼミの中で考え合いたい課題の一つです。
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