芭蕉の時代 井筒 満 (『文学と教育』№183  1998.12)
はじめに
 資料として配布しておいた、「熊谷孝編『西鶴・芭蕉・蕪村年譜』(一九八一年八月/荒川有史補訂、一九九四年三月/但し、蕪村に関しては一七二五年以降の部分を省略/p25~p27参照)をまず見てください。この年譜にそって話を進めていきたいと思います。この年譜は、西鶴・芭蕉・蕪村の文学の歴史社会的場面規定を明らかにするという明確な課題意識に基づいて、熊谷孝さんが作成したものです。芭蕉や西鶴に関する事項を年代順にただ羅列しただけの、よくあるような年譜ではありません。今回、熊谷さんの一連の西鶴論・芭蕉論*――私たちの研究の基盤となっている――を読み直してみて、この年譜がいかに役立つかを改めて実感しました。それでこの報告では、この年譜にそいながら、「芭蕉の時代」に関する熊谷さんの指摘を私の理解した範囲で紹介することにしたいと思います。
 芭蕉に関しては様々な研究が積み重ねられており、私自身も、そうした研究から学ぶことは多いのですが、熊谷さんの提起している論点は、私達の研究の方向性を明確にするうえで非常に重要な意味を持っていると思うんですね。それで、熊谷さんの仕事をここでなぞっておきたいということなんです。
*  「〈座談会〉西鶴の発見」(『文学と教育』/一九八一年・二月)/「芭蕉文学の世界――雑階級者の孤独と倦怠〈講演記録〉」(婦民クラブ主催・文学講座 一九八一年・三月二〇日、文責・井筒満)/「蕪村から透谷へ〈講演記録〉」(婦民クラブ主催・文学講座、一九八一年・六月二〇日、文責・井筒満)/「〈談話記録〉芭蕉文学への視角」(『文学と教育』一九八一年・八月)等々。

  
熊谷孝編「西鶴・芭蕉・蕪村年譜」 (一九八一年八月、荒川有史補訂一九九四年三月)
西紀 元号 西鶴 芭蕉 文学事象 一般社会事象
1637 寛永 14       島原の乱
39 16       寛永鎖国令
1641 18     (細川忠利、没)  
42 19 1歳   平山藤五、大坂の商家に誕生
(阿部一族の叛乱)
 
鎖国を契機とする経済不況、年を追って深刻化〈注1〉
43 20 2〃     田畑永代売買禁止令〈注2〉 
44 21 3〃 1歳 松尾金作、伊賀上野の、郷士出身の手習師匠の次男として誕生 人別帳の作成(一人一作人)〈注3〉
49 慶安 2  8〃 6〃   慶安御触書(一世帯一親族、農村の次三男対策)〈注4〉
1655 明暦 1 14〃 12〃 西鶴、芭蕉の世代形成期 
西鶴~(仮説)父と共に実務に従事、談林俳諧へ
芭蕉~藤堂新七郎家の下士(蝉吟の小姓)、貞門俳諧へ
 
初代新興町人の進出〈注5〉
商業的農業(交換価値生産を目的とした農業、加工業)の、畿内を中心とした普及・発展
58 万治 1 17〃 15〃
1661 寛文 1 20〃 18〃
66 6 25〃 23〃 蝉吟、没 
芭蕉、離郷、京へ(?) 
 
  
68 8 27〃 25〃   輸入制限の強化
1671 11 30〃 28〃 「貝おほひ」成稿 (貞門から談林へ)   
72 12 31〃 29〃 芭蕉、江戸下向、定住(?)   
73 延宝 1 32〃 30〃 俳号、西鶴 分地制限令〈注6〉
75 3 34〃 32〃 西鶴の妻、没 (商人の生活を離れ、俳諧師の生活へ) 三井高利、江戸へ、越後屋呉服店を創業〈注7〉
76 4 35〃 33〃 「江戸両吟集」 芭蕉、江戸談林の
第一人者の地位を
  
77 5 36〃 34〃 「江戸三吟集」  
1680 8 39〃 37〃 芭蕉、談林と訣別、江戸を去り深川村(後の芭蕉庵)へ 関東大飢饉、上州農民越訴(磔茂左衛門、他) 
81 天和 1 40〃 38〃   綱吉、五代将軍
82  2 41〃 39〃 西山宗因、没  「一代男」刊 
俳号、芭蕉 
  
83 3 42〃 40〃   三井の両替店、開業 〈注8〉
輸入制限さらに強化
84 貞享 1 43〃 41〃 「二代男」刊
野ざらしの旅へ、「冬の日」の興行
 
85 2 44〃 42〃 「大下馬」刊 
「野ざらし紀行」刊 
  
86 3 45〃 43〃 「五人女」刊 
古池の吟
  
87 4 46〃 44〃 池をめぐりての吟(透谷参照)    
88 元禄 1 47〃 45〃 「永代蔵」刊    
89 2 48〃 46〃 奥の細道の旅へ
「あら野」刊 
  
1690 3 49〃 47〃 「文反古」成稿(?)
「幻住庵記」 
  
91 4 50〃 48〃 「猿蓑」刊    
92 5 51〃 49〃 「胸算用」刊
  
93 6 52〃 50〃 「置土産」(遺稿)刊
「閉閑之説」  
  
94 7   51〃 「織留」(遺稿)刊 
「炭俵」
 
95 8        質地取扱に関する十二箇条の覚
〈注9〉 
96 9     「文反古」(遺稿)刊   
注1  「万の商事がないとて我人年々悔むこと、およそ四十五年なり。」(一六八八年刊『永代蔵』) 
 「世のつまりたるといふうちに丸裸にて取付き、歴々に仕出しける人あまたあり。これらは近代の出来商人、三十年このかたの仕出しなり。」「惣じて大坂の手前よろしき人、代々つゞきしにはあらず、大方は吉蔵三助がなりあがり…是皆大和、河内、津の国、和泉近在の物つくりせし人の子ども、惣領残して末々を丁稚奉公…次第送りの手代分になつて」云々。(同右『永代蔵』)
・8 「近年京大坂に三千五百貫目、四千貫目の分散もさのみ大分といふ人なく…親よりゆづりなくては富貴になりがたし。…今は銀が銀を儲くる時節」云々。(同右『永代蔵』) 
注2 ・3・4・6 近世的小規模農業経営ないし地主富農経営の維持政策
 寄生地主的土地所有是認への政策転換

西紀 元号 蕪村 文学事象 一般社会事象
1707 宝永  4 -9歳  其角、嵐雪、没    
16 享保  1 1歳  蕪村、摂津毛馬村の百姓の家に誕生  吉宗、八代将軍
18 3 3〃   請返し請求権を10年以内に制限〈注1〉 
19 4 4〃   相対済し令
1721 6 6〃   徒党禁止令〈注2〉 
22 7 7〃   上げ米令
質流し禁止令の(布告と)廃止
〈注3〉
新田開発に関する高札〈注4〉
24 9 9〃 近松、没   
25 10 10〃    口米制度の廃止
免率、五公五民へアップ(定免法の全面実施への足取り)
 注1・2・3 寄生地主的土地所有の保護政策
 注4 同上、新旧特権町人の不在j主化促進政策の側面


封建制社会の時期区分と芭蕉 
 
日本社会に於ける封建制の成立過程や、封建制の時期区分に関して、熊谷さんがどういう見解をもっていたのか、その点をまず確認しておきましょう。熊谷さんは「鷗外、龍之介から鱒二へ」(『文学と教育』一九八四年・八月)の中で、封建制の時期区分を次のように提示しています。
 ①封建制の成立期(戦国期)→ ②封建制の確立期(元和・寛永期)→ ③端緒的な、封建制の動揺期(元禄期)→ ④封建制の動揺期(享保期)→ ⑤解体へむけての封建制の動揺期(寛政期)→ ⑥封建制の解体期(天保期)
 日本社会における封建制成立の画期をどこに求めるかという問題は、太閤検地論争以来、それをめぐって激しい論争が闘われてきたにもかかわらず、未だ決着がついていない問題であるように思います。熊谷さんは、そうした論争史をふまえつつ、また、西鶴や芭蕉の文学への考察を通して、「封建制」の成立期を「戦国期」とすることが妥当だと考え*、右のような時期区分を提示しているわけなんです。
*   私は、封建制の時期区分を明確化するうえで熊谷氏が重視したのは、安良城盛昭氏などによる封建制成立史に関する研究ではなかったかと思っている。例えば、安良城氏は次のように指摘している。「(戦国期という)この動乱を通じて、日本社会における奴隷制が最終的に解体し、奴隷解放の劃期がこの幕藩体制成立期に求められるのは、この動乱気が(マルクスが『経済学批判序説』の中で述べた意味における)『一つの社会革命』の時代であったことを証明して余りあるものといえよう。……この動乱期を通じて、鎌倉・室町期における奴隷所有の主体であった武士階級は、兵農分離の過程を通じて農業経営より遊離し、その奴隷所有を必要としない存在に転化しており、奴隷より農奴への進化の過程を歩みつつあった名子・被官が解放され、百姓として農奴的に支配される存在に上昇していること自体、荘園体制社会と幕藩体制社会の経済的発展段階の差異を示すものである……」(『太閤検地と石高制』/日本放送出版会・一九六九年)
 で、まず、①について言うと、戦国の動乱を通して解体していったのは、荘園体制社会です。荘園体制下の村落では、土地の所有権・収益権が複雑にいりくんでいるのですが、村落を実質的に支配しているのは名主層です。名主層は、下人・名子・被官といった人びとを奴隷的に支配していました。旧来の支配者であった荘園領主・守護大名たちは、この名主層の村落支配を認め、名主を通じて搾取を行なっていたわけです。と同時に、名主は、自分の利益のために下人や名子たちからの中間搾取もおこなっている。言い換えれば、そういう中間搾取を保証しているのが、荘園体制社会であったということです。
 こうした名主の中間搾取を否定し、名主に奴隷的に従属していた人びとを、一人前の小農民(単婚小家族自営農民)として自立させ、年貢負担者にする。また、このようにして自立した農民(農奴)と年貢収奪者としての大名という単一化された関係に、土地の所有権と収益権を統合していく。日本の封建社会は、このプロセス――戦国の動乱の中で進行し、太閤検地によって促進された――を通じて成立するわけです。
 だから、大名領主が封建小農民を収奪する――しかも、全余剰労働の収奪を目指す――体制というのが、日本の封建社会(幕藩体制社会)の基本構造になります。熊谷さんは、それが確立するのは「元和・寛永期」だというのです。そして、芭蕉は、封建制の確立期から封建制の端緒的動揺期である元禄期にかけて生きた人だってことがわかりますね。では、封建制の動揺とはどういうことなのか。それをはっきりさせるために、年譜の「一般社会事象」欄に記載されている幕府の法令に示された幕府の政策の特徴をみることによって、封建制の基本的構造やその動揺期の意味が明確になってくるわけです。まず、一六四三年の欄の「田畑永代売買禁止令」です*
*   以下の各種の叙述は、熊谷孝氏の講演記録、「芭蕉文学の世界――雑階級者の孤独と倦怠」及び「蕪村から透谷へ」に拠る。
 封建小農民――小百姓の経営を自立させ、そこから年貢を搾り取るというのが、幕藩体制の基本構造です。そのためには、小百姓たちの経営――小規模経営を維持する必要があります。例えば、小百姓が生活に困ったとき、自分の田畑を抵当にして借金をしたりすれば、借金が払えない場合には、その田畑は、大百姓などの所有物になってしまう。つまり、田畑の売買を認めれば、幕藩体制の基本である小規模経営は維持できなくなる。だが、そうならないように田畑の売買を禁止したのがこの法令です。つまり、「近世的小規模経営の保護政策」なのです。それは、同時に、確立した封建制社会の基本構造を守るための政策であるわけです。年譜にもあるように、「人別帳の作成(一地一作人)」(一六四四年・寛永二一年) → 「慶安御触書」(一六四九年・慶安二一年) → 「分地制限令」(一六七三年・延宝一年)などの諸法令は、すべて、そのような性格をもっています。
 ところが、一六九五年(元禄六年)になると、「質地取扱に関する十二ヵ条の覚」を幕府は出しています。一六四三年の時点では、田畑の売買を禁止しており、また質入地に関しても質流れを認めていなかったのが、この時点になると、幕府は質流れを認める処置をとるようになるのです。これで得をするのは誰かというと、大百姓たちです。小百姓たちから土地を収奪していいということになったわけですから。つまり、小百姓の保護政策から大百姓の保護政策への転換です。
 以後、「請返し請求権を十年以内に制限」(一七一八年・享保三年) → 「徒党禁止令」(一七二一年・享保六年) → 「質流し禁止令の(布告と)廃止」(一七二二年・享保七年) → 「小作料を年貢並みに扱うことを布告」(一七四〇年・元文五年)というように、幕府は、次々と、大百姓保護政策を打ち出していくわけです。
 大百姓というのは、もう少し厳密にいえば、寄生地主です。彼らは、土地を収奪して小百姓たちを自分の小作人にし、そこから小作料を収奪するのです。そういう存在を幕府は容認するようになる。中間搾取者を排除し小百姓を自立させることが封建制の基本だったのだが、この時点でもう一度、農村の中に新しい中間搾取者が登場してくる。そして、その中間搾取者と結びついて、幕府権力は、支配体制を維持しようとするわけです。
 「封建制の動揺」とは、このことを意味しているのであり、年譜からも明らかなように、寄生地主制への大きな一歩を踏み出しつつあったのが元禄期(端緒的動揺期)であり、寄生地主制が確立していくのが享保期(動揺期)だと熊谷さんは位置づけているわけです。で、繰り返しになりますが、簡単にいって、芭蕉は、封建制の確立期に生れ、封建制の端緒的動揺期にいたる時期を生きた人だということ、芭蕉文学を読む場合、これをまず基本として押さえておく必要があるだろう、ということなんです。

新興町人階級の解体・雑階級者としての芭蕉
 今度は、芭蕉の生活史に即しながら年譜を見ていきたいと思うんです。まず、一六四四年(寛永二一年)、「松尾金作、伊賀上野の、郷士出身の手習い師匠の次男として誕生」とあり、一六五五年(明暦一年)~一六六一年(寛文一年)の欄には、「芭蕉……藤堂新七郎家の下士(蝉吟の小姓)貞門俳諧へ」とあります。
 芭蕉は藤堂藩の出身ですけれど、藤堂氏は、幕府が目指した小百姓自立政策を忠実に実行した、「近世大名の一典型」であり、外様大名の中でも幕府の信望が最も厚かった大名だということです*。そういう藩に芭蕉は生まれている。また、彼の父親は郷士出身――郷士というのは、実質的には農民身分なんだけれど、武士に準じる身分を与えられているという存在です。しかし、芭蕉の父はそういう身分にあきたらず、本当の武士になることを目指して城下町に出てくるのだが、彼自身は失敗してしまう。それで、今度はその夢を息子の芭蕉に託すことになる。そして、芭蕉を、藤堂新七郎家の嗣子である良忠(俳号蝉吟)の小姓にすることに成功するわけです。
*  安良城盛昭『幕藩体制社会の成立と構造』(有斐閣 一九八六年)
  良忠は貞門派の俳人であり、芭蕉にとっては主君であるとともに俳友でもあり、親しい間柄であったらしい。だから、このまま順調にいって良忠が大殿になれば、芭蕉の武士としての出世も間違いなかったのです。だが、一六六六年(寛文六年)、主君良忠は若死し、これで、彼の出世の夢は完全に断たれてしまう。この時、芭蕉は、将来性がなくなると途端にみんながそっぽを向きはじめるという、封建的身分秩序・封建倫理の酷薄さを実感しただろうと思うんです。
 その結果、芭蕉はどういう選択をしたか。一六六六年の欄に「芭蕉、離郷、京へ(?)」とありますが、京都の北村季吟のもとで、芭蕉は、本格的な俳諧師・詩人への修行を積み重ねていたのではないか、と熊谷さんは推定しているわけです。だた、貞門俳諧にも疑問・不満を感じはじめた芭蕉は、江戸へ下り、談林はの俳人として頭角を現わし、ついに、江戸談林の第一人者となります。
 ところが、一六八〇年(延宝八年)、「芭蕉、談林と訣別、江戸を去り深川村(後の芭蕉庵)へ」ということになるんです。この「訣別」の意味するところについて考えるために、もう一度、年譜の「一般社会事象」欄をたどってみたいんです。

 一六三九年(寛永十六年)に「寛永鎖国令」が出されています。「鎖国」は、幕府による貿易独占という意味をもっています。これが日本の産業と商業に与えた打撃は大きく「鎖国を契機とする経済不況、年を追って深刻化」という事態になっていくわけです。得をしたのは、幕府権力と結託した糸割符商人など、一部の特権門閥商人にすぎませんでした。そして、江戸時代の初期においては、この糸割符商人や幕府・藩に出入りする御用達の呉服商など、特権門閥商人たちが商業を支配していたのです。で、芭蕉は、貞門俳人として出発するのですが、貞門派という文学集団の基盤は、この「特権町人、あるいは特権町人と関わり浅からぬ堂上公家、本願寺のような寺院貴族、と藤堂蝉吟がその一人であるような地方の上級武士」だったわけです*
*  前掲、「芭蕉文学の世界――雑階級者の孤独と倦怠<講演記録>」

 ところで、一六五五年(明暦一年)~一六六一年(寛文一年)の一般社会事象欄に、「初代新興町人の進出/商業的農業(交換価値生産を目的とした農業、加工業)の、畿内を中心とした普及・発展」とあります。特権門閥町人に対して新興町人とはどんなタイプの町人だったのか。
 新興町人の進出の基盤には農業生産力の発展があるのです。前述のように、全剰余労働力部分収奪を目指した封建領主に拠る搾取は苛酷なものであったけれど、農業経営の主体として小農民が自立したことは、奴隷的状態からの解放という点で一定の明るさを生みだし、彼らの生産意欲をかきたてます。「徳川時代を通じての農業生産力の発展は、正に、太閤検地によって、『名主』の絆より解放され、『昼夜得も寝ず、夫婦男女の子供ひたすら精出す』農奴としての小農民の肩にかかっており、その営々たる努力のうちに着々と実現せられたものである。」ということなのです。
 生産力の発展に加えて、慶安~寛文・延宝の頃になると、領主による全剰余労働部分収奪体制が後退してきて、農民の手元に一定度の剰余労働部分が残るようになります**。これが商品化農業の発展を促す基盤になるわけで、農民自身が商品生産者としての性格を持つようになるとともに、そこに農民剰余を扱う新しいタイプの商人たちが台頭し、国内の各地に新しい市場を開拓していきます。
 つまり、幕府権力にすがってそこから甘い汁を吸うのではなくて、民衆が作りだした剰余生産物に依拠して商業活動を展開する人たちがでてくるわけです。熊谷さんが「新興町人」と呼んでいるのは都市在住者だけではありません。いま述べたような商品生産者としての性格を持つようになった農民たち、彼等もそういう意味で商工階級の一部になっている。「農民身分をも商工階級に組み込んだ、町人の新しいタイプ」を目指して、熊谷さんは「新興町人」と呼んでいるわけです。
*
*
 前掲、安良城、『幕藩体制社会の成立と構造』
* 何故、農民の一部に一定度の剰余労働部分が残るようになったかという問題について、大石慎三郎氏は次のように指摘している。「現在のところ農民闘争による領主権力の後退=領主的土地所有の後退を考えるものと、全余剰労働部分の収奪は、かえって封建小農の維持再生産を不安定にする故、領主側からの一定の譲歩があったことを主張する説とがある。」(『日本経済試論』/御茶の水書房/一九六七年)
 また、大石氏は「寛文・延宝期は、近世封建社会第一段階――領主によって近世的耕地開発政策の進行、そのうえに展開する小農自立策、小農達からの全剰余労働部分の抽出――から第二段階への移行に対応する諸政策が、必ずしも全面的ではないがうち出され始めた段階といえよう。」(『享保改革の経済政策』/御茶の水書房/一九七六年)と指摘している。熊谷氏が二番目の画期を「元禄期」においているのは、「寛文延宝期」のおける変化をふまえつつも、寄生地主制への大きな一歩を踏み出した(前述)という点を画期設定の基準としてより重視しているからであろう。
 新興町人たちは、特権町人たちと闘い、彼等を打倒して新しい国内市場を開拓していきます。彼等は、特権町人とは違って、広い民衆的基盤にたって商業活動を営んでいくのです。で、さっき芭蕉は江戸談林の第一人者になったということを話題にしましたが、談林派というのは、この新興町人たちを基盤とした文学集団であったわけです。したがって、その俳諧も、貞門俳諧とは違っていて、新興町人たちの生きた声がそこに反映されている。権力や筋目にすがって生きようとする特権町人とは違う、自分達の運命を自らの手できり拓いていこうとする新興町人たちの知恵、すぐれた意味での合理的精神の反映がそこにはあるのです。
 芭蕉は、そうした談林派に身を投じ、非常な努力をしてついに宗匠の地位をえるわけですが、その談林派とも一六八〇年に訣別する。それはなぜなのか。熊谷さんは次のように指摘しています。
 「この時期の庶民大衆は、急激な商業資本・金貸資本の攻勢の前に、経済生活の面でも精神生活の面でも極度の疎外・抑圧を経験しはじめていた……/そのことの最も象徴的な現象は、一六七五年の三井高利の越後屋の江戸進出と、それに続く八〇年代初頭のこの三井の両替店の開業ですね。ひとにぎりの新興町人上層者たちによる資本の寡占・集中化と、庶民大衆に対する経済面・精神面の圧迫。大衆は、生活のいっさいを妥協と屈従の中に過ごすほかなくなって来ていた……/僕がほんとうに言いたいのは、芭蕉が、通俗化の傾向をいっそう強いものにして来ていた談林俳壇を見かぎり、江戸という、新旧(、、)特権町人の支配する都会に見切りをつけて深川村へ去ったのはどういう時期であったのかを考えてみていただきたい、ということなんです。/この、八〇年代初頭の時期において江戸の地にとどまることは、また談林派の:点者宗匠としての生活を続けることは、人間精神の自由を放棄して通俗との妥協に生きるということ以外ではなかったわけです*。」
 「……三井高利は越後屋の新商法による莫大な利益・利潤を資本に両替店を兼業するわけですが、こうした資本の集中化現象が同時に、新興町人社会内部における階級分化を結果するわけだけど、上層町人と中下層町人とへの階級分化・固定化のシンボリックな現象がこの三井の両替店の開業だ、と僕は思ってみているわけ。『銀が銀を儲くる時節』(『永代蔵』)が、こうして七〇年代末には訪れたわけですね**。」
 年譜の、一六七五年(延宝三年)~一六八三年(天和三年)の欄を見ながらこの指摘を読むと、さらにはっきりしてくると思います。新興町人の内部には、新興町人相互の競争や経営規模の違いなどは最初からあったわけですが、特権門閥町人との対立関係においてみるならば、民衆的な基盤を共有しているという点で、新興町人階級と呼べるような共通性があった。だが、それが資本の集中化による新興町人内部の階級分化によって崩れていく。三井などは、いわば、新興町人のチャンピオンですが、今度は幕府権力と結びついて御用商人化していく。つまり、新興町人内部が、新特権町人とそれ以外の中下層町人とに分化し、前者が後者を収奪するという体制になってくるわけです。
*
*
 前掲、「<談話記録>芭蕉文学への視角」
* 前掲、「<座談会>西鶴の発見」
 資本の集中による階級分化は、もちろん都市の町人たちにとってだけの問題ではありません。商業的農業の発展は農民の階級分化を促進し、寄生地主制の成立をもたらすわけで、元禄期が寄生地主制への一歩を踏み出した時期であったのもそのことと関係するのです。また、三井のような新特権町人たちも、農村に土地を購入して不在地主になっていきます。時代が進んで享保期になれば、在地ならびに不在の寄生地主制が確立する、ということなんです*。そうなると、新興町人階級などはもはや存在しないので、ひとにぎりの特権農民・特権町人と被圧迫者としての農民大衆、都市細民とがあるのみ――極端にいえば――という状況になるわけです。 
*
 「新田開発に関する高札」(年譜・一七二二年の「一般社会事象」欄を参照)は、「<注4>新旧特権町人の不在地主化促進政策の側面」をもっている。
 大石氏は、次のように指摘している。享保七年七月二六日、幕府は新田開発に関する有名な高札を江戸日本橋に立てる。……(この法令が)大規模新田を、しかも都市在住の大富豪達の資金によって開発されることを積極的に期待していると考えるのはさして無理な解釈ではないであろう。」(前掲、『享保改革の経済政策』)
 したがって、新興町人階級という切り口から言えば、享保期はその解体期、そして、江戸の町から、談林俳壇から芭蕉が逃亡した時期、また、延宝期から元禄期にいたる時期は、その解体期への大きな一歩を踏み出した時期だと言えるのではないか。この点について、熊谷さんは次のように指摘しています。
 「思えば芭蕉が、生粋の町人である西鶴よりも先に、八〇年という年に、新しい抵抗の文学、新しい異端の文学、通俗に背を向けた文学を創りだしていった。……農村出身の、町人階級に所属せざるところの雑階級者である彼こそ、本来の新興町人の一人である西鶴などより、いちはやく矛盾を感じ取るわけですね。/……(芭蕉は)別の階級的立場から、真の意味の新興町人精神を受け継いだ文学を書いた。あれも新興町人文学ですね。彼自身がその階級に属そうが属すまいが、であります*。」
 特権門閥町人との闘いの中で、また、民衆的な基盤との結びつきのなかで培われた新興町人精神。新興町人たちのそうした積極面は、上層町人たちにべったりくっついていたのでは継承できない。雑階級者**としての道を歩んでいった芭蕉にこそ、継承――発展的継承が可能だったということだと思うんです。
*
*
 前掲、「芭蕉文学の世界――雑階級者の孤独と倦怠<講演記録>」
* 「雑階級者」とは、もともと、一九世紀ロシアにおける知識人の世代的特徴を示すために使われた用語だと思われる。例えば、「(ロシアの革命家の)第二の世代は……雑階級人の革命家たちであった。雑階級人とは貴族農奴、町人のごとき世襲的身分に属しない僧侶や商人の子で、父の仕事をつがず、その身分に属せず、固定的な封建身分のいずれにも属しない人びとをいう。」(チェルヌイシェーフスキー著/石山正三訳『現実に対する芸術の美学的関係』の「あとがき」/日本評論社/一九四七年)等。
 芭蕉は、家業のかたわらに単なる「趣味」として俳諧にとりくんでいるわけではない。だが、俳諧宗匠としてのプロの世界からも離脱する。また、農民身分・町人身分・武家身分などの固定的な封建身分のいずれからもはみだしている。そして、精神の自由のために「ノン・プロの詩人の道」(前掲「〈談話記録〉芭蕉文学への視角」)を選択する。それらの点をふまえて、熊谷氏は、雑階級者として芭蕉を位置づけているのだろう。

芭蕉にとっての「旅」
 人間精神の自由を求めて、芭蕉は深川に逃亡する。そして、一六八四年(貞享一年)、「野ざらしの旅」へ出ます。芭蕉にとって「旅」とは何だったのか、ということがよく話題になりますが、いままで述べてきたような歴史社会的場面規定と関連づけてこの問題も考える必要があると思います。つまり、「封建制の端緒的動揺期」における人間疎外と闘い、民衆的人間精神の自由を守り通すために、芭蕉は「旅」に出たんだという点ですね。
 芭蕉は旅先で様々な人たちと出会っています。で、「野ざらしの旅」などでは、自分の求める文学を創造する契機となるような新しい連衆たちとの出合いを経験するわけです。だから、芭蕉の「旅」には二つの側面があると思う。一つは、自分の人間を守るために逃げる・逃亡するという側面。もう一つは、本当の意味で対話できる相手(連衆)との出会いを求めて、という側面です。この点について、熊谷さんは、『冬の日』に即して次のように指摘しています。
 生産から遊離した消費都市江戸の商人たちとは違う、生産とつながっている名古屋の商人たち。「連句はかく作るべきものといったお決まりのパターンからぐっとはみ出したところのある、いきいきとした連衆との出会い」を芭蕉は「野ざらしの旅」で経験する。そして、その出会いが新しい俳諧を生み出す契機となり、『冬の日』が誕生する*
*  前掲、「芭蕉文学の世界」及び「芭蕉文学への視角」に拠る。

 同時期であっても、新しい文学を生みだす可能性をもっている人たちが存在する地域とそうではない地域があるわけですね。そういう「地域差」の内容を明らかにしていくことも、芭蕉の「旅」の意味を考えるうえで重要だと思います。それでは、「奥の細道の旅」の場合はどうだったのか。ゼミの中で考え合いたい課題の一つです。
 (明治大学)
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