文教研の指導過程ではどう考えているか 福田隆義 (『教育科学・国語教育』№184 1973.11) |
[掲載号の特集は「ひとりひとりを生かす読解の指導過程」であった。その中の「ひとりひとりを生かす読解の指導過程をどう考えてきたか」には、小川末吉、小林喜三男、万屋秀雄、福田隆義、佐藤鉄雄、沖山光、安藤操、及川悌三郎、中沢政雄各氏の論考が掲載されている。] | |||
一 はじめに 文学教育研究者集団(文教研)では、「読解」という言葉を使わない。故意に意識して使わないのである。この言葉には、「己れを虚しうして」読むことで、その 文章に示されている命題なり何なりを追体験する(させる)という解釈学的国語教育の考え方がベースにある。それは、文章なり作品には、一定の思想なり、内容が封じ込められており、読者はそれを白紙の立場で、ある段階をふんで読めば(読ませれば)誰にでも同じように、その思想なり内容がつかめるはずだ、という前提にたっての発想である。それは、いわば対象に対する、自己の主体放棄の論理である。 文教研は、右のような追体験理論、同化の理論に対して、準体験理論(追体験ではない、自己の直接体験を越えた体験を自己に媒介する体験)を提唱し続けてきた。読みとは、そうした受け身なものではない。それは、作品のその文章に託された事物や現象や、そのつかみ方、感じ方と、自分自身のそれとを対比・対決させながら、対象をつかみ直していく過程である。そして、究極においては、読み手である自分自身を変革していく営みだと考えている。つまり、読むこと自体が目的なのではない。それは自己変革のための手段だと考えるのである。そういう意味で、読みは、もともと主体的なものであり、個別的にならざるをえない側面をもっている。 個別的云々、ということは、芸術・文学の多義性ということとも関係する。それを読者の側に限っても、次のようなことがいえる。前記のように、読みは読み手と、その文章の示す発想とのかかわりではじめて成立する。したがって、その読み手主体のありようから生じる表現理解の個人差は、どこまでもつきまとう。といっても、方向感覚まで狂った方向差までも許容するわけにはいかない。それは、教育放棄である。 方向差、それは自分の実感ベッタリな読み、もしくは、それとうらはらの、前記「己れを虚しうして」読むことから生じる。それは、表現の場面規定をおさえ、自己規制をする(させる)ことで、方向を正さなければならない。が、個人差までをなくして一律に主題とかいうもの(それも教師のほうで決めた)を、つかませようとするところに問題がある。その考え方では、<ひとりひとり>は生かせない。文学の読みは、方向差を是正し、個人差を大切にする読みでなければならない。 文教研では、<ひとりひとり>を生かすと同時に、それがその<ひとりひとり>の自己変革に結びついていくような読みの方法≪印象の追跡としての総合読み≫を提唱している。 二 印象の追跡 印象(文学作品の場合は、概念に支えられた、イメージの造型・客観化としての形象的反映像)とは、刺激に対する全人格的な反応・反射・反映のことである。直接、あるいは間接に体験し蓄積された、全人格的な事物の反映が根底にあっての反応・反映である。そういう印象から読みは始まる。白紙の立場で作品と向い合うわけではない。 ところで、その印象は文章全体を、あるいは作品全体を読み通した後、初めて湧き起こる、というようなものではない。それは、次のような過程を繰り返す。
読みとは、そういう営みであり、児童・生徒のひとりひとりの個性が生きていてこそ、真の読みといえる。印象の追跡としての総合読みは、右のような読みの方法をいう。 三 総合読みの前提条件 ところで、そうした総合読みを保障するには、前提条件が必要である。その第一は、文体のある文章・作品でなければならない、ということである。 それは、まず教師その人が感動した作品でなければならない。そして、その感動を子どもたちと分ちあいたい、という衝動にかりたてられるような作品でなければならない。少なくとも、理想像としては、そのような作品であることが要求される。与えられた教科書の教材を、それが「与えられたもの」であるということだけで、また、それが指導書に示されたものであるという理由だけで、その手順で授業を組んだのでは<ひとりひとり>は生かされない。それが生かしようがないということは、何年か(一年でも二年でもいい)教師をした者なら、誰しももっている実感ではないだろうか。 次に強調したいことは、教材化作品は、子どもの発達に即し発達を促すような作品でなければならない、ということである。つまり、目の前の子どもたちに、追跡するねうち のある印象を喚起する作品でなければならない。それなしに、いくら指導手順や指導技術を工夫してみても、ひとりひとりの個性は生かせない。というより、子どもたちは育たない。 第二の条件は、どんなにすぐれた作品でも、それがいい作品だからそれを読ませるという一本勝負方式では、文学教育は実現しないということである。私たちのいう総合読み は体験の蓄積とその質が前提条件になる。次項で述べるアンデルセンの『皇帝の新しい着物』(岩波少年文庫・『アンデルセン童話集』大畑末吉訳)を、中学年で教材化するには、次のような読みの訓練が低学年で欠かせない。 たとえば『おおきなかぶ』(ロシア民話・内田莉莎子訳・福音館)である。この作品は、子どもたちに有無をいわさずに作品の世界に引き込む。そして、おじいさんやおばあさんと一緒に行動する。このような作品を、教師は教材群として用意し、体系的に与えていくことが要請される。そうした子供なりの虚構の世界で行動させることで、豊かな感情の素地を培っておく必要がある。 そして、さらに、『マーシャとくま』(同)や『スーホの白い馬』(モンゴル民話・大塚勇三再話・福音館)のような作品群を教材化することで、物語の中にはいり込むと同時に、もう一度、作品の外側から見つめ直す。つまり登場人物の行為を、その原因や動機と結果との関係・関連で見つめ直すという訓練を、印象の追跡という形で積み重ねておく必要がある。そうしたうえにたってはじめて『皇帝の新しい着物』の教材化が可能になる。いうなら、教材体系の自主編成が、前提条件になるということである。 四 『皇帝の新しい着物』に即して ここで取りあげるのは、いうまでもなく、前記、岩波少年文庫の『皇帝の新しい着物』である。この作品は『はだかの王様』として、日本の子どもにも親しまれている。教科書に掲載されている『はだかの王様』をはじめ、おそらく何十という訳(?)が流布していると思われる ところで、この作品を読むうえで、最低、次のようなことを知っておく必要がある。子どもたちに話す、話さないは別として、教師その人の表現理解に方向差がないかどうか、反省するためにである。 その第一点は、この作品が発表されたのは、一八三七年デンマークの専制王制下であった。そして、その一二年後の、一八四九年にこの国は、立憲王制になっている、という史実である。つまり、アンデルセンは、十何年か後のデンマークを先どりした形で、この作品を形象化している、ということである。 第二点は、この作品も、アンデルセンがこよなく愛し、期待をかけていたデンマークの子どもたちへの、クリスマス・プレゼントであった、ということである。そして、この作品、おとなが媒介して子どもたちに与えていたと考えられる事実である。そういう意味では、おとなもまたこの作品の読者であったといえよう。それは、次のようなことから想像できる。「毎年クリスマスにはアネルセン童話集は各家庭で、クリスマス・ツリーとともに人々に待たれた」(世界大百科事典)や「今度の話の深い意味はおとなにしか理解できないかもしれないと思ったが、子どもでもこの話はよろこんで聞いてくれるだろう」(一八三七年版緒言・大畑末吉訳)などからである。 以下、スペースの許す限り、指導過程を冒頭の部分から順次、具体的に述べることにする。 題名『皇帝の新しい着物』 子供たちのほとんどが『はだかの王様』といえば知っている。が『皇帝の新しい着物』という題名では知られていない。しかし、この場合「王様」と「皇帝」とでは、決定的な違いがある。というのは、先に述べたようにこの作品は、デンマークの専制王制下に書かれている。王さまを批判することは許されなかった、いわば舌をしばられた表現だからである。つまり、アンデルセンは、自分の国ではない帝政国家に素材を求めたかっこうで、実は、デンマークのことを語っている。それも、未来を先どりした虚構においてである。もちろん、目の前の子どもたちには「王様」と「皇帝」の違いはわからない。けれども、成長した目で読み返すときのために、原題は「皇帝」であるということを、はっきり意識させておきたい。文教研では、もう一度中学校後期で教材化することを考えている。が、たとえ教材化する機会はなくても、自分の子どもに読んで聞かせる日が、やがてはやってくる。そのとき、場面規定をおさえて読み返すための足がかりとしてである。 読みの構えをつくる――冒頭の部分の読み―― 総合読みは、冒頭の部分を特に大事にする。その作品の顔にあたる部分だからである。冒頭の部分をどう読むかで、その後の読みの構えが決まる。 ところで、この作品は「何年もまえのころ……」という書きだしで始まる。ここでは子どもたちに「むかし、むかし」で始まる物語との対比で考えさせる。「何年もまえのこと」のほうは、ほんとうにどこかの国であったことのような書きだしである。「王様」を「皇帝」としたアンデルセンの発想が、ここでも生かされている。この発想を大事にし、子どもたちを物語の中へひきいれる。 ところで、この皇帝は「美しい新しい着物が、それはそれはおすきで、持っているお金はみんな着物につかってしまう」のである。女の子の中には「わあ、いいわ。わたしも……」と、うらやましがる子もでてくる。方向的に狂った表現理解である。が、この段階ではやむをえない。次に続くセンテンス「一時間ごとに、着がえをなさる……」と読みすすめて、ふり返って見る。ここでは、その一時間ごとに を「国語の時間にはこれを着、算数の時間にはこれ……」と具体的に考えさせることで、この皇帝の異常さに気づかせる。 それに続く「よく、よその国で、王さまは会議にお出ましです、と言うところをこの国では、いつも『皇帝は衣裳部屋にいらっしゃいます。』というのでした。」で、第一形式段落は終わる。ここまで読みすすめて立ち止まる。そして、さらにもう一度ふり返って考えあう。先の女の子の最初の印象も、こうした場面の中で考え直すことで変わってくる。 なお、ここまでで問題にしておきたいことが、まだ二つある。その一つは、皇帝に対する言葉づかいがていねいすぎる、ということである。喜劇精神の文学であることの予告といえよう。ていねいであればあるほど、読者には「おせじかな?」という疑問がわいてくるような訳文の表現になっている。そうしたつかみ直しをすることで、子どもたちはめいめい、物語の展開を予測し直す。いま一つは、外国との対比でこの国の皇帝が描かれている、ということである。ここで、たとえば「この国には会議がなかったのだろうか?」という発問をしておきたい。この発問は、先を読む視点を準備することになる。が、それ以上に育った目で読み返すときのための伏線としてである。外国との対比で描くことで、この作品のスケールが大きくなっていると同時に、この国の姿をより鮮明に描きだしているからである。 「うそつき」との対比で「皇帝」を 次に登場するのが「うそつき」である。子どもたちは、「うそつき」という言葉に対する先入見から「ずるい奴」とか「悪い奴」という印象をもつ。たしかにこのふたりは皇帝はもちろん、この国の民衆をもだます可能性をもっている。しかし、この印象は一面的である。皇帝をだます、計算しつくされた手口はみごとである。子どもたちの言葉でいうなら「皇帝のことを研究している、知恵のある奴」である。それを逆にいうなら、この皇帝は、ふたりにだまされる程の人間でしかない、ということが明らかになる。こうした「皇帝」と「うそつき」の別の側面に気づかせることで、子どもたちはそれぞれ、今までとは違った予測や期待をもつ。そして、それをささえに次を読みすすめる。
五 おわりに 文教研の提唱する≪印象の追跡としての総合読み≫を、冒頭の部分に限ってだが、述べたつもりである。が、きわめて不十分なものになってしまった。この考え方については、文学教育研究者集団著『文学教育の構造化』(三省堂)に詳しく述べてある。特に『皇帝の新しい着物』についてはスペースをさいてあるので参照していただきたい。また、文教研常任委員・国立音楽大学教授熊谷孝の近著『芸術の論理』(三省堂)に≪創造の担い手としての鑑賞者≫という新しい発想が提起されている。このテーマと直結する内容だが、この稿にふくみきれなかった。ぜひあわせて参照していただきたい。
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