波多野理論の新しい展開と芸術教育 荒川有史 (『文学と教育』23 1962.3) |
はじめに 波多野完治先生の『ラジオ・テレビ教育心理学入門』は、NHKで、一九六〇年三月から四月にかけて行われた連続放送をまとめられたものである。 ラジオやテレビが、「エレトロニクス、電子科学というものを媒介としたところの新しい芸術である」(頁233)という視点から、視聴覚的方法がこんにちの教育のなかでしめている役割を、各分野にわたって追及しておられる。 さいしょ、本書に対し、わたしたちのあいだでは二つの相反する評価があった。 否定的な評価は、本書が座談会形式をとっている事情に影響されて、一本筋のとおた主張を発見できない所から生まれた。ごくあたりまえの常識をたゞサラリと流しものではないかと、波多野教授の主体性を疑問視するものであった。 肯定的な評価は、本書と『第二信号系理論と国語教育』(明治図書出版KK)との比較から生まれた。後者では、文学教育の原理・方法が感性的認識から理性的認識へという方式だけで処理されがちであったのに、本書では、芸術的認識特有の機能が分析され、二つの反映の仕方のちがいやむすびつきが明らかにされている。この新しい展開に対する共感と支持が、きわめて肯定的な評価としてあらわれたのである。 討議を重ねるなかで、相反する評価のミゾは肯定を軸としてうめられてきたが、同時に、“映像”概念の規定の仕方などに、共通な批判意見も出てきた。 ここでは、まず、本書の特色をひとつひとつ整理し確認しながら、問題をひろっていこう。 まるごとの認識について 本書の第一の特色は、客観世界の抽象に二つの仕方があることを、多角的に論証している点であろう。 一つは、概念による一本道の抽象であり、もう一つは、“まるごとの認識”にもとづく抽象の仕方である。従来は、感性的認識から理性的認識へと、それこそ一本道の抽象しか考えられなかった。芸術の認識とか典型の認識とか、あるいは映像による認識などというものは、科学的認識の飾り物であり、せいぜいやさしく、わかりやすく、感動的に言いなおしたものにすぎなかった。 どちらかといえば、右のような考え方を展開してこられた波多野先生が、本書において、映像とは「ことばのまわりにくっついた砂糖」でも「飾り物」でもない(頁24)、と強調しておられるのは注目にあたいする。たとえば、迫力のように、「映像としてでなければ伝えられない」(頁26)もの、「ことばではできない体験」(頁29)などが、そこではとりあげられている。 また、芸術的感動の原始性とか、直接性とか、ヴァイタリティーといった説明しにくいものを説明するきっかけも提出されている。つまり、映像には、人々を「行動へかりたてる」(頁41)、人々に「行動的な姿勢をとらす」(頁42)性質があるのだ。と同時に、まるごとの世界の多様さを多様なままにつかむにも「内面から表現する操作を加える」(頁41)という受け手の積極的な姿勢が必要だ。だから、映像による認識は、理性的な認識を深める道にもつながっていく。 本書の第二の特色は、“まるごとの認識”という新しい提唱を、たんなる原理論にとどめず、具体的な教育場面に生かしている点である。芸術と科学の側面から見ていこう。 芸術教育と映像 芸術教育全体につながる問題として、音楽教育の二つの偏向が指摘されている。 理性主義的偏向と感性的偏向・感覚主義的偏向である。 理性主義的偏向というのは、芸術形式でなければ訴えることのできない基本的な側面のあることを無視して、すべてコトバにおきかえてしまうやり方である。イデオロギーをひきだしてくることと芸術作品を準体験することをごっちゃにしたり、道徳的解釈をほどこしたりして安心してしまう。こういう学習にかぎって、教師の主観をおしつけることが多いという。 たとえば、ある音楽を聞いても、子ども一人一人の感動がみなちがう。そのとき、教師がさいしょに“悲しい”曲だと強調し断定してしまうと、“さびしい”曲だと理解した子どもは感情のコンフリクトを生じて劣等感をいだいてしまう、という批判は傾聴にあたいする。風国が秋の夕暮の晩鐘を聞いたとき、さびしくない感情を体験して発句をつくったら、それはたんなる私事であると断言した去来を思いだす。 芸術表現の多義性を理解しない指導は、低学年では、コトバの学習にまで重大な悪影響を及ぼすという。つまり、子どもたちは“さびしい”という感情体験を、教師が“悲しい”と概括したために、事物とコトバを正しく対応させて理解することができなくなってしまうのだ。 こうした理性主義は、芸術形式をたんなる知識として注入するばあいにもみられる。音楽を体ごとアーティキュレートできないような状況で、いくらリズム形式を教えてもむだであろう。 理性主義の裏返しともいうべき感性主義・感覚主義も問題である。芸術の楽しさを忘れたような表現理解はナンセンスだが、あらゆる性質の感動状態に子どもたちをなげだすのも、教育の放棄につながる。藤村や紅葉を、啄木や芥川をも、太宰や野間宏も、柴田錬三郎や海音寺潮五郎の世界も、みな一様におもしろいという子は、たぶん感情体験の形式をどっかで間違えたのであろう。 芸術の多義性に対するふくらみのある理解を欠いたばあい、国語教育としての文学教育においては、読解指導ないし段落指導というバラバラ事件となってあらわれる。 芸術を時間・空間のワクで整理していくと、文学は時間芸術に入れられる。が、時間芸術だからといって、過去をはらまぬ現在も、未来へのめばえをもたぬ現在も、存在しないからである。 「福翁自伝」のなかで、諭吉がアメリカに行ったとき、ワシントンの子孫いかんと質問しておどろく場面がある。たしかどっかで結婚して生活しているはずだが、という問題にしない解答だったからである。しかし、そのおどろきも、寒風のもとで渡河を待っているとき、あとからきた葵のご紋の武士に舟を横どりされたまま何時間も待たねばならぬ日本の国情、徳川家康の子孫というだけで無制限の権利を行使できた葵の体制への諭吉の憎悪・批判をふまえずには、正しく理解することができない。まるごとの世界として提供されている文学作品を、側面分析することは可能でも、分割することはできないはずである。 科学教育と映像 『ラジオ・テレビ教育心理学入門』を読んだ人なら、だれでも理科番組のミクロの世界・微速度の世界の描写にひきつけられたにちがいない。たとえば、開花現象は一瞬のうちに行われるわけだが、「目に見えないものを拡大して見せてくれる」(頁97)ことで、事物の運動を芸術的感動のなかで理解することができる。開花までの“月”“日”によって表現される時間は凝縮され、開花直前の“秒”によって表現される時間は拡大されて、だれの目にも事柄の本質が印象づけられるのである。開花現象のクローズアップによって生命の秘密もときほぐされていく。 理科番組と同様なことが、ニュース番組でも言われている。そこでは、事実をとおして、まず真実が追究される。そのために。ルポルタージュ形式は「現地の現場的なふん囲気」を「現地にあるよりも圧縮された形」で、「生命の凝縮」(頁178)ともいうべきかたちでつたえてくれる。 ふつうなら雑音として聞きながされがちな「ピーピー」も、月世界到着時の電源として位置づけられると、歴史的でかつ感動的な意味をもってくるのと、共通な事情がある。 このように、カオスの世界が、拡大・凝縮の手続きをへて映像化され、まるごとの世界として再提出されるとき、科学精神は「理屈にエネルギーの入った精神」(頁95)として深まり発展するのである。 映像の成立をその機能 右にみてきたように、波多野理論の新しい展開は、“映像”概念の導入によってもたらされたものである。したがって、この理論のある部分に不満やくいたりなさを感じるばあいにも“映像”概念の再検討から出発することが必要になってくる。 波多野先生は、第一章「学習における映像の位置」のなかで、“客観的映像”と“主観的映像”という分類をしておられる。 客観的映像というのは、映画のフィルムなどのように「コミュニケーションの媒体としての像」(頁21)をさす。 主観的映像というのは、ふつう、“イメージ”というコトバで言われているように、人々の意識に反映された世界像ないし現実像をさすらしい。 一見もっともな分類であるが、はたして媒体に映像がとじこめられているのだろうか。フィルムのもつ物理的化学的性質が媒体としての機能をはたすのは、送り手と受け手とのあいだに共やくする体験が成りたつときである。波多野先生が、名著『ことばと文章の心理学』(新潮文庫)や『心理学と教育』(牧書店)で分析されているように、“水”というコトバ一つにしても、それがどういう場面で発せられたかで意味がちがってくる。砂漠の隊商が泉を発見したばあい、あるいはあと一日すれば泉に着くぞというばあい、それぞれちがうのである。目前に泉があるときは「さあ飲もう」となるだろうし、あと一日すればという状況のもとでは、「さあガンバレ」というはげましになるだろう。 このように、同一の条件刺激が場面によって異なった意味体験・象徴体験を成立させるのである。 熊谷孝先生は、文教研例会席上などで、男の子が女の子にふられた話をたとえとして、サインとシンボルとの関係を説明されることがある。 ……ある男の子が、ピアノの好きなガール・フレンドにお誕生日のお祝いをおくった。そのおくりものはベートーベンのデスマスクだったという。すると彼女はカンカンになっておこり、さっそく電話で絶交を申しおくってきた。きっとよろこんでもらえると思っていた男の子はびっくりしてしまった。デスマスクがベートーベンであることについては、一致した理解が成りたった。がそのデスマスクが何を意味するかとなると、送り内容と受け内容とは完全にちがってしまったのだ。男の子がふだんからシニカルな性格を発揮しているため、彼女にとっては、ベートーベンはつんぼであり、したがっておまえのピアノは聞くにたえない、という送り内容になってしまった。もしボーイフレンドが、くそまじめな人間であるなら、ベートーベンがつんぼであったという事実を知っていても、その知識は受け内容を左右するキイ・ポイントとしては働かず、彼女の偉大な演奏に対する讃美のシンボルとして受けとったにちがいない。というのが、熊谷先生の理論である。 したがって、わたしたちは、送り手と受け手との存在する場面をはなれて、イメージの成立を考えることはできない。条件刺激の媒体が第二信号系に一つのシンボルを成りたたせたときに、はじめて映像も映像として成立するのである。 波多野先生が『コトバと文章の心理学』の著者であること、また第二章以下では“客観的映像”の概念が姿をひそめていることなどから判断すると、二つの映像論は、「波多野名投手によるホームランコースの不覚の失投」としか考えようがあるまい。 しかし、失投を成りたたせた条件は、第二章以下の試合はこびにも案外影響しているようである。 たとえば、二つの抽象を新しく提唱しておられながら、一方では「ことばにかえようと思うとできないというのは、結局子どもの認識がいわゆる感性的な段階にとどまっていて、理性的な認識に十分転化しないかあらだ」(頁123)とか、「感性的な基礎を徹底的にやっておくから音楽が伸びていく」(頁161)とか、「感性的な基礎というものがしっかりしていると、いつでもそれは理性的なものに転化できるし、理性的なものをつかんでもすぐに感性的なものからやり直していくことはできる」(頁213)といった、例の感性から理性への段階コースをくりかえし主張しておられる。 が、客観世界の二つの反映を問題にされるかぎり、それが感性から理性へというコースと、どんな関係にあるのか明確にする必要がある。 また、まるごとの認識が概念による認識のたんなるかざりでなく、それとしておきかえることのできない独自の認識であるとすれば、理性的認識の二つのタイプとして整理していく必要はないだろうか。同一刺激に対してちがった性質の感動が成立する。このことから、感動をささえるものはたんに感性的基礎とよばれるものでなく、感情体験である理性的体験であるといえないだろうか。 まるごとの認識を理性的なものとしてとらえることは、芸術の多義性を生かす教育を、無政府主義・相対主義の泥沼からすくう唯一の保障でもある。 熊谷先生の発言にみられる ……感動する、しないというより、感動の質の問題だと思います。前に先生が芸術の特長が多義性ということにあるとおっしゃっていました。だが、単に芸術は多義的だというおさえ方でなしに、その方向的な違い、それから個人差という違い、その二つをはっきり分けておさえていかなくてはいけないのではないか。これは指導上の問題としてもそうだと思うが、教師が聴取指導する場合に、生徒の表現理解に方向的なズレがあるのに野放しにする。これでは教育放棄だと思う。また個人差をならして鑑賞を平均化していくという指導だと、これは指導しない方がいい、むしろ聞かせっ放しがいい。こういう問題につながってくると思います。(頁84-5)という重要な指摘も、まるごとの認識が理性的なものであるという視点でこそ生きてくるのではなかろうか。“理性的感性”(頁235)という整理では弱すぎる。“理性的感性”こそ芸術の認識をささえる“感情”であり、“理性的理性”(?)ともいうべきものが、科学の認識をささえる知性ではあるまいか。理性こそ両者をつらぬき、かつ統一しているのではなかろうか。 さいごに、教育におけるラジオ・テレビの革命的な意義を解明された波多野先生に、わたしたちのサークルにある切実なねがいをつけくわえておきたい。 それは、マス・コミを今だれがにぎっており、そのために迫力のある訴え方が国民の精神形成にどんな影響を与えているかという点にまで言及してほしいというねがいである。訴え方に迫力があればあるだけ、その送り内容の質に、魂の技師たろうとするわたしたちは深い関心をもたざるをえないからである。 以上は、鈴木勝さんの報告と、三回にわたる文教研の討議をもとに荒川がまとめたものです。論理の要約や展開についてのミスは、わたしのものです。 |
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