「読者論」の吟味  
読者論ノート――W.イーザー著『行為としての読書』の批判的検討 (2)
井筒 満

1991.11 文教研機関誌 「文学と教育」157)
   


  「日本語版への序文」をめぐって(1)

 前号の最後の部分と重複するが、「読者論」をめぐる著作の略年表を、すこし補充してまず掲げておくことにしよう。

 一九三四 『経験としての芸術』(ジョン・デューイ/米)
 一九四八 『文学とは何か』 (ジャン・ポール・サルトル/仏)
 一九五八 『芸術の諸問題』 (スザンヌ・ランガー/米)
 一九六三 『芸術とことば」 (熊谷孝/日本)
 一九六七 『言語観・文学観と国語教育』 (熊谷孝)
 一九七〇 『挑発としての文学史』 (ハンス・ロベルト・ヤウ ス/西独)
        『S/Z』 (ロラン・バルト/仏)
        『文体づくりの国語教育』 (熊谷孝)
 一九七一 『現代文学にみる日本人の自画像』 (熊谷孝)
 一九七三 『テキストの快楽』 (ロラン・バルト)
        『社会−文学−読者』 (ナウマン他/東独)
        『芸術の論理』 (熊谷孝)
 一九七六 『行為としての読書』 (ヴォルフガング・イーザー/旧西独)
 一九七八 『井伏鱒二』 (熊谷孝)
 一九七九 『太宰治』 (初版 熊谷孝)
 一九八二 『行為としての読書」 (日本語版 轡田収訳)

 右の略年表を念頭におきなから、「日本語版への序文」を読んでみよう。
 イーザーは、「受容美学」の課題について次のように書 いている。
 「厳密な意味での『受容』は、テクスト加工の記録という現象に目を留め、もっぱら、テクスト受容の条件となる読者の思考態度ないし反応を伝える証言を研究対象とする。だがテクストそのものは、同時に〈受容の予示〉を行っており、それゆえ潜在的な作用力があり、この諸構造がテクスト加工をひき起こし、またある程度まで加工を左右して いる。」
 「それゆえ、作用と受容とは、受容美学研究の基本的な出発点であり、目標設定に応じて、歴史的・社会学的な―― 受容にかかわる――方法をとるか、テクスト理論的な――作用にかかわる――方法をとるかが決まる。そこで、真の意味での受容美学は、この二種の異なった目標設定を相互に斟酌し統合した研究と理解することができる。」
 「受容」と「作用」との二側面から文学を研究することが、イーザーの「受容美学」の課題なのだ。だが、問題なのは、前号でも何回か指摘したように、イーザー理論は、「受容」と「作用」の相互関係を真に統一的に把握しているのかどうかということである。「歴史的・社会学的な方法」と「テクスト理論的な方法」という二分法にイーザーは立っている。だがこれでいく限り、「テクストの作用」にとって、歴史社会性はしょせん外側のものでしかない。文学の社会性はみとめても、それとは別に文学固有のものがあるという主張や、個人は社会的存在だが、それとは区別される固有のものが個人の内面にあるという主張とイーザーの見解は似ている。
 文学の社会性とは、文学独自の社会性ということであり、個人の社会性というのも、個人の内面自体が社会的に組織されているということなのだ。つまり、歴史社会性は、人間――文学にとって、単に外側の存在ではなく、その内側を貫いているわけである。だから、「テクストの作用」は作用の独自性そのものを規定している歴史社会性を追究することなしには明らかにできないはずなのだ。
 イーザーは、この著作の中で、「テクストの作用」における「歴史的な特殊性」に言及している。この点については後でまたふれるつもりだ。が、とりあえずここで言っておきたいことは、イーザーは、歴史社会性を切り捨てた、超越論的モデルである「内包された読者というテクスト構造」をあくまで前提とし、その中に「歴史的な特殊性」を 挿入しているということである。コップと水という比喩は単純すぎるけれど、「内包された読者」と 「歴史的な特殊性」との関係は、それと似たものを思わせる。
 次のR.C.ホルプの批判は、こうしたイーザーの問題点を鋭くついている。
 「歴史的パースペクティヴは、中身のない構造を埋める単なる内容物を装って、あとから付け加えることのできるものではない。それは、システムの概念装置そのものに組み込まれていなければならないのだ。」(『空白を読む』鈴木聡訳)
 だが、「歴史的パースペクティヴ」そのものが組み込まれている「概念装置」とはどのようなものなのかについては、ホルプは明確にふれていないようである。
 ところで、前に掲げた略年表を読めば明らかなように、『行為としての読書』とほぼ同時期に、熊谷孝氏の『芸術 の論理』が刊行されている。「歴史的・社会学的な方法」と「テクスト理論的方法」の二分法にたつイーザーに対して、熊谷氏は、「創造と鑑賞との統一的視点」から、文学 (文学史)の独自性を解明している。熊谷孝『芸術の論理』(三省堂、1973年刊)
 「文学史は、そのそれぞれの文体(=文体的発想)においてのみ人間的感動が保障されえた人間の現実認識の歴史、人間の精神生活の歴史のことである」
 「その作品を文学史に位置づけて考えるということは、その作品形象の文章表現を文体という一点において歴史社会的につかみとろうとすること以外ではない」
 「歴史社会的につかむ、云々。「歴史社会的な場面規定においてつかむ、という意味である。作品のその文章をそれがまさに人間の行為・行動の代理として用いられたその行動場面に還元して、その文章そのものについて思索する、という意味である。言い換えれば、@作品の文章が媒介する、その社会をある生きかたで生きたその人間主体の現実把握の発想のしかたをつかみ、また、Aそうした発想法をつかみ取ることで、そうした発想において把握された現実の姿、現実の問題を、わたしたちが歴史のパースペク ティヴ(遠近法)において主体的につかみ直す、という、そういうことなのである。」
 「文学史とは、このようにして、準体験的な、つまりは主体的なつかみ直しの作業にほかならない」のだから、それを可能にするためには、次のようなリサーチが必要になってくる。」
 「@その行動場面(生活場面)において実践する人間主体、実践する社会的人間集団がその文章に託して訴え、その文章を通して思索したものは何であったか。Aその文章その文体を通してでなければ実現できなかった彼らの対現実的な発想のしかたは、どのようなものであるか。Bそのような歴史の個性としての発想・文体をそこにもたらしたまさに歴史社会的な必然性は何なのか。」
 「したがって、また、文学史的な、作品のリサーチとは、その作品の文体・発想を、それに先行しそれと時期を同じうするもろもろの作品の文体・発想と対比し、またそれに続くもろもろの作品の文体・発想と対比しつつ、必然的、必至的なその作品の文体的個性を見きわめる、ということでもあるわけだ。」イーザーは、文学に関して、「作用」と「受容」という二側面を指摘していた。だが、熊谷氏は、この引用からもわかるように、「文体刺激」と「文体反応」との関係として、この問題をはるかにダイナミックに解明 しているのである。
 「作用」というが、それは本当は「文体刺激」としての「作用」ということであるはずだ。そして、その文体刺激は、読者が、歴史社会的な場面規定において、文章そのものについて思索する過程の中でのみ、ダイナミック・イメージを読者の内面に喚起する――つまりそのような文体反応をひきおこす――文体刺激として、生起するのである。
 ところで、「歴史の個性としての発想・文体」は、歴史社会的な生活場面において「実桟する人間主体、実桟する社会的人間集団」が、その文章、その文体を通してでなければ実現できなかった思索過程(――形象的思索過程)の反映である。思索過程は、当人がどう思おうと、その人間主体の内面に反映した「私たち」の対話過程であるから(この点については前号で比較的くわしく述べた)、すぐれた文体とは、このような「私の中の私たち」――作者の内面に反映された本来の読者――相互の対話過程の軌跡であり、そのダイナミックな反映だということができる。
 したがって、こうした対話過程を、自己の主体に媒介することなしには、文体刺激と文体反応との相互関係を把握することなどできないはずである。
 イーザーの「作用――受容」概念や「内包された読者」概念の問題点は、次の熊谷氏の指摘と対比することで、さらに、明確になるだろう。
 「かくかくの人びと(読者)と、かくかくのことについて今は心おきなく、心ゆくまで語り合いたい、というところに、普遍――多くの読者に共軛する普遍――を求めての特殊の描写、すなわち、具体的な個々の形象の造型(作品の制作)ということが行われるわけだろう。(この、普遍をもとめて、というところが、手紙=私信の言表と作品の言表が違う点だ。)で、こうした形象造型の過程において聞こえてくる、読者の側からの声なき声が、作家の想念に何べんか変革をもたらしつつあり、それがやがて作品として結実していく、というわけのものだろう。」 (前掲『芸術 の論理』)
 「言い換えれば、作品を書くということは、読者・鑑賞者のそのような声なき声に耳を傾けつつ、そのような読者――それは、いわば作者の〈内なる読者〉である――へ向けて視座を用意しつつ書く、ということである。したがって、そこに設けられた〈読者の視座〉にこそ、ゆがみない作家の創造主体が反映されているはずなのである。なぜなら、作家の側から言って、自己と読者との唯一の伝え合いの通路となりうるものは、自分自身の手で用意したこの〈視座〉以外には求めえないからである。」(同)
 「このようにして、作家論は、その作品、またその作品の創造主体であるその作家について、その連続と非連続の展開が示す文学史的意義の評価を語るものにならなければならない。言い換えれば、従来の作家論・作品論において忘れられていた読者(本来の読者・内なる読者)の失権を回復するものにならなければならない。」(同)
 引用が長くなったが、この部分は『行為としての読者』を批判的に検討する上で、非常に重要な箇所である。イーザーの「内包された読者」概念と熊谷氏の「読者の視座」概念の違いは明白だろう。読者(本来の読者)との対話過程とは、読者一般との対話などでないのである。その歴史社会的場面を生きる実践主体としての作者が、「本来の読者」の声に耳をかたむけ、また、「本来の読者」を掘り起 こしつつ、作品を創造していく過程が、読者との対話過程なのである。
 また、それは同時に、「自己と読者との唯一の伝え合いの通路となりうる」「読者の視座」を創造していくという過程でもあるのだ。真の対話の相手を発見する過程と、この過程とは、別々のものではあり得ない。
 だから、「作品を内側から読むというのは、その作品本来の読者へ向けて用意されている視座を潜って、わたしたち読者がそれを読む」(前掲書)ということである。むろん、ある歴史社会的場面に生きている実践主体としての自己のあり方への問いかけをぬきにしては、「読者の視座」は明 らかにならない。自己の主体への問いかけとのかかわりの中でのみ、「読者の視座」は明らかになってくるし、本来の読者との対話過程も新たなものへと変革されていくのである。「本来の読者の鑑賞体験を、自分という読者の体験に媒介することで」「自分という読者の視座がハッキリしてくる、という形で主体の位置づけが行われる」ことになるわけである。
 イーザーの「受容美学」が「歴史的なもの」と「非歴史的なもの」との二元論に陥っているのに村し、熊谷氏の見解は、歴史の流れを貫ぬいて、文学の創造と変革を可能にしている契機を明らかにしている。「歴史の流れを貫いて」 とは、「歴史社会性とかかわりなく」ということではなく文学の創造を必然的なものとしている歴史社会的な一貫性、普遍性という意味である。このような意味での一貫性の追究によってこそ、「歴史的、普遍的な芸術概念・文学概念を組み上げる作業」(『芸術の論理』)も可能になるのである。


  「日本語版への序文」をめぐつて(2)

 イーザーの叙述に戻ろう。イーザーは、「受容美学」の成立過程について、次のように語っている。
 「文学を対象とする学問の研究関心が、このような展開を見るに至った端緒は、一九六〇年代のドイツにおける大学の歴史状況に求められる。問題は学問史ばかりか政治にもかかわっていた。学問史的に見ると、六〇年代は、文学研究に優位を保っていた素朴な解釈学的態度に終止符を打った時期であった。」
 「(それは文学解釈の基準として)著者の意図や作品の意味ないしメッセージを求めたり、さらに美的価値を、作品が示す比喩、文飾、また多層性が織りなす調和に見るアプローチに顕著であった。こうした無邪気な解釈学的態度が迷夢から醒めるに至ったのは、現代文学に対する解釈の必要に迫られたためであった。現代文学にそのような基準をあてはめようとしても、全く効果がなく、解明のいとぐちが握めないか、あるいはかえって混乱のもとにしかならなかったのである。このような事情を控えてみると、文学に対する一見するところ自明な問いは、そのじつ歴史的に拘束されていることに思い当たる状況が出現した。」
 六〇年代における西ドイツと日本の読者論の展開を比較検討してみることが本当は必要なのだろうが、ここでは、 @「著者の意図」=文学作品の内容と考える「無邪気な解釈学的な態度」の批判・克服をイーザーが目指していること、また、A「現代文学の解釈の必要」に迫られて受容美学の探究が始まったこと、B文学への問いは歴史性をもつという自覚と受容美学は結びついていること、この三点をまず確認しておこう。
 @は、これだけとりだせば妥当な見解だが、作者による作品の創造過程が、内なる読者との対話過程――そうした対話による自己の表現の鑑賞過程――に基づいていることをイーザーが見逃しているため、様々な問題が生じているのである。(この点については今後、何回もふれる機会があるだろう。)
 またAについては、イーザーにとって文学(現代文学)であるもの、イーザーにとっての「私の文学」とは何かが問われなければならない。イーザーの鑑賞体験のあり様がイーザー理論に反映し、それを制約しているからである。 また、それは、イーザーにとっての現代とは何かを問うことにもなるだろう。
 Bは、Aと密接に関連している問題だ。イーザーは、自己の主体と自己の理論の歴史社会的性格をどう位置づけようとしているのか。また、それは、客観的にはどのように位置づけられるべきものなのか。
 この問題も「行為としての読書」全体をとおして検討しなければならないが、「序文」の次のような叙述は、この 問題に対するある見通しを与えてくれる。
 「このような変革は、一つには 『近代』の経験、いま一 つは〈学生の反乱〉に求められる。近代〔特にアヴアンギャ ルト〕は、古典芸術の主軸となっていた〈調和〉、〈宥和〉、〈対立の解消〉、〈完結性〉に対し、ことごとく否認宣言を表明している。そのため、近代文学の基本傾向である否定性は、社会的行動から日常の知覚に及んで、われわれのものの見方を支配している慣習を絶えず攻撃の的に している。従って、近代芸術に触れると、必ずわれわれに向かってくるものがある。そして、なぜそのような反省を迫られるのかという問いを絶えず突きつけられる。ここに、意味を求めるのではなく、作用を質す問いへの移行が起きざるをえなかった理由がある。」
 「近代文学の基本傾向である否定性」が、「意味を求めるのではなく、作用を質す問いへの移行」を必然的なものにしたとイーザーは言う。だが、その場合の「近代」あるいは「近代の否定性」とは、いったい何であるのかが問題なのだ。いったいこの場合の否定とは、どのような主体による、どんな対象に対する、何を志向しての否定なのか。この問題についてここで全面的に論ずることはできない。だが、この著書全体を読んで私が持った印象をとりあえずここで書いておくなら、次のようなことが言えると思う。
 イーザーは、「外界を組織化している骨組みをゆるがせその有効性を問いかける」点に、文学の否定の機能の意義を見いだしている。既成の規範から自己を解放し、精神の自由を確保することが文学の果たすべき役割だと、彼は考えているわけだ。だが、イーザーの場合、どのような立場 (視点的立場)にたった、何を志向しての否定なのかという点がはっきりしない。むしろ、一定の視点的立場を確立すること自体に否定的なのではないかと思う。
 だが、既成の規範から解放された自己であっても、それはあくまで階級的・世代的な自己なのである。自己解放というのは、実は、自己を形成している「私の中の私たち」を組み換えたということである。それは言い換えれば、新しい階級的・世代的な普遍性の中の個として、自己を位置づけなおしたということである。そして、このように自己を位置づけ直し変革していく過程というのは、当然、自己が新しい視点的立場を獲得していく過程なのである。
 「否定」・「自己解放」・「自由」に関するイーザーの考え方の根底には、近代主義(自由主義・個人主義)がある。 熊谷孝氏は、『芸術の論理』の中で「近代主義的逸脱」について次のように書いている。「それは、さし当たって、全体から個へ、未分化的全体から個へ、という近代的な思考の発想が、いわば分化のしっ放しの格好のものに滑ってしまった状態のことを意味している。分化のしっ放し、されっ放しの個は、全体の中の個、全体に対する部分として位置づけられる時が永久にないという意味で孤独であり、孤立的である。このような個への分化は、いわば協業を前提としない、分業のための分業である。」イーザーの言う 「否定」や「解放」も、ここで指摘されているような「分化のしっ放し」という性格を色濃く持っているのではないかと思う。だが、「分化のしっ放し」というような「解放」は、真の解放であるのか。また、そこにおける「否定」は真の創造に結びつくような積極性を持ちうるのか。T章以 降を読み進める過程で、これらの問題は繰り返し検討されるはずである。
 イーザー理論のもつ近代主義的傾向についていま簡単にふれた。すでに明らかだと思うが、こうしたイーザー理論 に対して、ほぼ同時期に刊行された熊谷氏の著作は、近代主義の批判・克服という姿勢で貫かれている。文学の科学 (その三側面としての、文芸認識論・文学史論・文学教育論)の探究は、熊谷氏の場合、近代主義の批判・克服という課題の探究と不可分なのだ。このことがどういう意味をもつのかという点についても、今後の検討の中でさらに追究していきたいと思う。
 さてイーザーは、「受容美学」の成立過程に言及したあと、再び、「受容美学」の課題をとりあげ、次のように論 じている。
 「1 文学テクストはどの程度まで出来事として究明しうるか。2 テクストによって触発される加工は、どの程度テクストそのものに前もって構造化されているか。」
 以下イーザーは、文学がどのような意味で「出来事」であるのかについて論じていく。「文学テクストは、作家が外界にアプローチするところから生まれるが、既存の世界に対してそこには存在しない視界、あるいは遠近法を開く限り、生起性を獲得する」そして、そのような「生起性」は、文学が現実の反映ではなく現実からの「選択」であるところから生まれるとイーザーは主張する。
 次回はまずこの点に簡単にふれたうえで、T章「問題領域――文学の解釈は意味論と語用論のどちらにかかわるか」の検討に移っていこうと思う。                         (この項つづく)


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