「読者論」の吟味  
真の対話とは?
井筒 満

1990.7 文教研機関誌 「文学と教育」153)
   


 マルクス主義と対話

 上田耕一郎氏は、「ゴルバチョフ新体制に言いたい私達の試練」(「新潮45」九〇年・五月)という論文の中で、社会主義をめぐる最近の情勢にふれながら、次のように述べている。

 マルクスは、「あなたの幸福観はなんですか」という娘たちのアンケート遊びに対して、「闘うこと」と答えている。非常に単純化していうと、マルクス主義とは、人間を穢すものや抑圧するものすべてに対して勇気をもって闘うことを体系的に教えてくれる理論ともいえる。
 しかし、残念ながらソ連では、科学的社会主義というのは闘うためにではなく、出世のために覚える文献になってしまったかのようである。共産党員になって出世するためには、史的唯物論とか、ソ連共産党史とかというのを暗記しないといけない。……そういう傾向の中で、科学的社会主義という理論の一番大事な部分が見失われてきた。
 マルクス主義についての上田氏の規定に私は共感する。 人間の尊厳を穢すものに対して闘い続けるための支柱となる理論――それがマルクス主義であるはずだ。したがってそれはまた、様々な装いをこらしつつも結局は現状への適応を説く「解釈」の理論から、民衆の精神を解放する理論であるはずだ。マルクス主義は、本来、民衆相互の精神の自由を守り発展させるための理論なのだ。「あなたの幸福観は?」と問われて「闘うこと」と答えたマルクスは、精神の自由を愛し、生涯にわたってそれを貫き通した人だった。
 マルクス主義が民衆の精神を解放する理論であるというのは、言い換えれば、それが、民衆相互の真の対話を実現する理論であるということだろう。真の対話を媒介にしてこそ、民衆相互の連帯が可能になるし、精神の自由も、それぬきには獲得できない。また、マルクス主義自体もそのような対話過程と結びついてこそ発展する。マルクス主義は内在的に対話を志向する理論である。
 ところが、上田氏が指摘しているように、「現存社会主義国」では、「マルクス主義」(正確に言えばスターリン主義ということになるだろうが)は、出世のための手段となってしまった。党公認の絶対的な「解釈」の暗記――これが真の対話や精神の自由と無縁であることは言うまでも ないだろう。
 ところで、現在の日本のマスコミの中では、こうした、「マルクス主義」がマルクス主義そのものとみなされ、マルクス主義は対話とは無縁な思想であるかのように扱われる場合が多い。たとえば、今度の全国集会で扱う予定になっている「日本人を語る」(梅原猛氏と中村元氏との対談・ 朝日新聞〈朝刊〉九〇年・一月八日)の中にも次のような発言がある。
 「今一番捨て去られるべき『いかだ』は、どうも、一神教ではないか、と私は思うんですが。/一神教は、人類のある段階で出てきて、人類文明を発展させるのに非常に役立った。けれど、今のように地球が有限になって、たくさんの宗教をもっている人たちが共存していかねばならない時代になって、自分の信ずる神だけが正しく後は間違っているという一神教は都合が悪い。」(梅原氏)
 「今や人類はもとの多神教に戻ろうとしている。」(同)「一神教は、特定の宗教だけではなくて、マルキシズムやナチズムにも残っているのではないかと、パートランド ラッセルが『西洋哲学史』の中で書いている。『ユダヤ教から起こった宗教が、異宗教を排除して、やがてよき黄金時代が来る。そのためには、いかなる殺りくを行っても構わない』と。その形を変えたものがマルキシズムやナチズムにある、と、パラレルに指摘しています。」(中村氏)
 多神教は、様々な神の存在を許容する平和共存的な信仰体系であるというわけだ。私の言葉で言い直せば、多神教は、対話精神に満ちあふれた宗教(思想)だと梅原氏は言っていることになる。
 それに対して一神教は自己の神しか認めない好戦的な信仰体系である。そこにあるのは命令と服従の精神であり、マルクス主義などはその最たるものなのだ。一神教対多神教という図式によって考えると、マルクス主義=ナチズム などという結論が生まれてくるわけだ。
 梅原氏たちの議論は、多神教の体系がもつ歴史社会性・階級性には全く目を向けていないのである。むしろ、そういう点はあえてネグレクトして議論を展開していると言った方がいいだろう。そして、多神教を支柱とする世界においては、人々がお互いの個性を尊重しあい、豊かな対話が行われているというような幻想が語られているのである。
 梅原氏たちの議論を読んでいると、彼らは対話(対話する精神)をいかにも尊重している様にみえる。が、彼らの言う共存や対話は、階級的人間疎外からの解放を目指しての対話などとは全く違う。そういう対話への志向に目つぶ しをかけることが、多神教を強調する目的の一つだろう。だからこそ彼らは、この対談の中で「和」の思想や和辻哲郎の「倫理は人と人との間の学だ」などという見解をさかんに評価するのである。
 梅原氏たちの見解自体が個の抑圧の論理であり、民衆の対話を疎外する論理なのだ。が、マスコミの中ではそういう点はあまり問題にされず、「マルクス主義」(スターリン主義)とマルクス主義とが――故意にか、無知のゆえにか――混同され、マルクス主義は対話とは無縁な思想であるかのように宣伝されているのである。


 認識論としての対話論

 梅原氏たちはマルクス主義を時代遅れの思想ととらえていたが、「マルクスの認識と思考は全部生きている」といいながら、「社会主義とは、共同体から出た単独者が形成する連合だ」などという柄谷行人氏の見解にも私は賛成できない。(「インタビュー・どうなる社会主義」朝日新聞 〈朝刊〉)
 人間相互の関係を断絶と非連続の関係においてとらえているからこそ「単独者」などという概念が生まれるのだ。いったい、「単独者」相互はどのように関わり合うのだろうか。「あるのは、具体的な闘争だけだ。それがどこに至ると考えてはならない。」というのだが、こんな「闘争」では対話などはもともと必要ではないだろう。「どこに至るか」を明らかしていくためにこそ、相互の対話が必要なのだ。
 「私とは私たちである。」というのがマルクス主義の基本的な人間観だ。人間の認識・人格は、〈外なる私たち〉 とその反映としての〈内なる私たち〉との相互規定において発展する。そうした〈私たち〉相互の対話過程の深化・拡大が認識・人格の豊かな成長を保証する。ここでは、認識論と対話論とは統一的に把握されているのである。
 ところで、こうしたまっとうな方向において、マルクス主義を、心理学や文学の科学の分野において探めてきたのが、戦後の日本においては、乾孝氏と熊谷孝氏であったと思う。
 いま、戦後の日本においてと書いたが、「現存社会主義諸国」の理論家たちは、この両氏の業績に匹敵するような仕事をどれだけ行っているのだろうか。スターリン主義によって、そのような創造的探究が阻まれてきたということ があるのではないか。乾氏は、スターリンの言語学について次のように指摘している。(『人格心理学』新読書社)
 かつてスターリンは、彼の言語学への発言で、革命がおこっても基本的語彙や文法はかわらぬという点を指摘し、言語が思考の物的基礎であるといった。これが言語上部構造論の生硬な社会科学主義的理解をこえた功績は忘れるべきではないが、階級社会が命令的論理につらぬかれ、これをなくしたとき、相談の論理がみなのカとして生きるという意味では、やはり話法の階級性は認めるべきだとおもわれる。
 言語を静態的にしかつかんでいないスターリン言語学の問題点が指摘されている。ここにとどまるかぎり、人間の対話過程を明らかにすることは出来ないのだ。それに対し乾氏は、真の相談――対話が成立する条件を明らかにする。人格の中の仲間領域に「『私のなかの私たち(思考過程における相談相手)』が棲みつき、彼らと自我領域とが分節総合されるとき、『私のなか』の相談(思考)は真実に迫りうる」のだ。このような相談によって主体は、「共同の自己実現の自由を豊かに」していくのである。
 真の対話とはこうした方向性をもつ対話だろう。また、「私の中の私たち」という観点をぬきにして、対話を本当に問題にすることもできないのである。そう考えた場合、現在、日本でかなり影響カを持っているいくつかの読者論(これも対話論のひとつの形態だ)はどう評価すべきなの だろうか。最後にこの点に簡単にふれてこの稿を終えたいと思う。


 イーザーの読者論

 いくつかの読者論と書いたが、ここでとりあげるのは、 『行為としての読書』(W.イーザー著 轡田収訳 岩波現代選書)である。「テクストと読者の相互作用」を話題にしながら、イーザーは次のように言う。
 文学作品によってひき起こされる作用や受容を解明しようというのであれば、読者の性格とか歴史的な立場に対する一切の予断をもたずに、読者概念を導入しなければならない。そこで、適切な名称として「内包された読者」の概念を用いることにしよう。これは、文学作品の作用にとって必要なあらゆる前提条件を具象化したものである。こうした前提条件は、経済的な外界の現実に拘束されておらず、テクストそのものが内包している。従って、概念としての「内包された読者」は、テクトス構造に組み込まれている。つまり、これは構成概念であって、決して現実の読者との同定を目的としていない。…略…
 内包された読者の概念は、受容者の存在を予期しているテクスト構造にかかわり、受容者そのものを限定することはない。この概念は、どの受容者も演じることになる投割の構図を示している。
 イーザーにおける「内包された読者」とは、テクストにあらかじめ内具されている「役割の構図」なのであり、それは歴史社会的な規定を切り捨てたところに成り立つ「作品の構造」なのだ。ここで、作者は、一方的に「役割を与える人」であり、読者は、それを受け入れればいいのだ。「テクストと読者との相互作用」を言いながら、イーザー のそれは自己完結的であり、文学的なコミュニケーショ ンの過程的構造を解明しえていない。それに対して、次の熊谷孝氏の指摘はこの点を見事に解明している。熊谷氏の見解と対比することで、イーザーのような近代主義(自由主義)的読者論の限界も明らかになると思う。
 文学は、作家が自己を語るカタルシスの場ではない。作家はむしろ、読者大衆のあいだに分け入って、もろもろのその生活の実感、その感情、その件験を自己に媒介しつつ、それに「ことば」を与え、思想にくみあげ、それを読者(本来の読者)に向けて返していく。また、そのことで、読者相互を媒介しつつ、そこに相互の体験の交換・交流のための伝えあいの場を用意する。つまりは、その点に作家の任務と役割があるわけだろう。
 だからして、読者がその作品の鑑賞過程において出会うのは、作者その人であるよりは、その作者によって媒介された、もろもろの読者である。(『岐路に立つ国語教育』)
 熊谷氏の指摘と比較してみると、イーザーの読者論が、「作家の任務と投割」を明確に把握していないことがはっきりする。作家は、「読者相互を媒介しつつ、そこに相互の体験・交流のための伝えあいの場を用意する」という媒介者としての創造的な役割を果たしているのである。作品とは、そのような読者相互の伝えあいを保証する媒体なのだ。「作者によって媒介された、もろもろの読者」の出会いの場、相互変革をもたらす出会いの場としての作品―― そうした視点がイーザーの読者論にはないのだ。


HOME「読者論」の吟味次へ