文学教育よもやま話 8     福田隆義       

 教科書採択の「今昔」   【「文学と教育」№198(2003.11刊)掲載】         

はじめに
 「今昔の感」とは、こういうことをいうのだろう。昔といっても、わずか五十何年か前のことである。私は戦後まもない一九四七年、田舎の小学校教師になった。一九五一年上京、小学校に就職。それからの教職三十年を、教科書採択という視点から記憶をたどってみたい。わずか三十年の間に今昔の感がある。


教料書が選べた時期
 私にも二十歳代があった。若さだけがとりえだった、というとかっこよく聞こえる。が、敗戦直後でくたびれた若さだった。それに、ちゃんとした見識があったわけではない。なにしろ、戦中・戦後のどさくさまぎれに、師範学校を卒業した。いわば粗製乱造教師である。民主主義のなんたるかも知らずに、教員免許証をもらってしまった。大学で勉強し、素養を培ってきた今の若い教師とは、比べようがない、お粗末な教師だった。そのお粗末ぶりは、話にならない。
 ところで、小学校国語教科書でいうなら、戦前はもちろん、国定の「サクラ読本」で育った。戦後は、最後の国定「よい子読本」いつしょに教師としてスタートした。教科書は国定に決まっていると思っていた。国が編集する一律のものだと思いこんでいた。それが、戦後は検定制になり、民間出版社の検定に合格した教科書の中から、自由に選んで使っていいというから驚いた。教育の民主化は、こういうことから始まるのかと思ったものだ。
 一九四九年に、検定教科書の使用が始まった。そのころ何度か展示会に出かけているはずである。が、それがいつであったか、どこであったか思いだせない。あるいは、こんがらがって記憶していることもありそうだ。
 展示会場に行ってびっくりした。何社もの教科書があった。今の六社のほかに、二葉という出版社の本があった。中教出版・大日本図書から出版した教科書もあったと記憶する。信濃教育出版からだした、地方色の豊かなものもあった。文部省編集の教科書が、それらのなかに混じっていて不思議な気がした。とにかくたくさんの教科書が、特色を競っていた。それらの中から、担任する子どもたちに、いちばん適していると思う教科書を、選んでいいというのだから嬉しい。自分の責任で選ぶことができるのが、何より嬉しかった。一校で複数の教科書を採用することも可能だった。五年生と六年生が、違う出版社の教科書を採択してもよかった。いきおい、真剣にならざるをえなかった。責任をもたされることの嬉しさと恐さに、迷いにまよったことを覚えている。
 ほんとうに自分の責任で、自由に教科書を選んだといえるのは、この一時期だけだった。
 つぎに印象に残っているのは、たぶん、一九五八年「学習指導要領」の改定にともなう、新規改定本の展示会だったと思う。そのときは、もう様子が変わっていた。検定が強化され、出版社の淘汰、寡占化がすすみ、各社が特色を競うというものではなかった。
 ここでちょっと横道にそれる。一九五〇年代後半には、私も十年のキャリアをもつ三十男になっていた。戦後、アメリカ直輸入の経験主義・単元学習を実践してきた。それが、はいまわる経験主義と批判され、系統学習が強調されだした。国語教育では、文学教育が話題をよんだ。荒木繁先生の〈問題意識喚起の文学教育〉をはじめ「日本文学協会」の方々の問題提起。今は故人の、熊谷孝先生の『文学教育』(一九五六年・国土社)の刊行。その出版記念会を機に「文学教育の会」(現「日本文学教育連盟」の前身)の発足。わが「文学教育研究者集団」も誕生する。この時期を、私たちは“文学教育の季節”とよんだ。熊谷先生が〈国語教育としての文学教育〉という主張をうち出し、国語教育のなかに、文学教育を定位したのも、この時期である。こうした教育界の流れの中での展示会だった。
 自校の図書室だったようにも、別の展示会場まで出かけたようにも思うので、元同僚に確かめた。どうやら隣りの学校の図書室だったらしい。その時は、もう五社の教科書しかなかった。文部省編集の教科書のほか、特色のあるいく社もの教科書が消えており、選択の幅はなかった。
 その展示会で、私が選択の基準にしたのは、きわめて単純。まず、好きな作品が掲載されているかどうかだった。モンゴル民話『スーホの白い馬』。プーシキンの『りょうしと金のさかな』。アンデルセンの『はだかの王様』。新美南吉の『ごんぎつね』。ドーデの『最後の授業』などの掲載されている教科書をさがした。これらの作品は、かつて同僚と論議した作品である。あるいは、教室で子どもたちと読みあった作品である。次回は、もっと楽しく読もうという希望があった。十年のキャリアをもつ男となっていたなんて大袈裟に書いたが、これしきの経験しかなかった。つぎに、各社の文学作品を抜きだしていった。文学教育という発想は、「学習指導要領」にはない。したがって、教科書にもその発想はなかった。が、文学教育にも、組み込めそうに思ったからである。さらに、それと原作とを比較してみた。また、翻訳者に尋ねたりもして改作、改竄がないかを、たんねんに調べた。大真面目だった。時間をつぎこんだ作業だった。が、この作業は、時間を費やしたわりに評価されなかった。後に「原作主義者だ、原作ならなんでもいいのか」と、文教研のみなさんにからかわれたので、はっきり覚えている。
 すでに寡占化がすすみ、選択の幅が狭く、不本意な採択だった。が、採択権が教師にあったのは、この時までで、まもなく、採択権を教育委員会が握る。


教師の採択権剥奪
 特色のある教科書群から、教師が自由に選べた時期は短かった。その短い期間中に、急速に右傾化がすすんだ。検定権を、文部大臣の権限にした。旧日本民主党が「憂うべき教科書問題」というパンフレットを発行し、教科書を政争の具にした。いわゆる第一次教科書攻撃である。そうした圧力で検定は強化され、検閲の様相をおびてきた。反対の世論が盛り上ったにもかかわらず、教育委員を公選制から、任命制にかえた。そのうえ、教科書の採択権限を与えた。教師からの採択権の剥奪である。加えて広域採択制まで導入してしまった。全県一教科書の県もあって「県定教科書」と揶揄されたのもこの時期である。このシステムでは、子どもとの接点にいる教師の意見を採択に反映させることはできない。教師にとっては、同じ採択制であっても、文部大臣が検閲し、教育委員会が採択した教科書を使うことになる。国定教科書となんら変わらない。そうした仕組みに採択制が変わってしまった。「家永教科書裁判」も、こうした流れのなかでおこつた。
 一度剥奪された権利を取り戻すのは、容易ではない。この流れに、日教組は自主編成運動を対置した。「文教研」もその推進に努め、成果を『文学教育の構造化──文体づくりと総合読み』(一九七〇年・三二省堂)にまとめて上梓した。が、やはり教科書は、ないがしろにできない。
 以下、こうした流れに逆らうつもりだった私の体験を紹介しよう。ご参考になればと願う。


見当違いの抵抗

 話は変わる。当時は、かっこよく振る舞ったつもりが、何年かたつと、見当違いの意地の張り合いだったと思うことがある。この話もその類である。
 私は教育委員会から、辞令をもらったり、仕事を委嘱されたりしたことはない。あるのは、教員に採用されたときと転勤のときくらいだ。それが、四十歳にして初めて仕事を頼まれた。任命だったか、委嘱だったかは覚えていないが、教科書採択についての仕事だ。
 一九六九年、小学校「学習指導要領」改定にともなう、教科書の改定検定のときだった。すでに、教育委員会が採択権を握り、広域採択になっていた。たぶん、教員組合の推薦で指名されたのだと思う。国語科では、私とほか二名の三名だった。仕事は簡単で、市内小学校の採択希望教科書を多い順、三社までに絞って市の教育委員会に答申することだった。足し算さえできればよい仕事で、私にもできた。その三社の中から、教育委員会の権限で、最終の決定はするというのだ。これで決定権をもつ委員会の面目は保てる。半数まで絞り込むのは君たちにまかせるという。教員組合や現場教師の顔もたてた妥協案だった。それに対して、我われの側の案は、三社まではいいとして、その三社に一位、二位、三位と順位をつけて答申する案で交渉にのぞんだ。もちろん、一位を教育委員会も採択せよというのである。
 三社までか、順位をつけて三位までかをめぐつて、教育長との交渉を何度も行った。初めての任命だか委嘱だったかをされておきながら、教育長に逆らったのである。意地のつっぱり合いのようだった。ついに合意には至らないまま時間ぎれ。こつちは予定通り、順位をつけて答申した。教育委員会の採択結果は、総ての教科で一位の教科書が採用されていた。この交渉に、教員組合のバックアップがあったことはいうまでもない。
 当時、この結果は運動の成果だと評価された。現場の希望を、採択に反映させることができたというのだ。私もそう思った。たしかに、そうした一面は認めていいだろう。が、今にして冷静に考えてみると、あまり喜べない。第一に採択制とはいっても選択の幅がなかった。特色のある出版社の教科書は消えてしまっていた。検定の強化により、にたりよったりの教科書になっていた。そしてなにより、採択制当初の目的が変質してしまっている。個々の教師の自由な選択が生かされていない。学校ごとの自由さえ生かせない。生かす道筋が切断されてしまっている。個々の教師の自由も、学校としての希望も、市全体の希望数に解消されてしまった。順位に変わってしまっている。
 これは、教育長に肩をもつような発言になる。この市は当時、革新市政だった。教育長も、それにふさわしい人が任命されていたと思う。その教育長の妥協案ではなかったか。あるいは、初めから一位を採用するときめてあったのかもしれない。順位はつけずとも、一位から順に書いていく。順位はわかるはずである。また、順位をつけて提出したのに、拒否はしなかった。だが、採択制度が変質しており、この方法では、その枠内の抵抗にすぎない。教師個々の声を採択に反映させるという、本来の目的からは、ずれてしまっていた。


編集者も悩む
 教科書の検定について、紹介したいことは、まだ他にもある。そのひとつに、第一九回文教研全国集会(一九七〇年)での(あまのとしゆき)氏の講演がある。氏は当時、三省堂第二出版課長。三省堂といえば、知らない者はいないだろう。今も高等学校の教科書を発行している。もう、広域採択になっていた。が、過去の経験をふまえたお話だった。
 演題は「教科書とは何か」。お話の全貌は、はっきりとは覚えていない。が、教科書には三つの検定があるといわれたくだりは覚えている。第一が、編集者の自己検定。第二は、いわずとしれた文部大臣の検定。第三が、現場の先生方の採択という名の検定である。
 教科書の編集者は、現場の先生方の意見を大事にする。そういわれて、黒板一面に、教科書に対する教師からの質問や疑問、意見や感想などの投書を貼りつけられた.葉書もあれば封書もある。この場面がひときわ印象ぶかい。そして、これら一つひとつは、編集部の“宝物”だといわれた。第二の文部大臣の検定を、射程におきながら、現場の先生方からの注文や要望を生かすのに編集部は苦慮する。文部大臣の検定をすり抜けるために、先生方の意見を一〇〇%生かせないこともある。これが編集者の自己規制であり、第一の検定である。
 こうして編集された本を「白表紙本」という。この「白表紙本」の検定申請を文部大臣にだす。厳しいチェックを受ける。これが、第二の検定。
 第三の検定が、いちばん恐い。この投書の注文や意見に応えられたかどうかも、採択という検定でためされる。
 右のような主旨のくだりが、印象に残っている。売る側の立場、営業政策からいって、その通りだろう。それなのに、黒板に貼られた葉書や封書の投書が、今も忘れられない。私は直接、宝物を提供したことがない。印象に残っているのは、その負いめからかもしれない。
 編集部にも、いろいろな人がいるだろう。文部大臣の検定を優先させて考える人も、現場教師の意見が大事と思う人もあるに違いない。あるいは、一人の内部に両方の意見があるのかもしれない。第一の自己検定を、営業政策の面からだけでなく、下からの教科書づくりという観点で見直すとどうなるかと思い直した。編集者にも、必ず連帯する相手はいると信じたい。教科書に、個の意見を反映させるのはここしか残っていないと思った。
 後日談になる。七十何年だったか、はっきりした記憶はない。講演を聞いた直後の展示会だった。各社の教科書から一斉に『いっすんぼうし』と『はだかの王様』が削除されていた。定番だと思っていたのに、どの教科書にもない。『はだかの王様』は、私の教材になっていた矢先である。一斉に消える? これはどこからかの圧力に違いないと思った。そのとき黒板の投書が甦った。編集者の“宝物”といわれた、あの投書である。これはもう、編集者に直接聞いてみることだと思った。
 筆無精な私が丁寧に書いた。『いっすんぼうし』と『はだかの王様』を、各社一斉に削除したのは何故か? 適切な教材であると思うこと。次の改定では、復活させて欲しいというお願いなどをしたため、各社に送った。私の教科書に対する投書は、これ一回きりである。が、返事はこなかった。今回(二〇〇三年)の改定でも、復活はしていない。返事の書けないことだったのかもしれない。読まずに捨てられたとは思っていない。一人の投書で会社が動くと自惚れてもいなかった。だが、同じ主旨の投書が何通もあることは期待した。編集部が動かないともかぎらない。たとえ採択権が剥奪され無くなっていたとしてもである。
 多彩な教科書から、自分の責任で選ぶ。教育の民主化はこういうことから始まるのかと思った、感激はつい昨日のことだ。あの選ぶときのワクワクした気持を、若い教師はもう味わうことができないのだろうか。あの時の採択制度を民主的というなら、今の採択制度はなんといえばいいのだろう。同じ名前では呼びたくない。制度としては同じ採択制であっても、内容はまるで違うからである。
 それだけではない。たとえば「心のノート」。あれは何んだといいたい。国定の道徳教科書ではないか。それが文科省から教育現場に、まるで先兵のように天降った。あるいは、露払いのようにである。その先にあるのは、ご承知のことと思う。雲ゆきは荒れ模様だが急である。


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