文学教育よもやま話 4    福田隆義       

『サクラ読本』一期生の弁   【「文学と教育」№194(2002.4刊)掲載】

はじめに
 昨日のことは忘れる。が、子どもの頃の記憶はたしか。まったく奇妙な年齢(?)になった。今回は、私の子どもの頃のことを「よもやま話」に加えようと思う。七十年ちかくも昔のことである。


ヒノマルノハタ バンザイバンザイ
 
いまごろは「テロ対策特別措置法」によって、インド洋上を海上自衛隊の艦船が「日の丸」を押し立てて行動していると思っていた。ところが、アラブ海で米艦船に給油していると、新聞(朝日・一二月五日)は報道した。支援にかこつけて、どこへでも行っていいことになった。応援の艦隊も出航した。何本も何本も「日の丸」を立てて見てもらいたいのだろう。また、「PKO協力法」の改悪で、武器使用の基準が緩和された。場合によっては、銃口を人の向けるという恐ろしいことも、法律で認めてしまった。両法とも、国会での審議はつくされていない。テロに名を借りた、ドサクサ立法だった。さらに「有事法制」も検討しているらしい。
 今までもそうだった。状況をつくりだしておいて、現実に適応・対応させることを理由に法律を改定する。今回もそうだ。既成事実先行である。この手法で、すでに教育基本法も憲法も改悪する状況をつくりだしてしまった。というより、改悪にむけた論議がすでに始まっている。
 明治このかた、私が青年になった頃までの国策は「ススメ ススメ ヘイタイ ススメ」「ヒノマル ノ ハタ バンザイ バンザイ」につきる。これは、私が小学一年生で教えこまれた文句である。国際情勢にちがいはあるものの、政府・与党に野党の一部も加わって、七十年も昔の国策にタイムスリップした感がある。


『サクラ読本』巻一
 ここで、私が習った「国威の宣揚」という名の皇国教化の実体を、『国語讀本』に即して紹介したいと思う。
 記憶を確かめたいこともあって、図書館から復刻版を借りてきた。正式書名は『小學国語讀本』。その巻一が「サイタ サイタ サクラ ガ サイタ」で始まる。通称『サクラ読本』は、文部省著作の国定教科書の別名である。一九三三年度(昭和8年)から使用された。
 私は一九三三年、村の尋常高等小学校に入学した。いわば『サクラ読本』一期生。貧農の百姓の倅で、雑誌など買ってもらった記憶はない。友だちの殆(ほとん)どがそうだった。本を読むということは、教科書を読むことだった。村長さん、駐在さん、学校の先生の家ぐらいは、買ってもらっていたのかもしれない。なにしろ、村長さんや、先生の家には、ラジオがあり、新聞も購読してい多。そんな時代であり、地域だった。
 だから、『サクラ読本』の本文はもちろん、割付けから挿絵、その色彩まで覚えている。巻一の、二・三頁見開きは「サイタ サイタ サクラ ガ サイタ」、下半分は萬朶(ばんだ)桜の色刷りだった。四頁は「コイ コイ シロ コイ」、絣(かすり)の着物の男の子がシロを招いている絵。五頁は「ススメ ススメ ヘイタイ ススメ」の四行、鉄砲をかついだ兵隊さん四人が行進していた。六頁「オヒサマ アカイ アサヒ ガ アカイ」、四人の子どもと犬が旭を出迎えている絵。七頁「ヒノマル ノ ハタ バンザイ バンザイ」、校舎のわきに高く「ヒノマルノハタ」が、翻(ひるがえ)っていた。「アサヒ」と「ヒノマル」は、つづけて詠んだ。挿し絵もつづいているようだった。記憶はとめどなく甦(よみがえ)ってくる。しかも、巻一については、ほとんど正確である。
 今回、全巻を読み直してみたとき、冒頭の桜も、古歌で親しまれた花ではないようだ。蛮声で歌った軍歌「萬朶の櫻か襟の色/花は吉野に嵐吹く/大和男子と生まれなば/散兵戦の花と散れ」(「歩兵の歌」)の桜だろう。もっぱら散りぎわのよさが賛えられた花に思えてきた。巻一の七頁までに『サクラ読本』十二巻を貫く、基調となる発想は示されていると思った。
 とはいっても、私は「シタキリスズメ」も「ウサギトカメ」も「モモタロウ」も「サルトカニ」「ネズミノヨメイリ」「コブトリ」「花サカヂヂイ」「一寸ボウシ」「かちかち山」「ねずみのちえ」「金のおの」「浦島太郎」「かぐやひめ」「羽衣」……も、一・二年生の教科書で出会った。当時は、面白かった。暗唱するほど詠んだ。『サクラ読本』が、文学読本だったとか、文学的すぎたといわれる理由の一つだろう。読み返してみて、再話・翻案におかしいものもある。当時「修身」といわれた「道徳」の教科書とかわらない。が、これが『國語讀本』だった。
 また、「デタ デタ ツキ ガ、 マルイ マルイ マンマルイ ツキ ガ。」や「ホ、 ホ、 ホタル コイ。アッチ ノ ミズ ハ、 ニガイ ゾ。 コッチ ノ ミズ ハ 、アマイ ゾ。 ホ、 ホ、 ホタル コイ。」などは、「唱歌」でも習った。歌いながらホタルを、追いかけまわした。これらも、文学読本だったといわれる理由だろう。
 それとは逆に、日常生活を素材にした教材は親しめなかった。「オトウサン、イッテマイリマス。」とか「イマ、キヌコサン ガ キテイラッシャイマス。」などの言葉づかいは、私の生活の中にはなかた。それに挿し絵がこ綺麗で、どこかのお金もちの家のこと、お金持ちの家の子たちのことと思っていた。それでも、暗記してしまった。
 私は、大正期の自由主義思潮は知らずに青年期を迎えたと思っている。が、今回読み直してみて、これらの文調や挿し絵には「赤い鳥」の都会風の生活、牧歌的な自然描写をかいまみるような気がする。とくに巻一・巻二あたりにそれを感じる。もちろん、基調になっている発想は、前記の国策であることはいうまでもない。


神話が歴史
 
学年がすすむにつれて、編集方針もかわっているように思う。日中戦争を目前に、総てに統制がかかった時期である。神国日本、皇国日本、軍国日本を強調する教材がふえてくる。たとえば神話。巻三では「國びき」、巻四では「白兎」だったのが、三年生からは、系統的になる。「天の岩屋」「天孫」「八岐(やまた)のをろち」「二つの玉」「神武天皇」「日本武尊
(やまとたけるのみこと)」「弟橘媛(おとたちばなひめ)」……とつづく。それも物語としてではなく、「天の岩屋、八岐のをろち、大國主命(おおくにぬしのみこと)、天孫降臨、二つの玉等の神代(かみよ)の尊い物語を始め、神武天皇や日本武尊の御事蹟、其の他古代のすべての事が古事記にのせられて、今日に傳はつてゐる。それは、要するに我が国初以來の尊い歴史であり、文學である。」(巻十一「古事記の話」)とする神話観である。「古事記」の伝承を「御事蹟」であり「尊い歴史」として教えられた。
 この流れにそって、日本の歴史が組み立てられる。たとえば文永・弘安の役。「恐れ多くも、龜山上皇は、御身をもって國難に代らうと、おいのりになつた。(略)此のまごころが、神のおぼしめしにかなつたのであらう、一夜、大風が起こつて、海はわき返つた。敵の船は、こつぱみじんにくだけて、敵兵は、海の底にしづんでしまつた。生きてかへつた者は、數へるほどしかなかつたといふ」(巻六「神風」)といったようにである。
  第二次大戦でアメリカ軍の空襲が始まったころ、私は神風を信じ、期待し、祈った。今ふうに言えば、マインドコントロールされた青年に育っていた。ブンガク読本が、とんでもない青年を育てる一助だったことは確かだ。それに加えて「修身」という教科があった。「國史」があった。「儀式」(元旦・紀元節・天長節・明治節)があった。これらが一丸となって、皇民化教育が押し進められていたからである。


国語には「國民の魂が宿る」?
 それはまた、以下に述べるような言語観による、徹底した教育だった。国民の魂とやらを、身体にまでたたき込まれた。たとえば、
  「君が代は千代に八千代にさゞれ石の
         いはほとなりてこけのむすまで」
此の國歌を奉唱する時、日本人は、思はず襟を正して、榮えます我が皇室の萬歳を心から祈り奉る。此の國歌に歌はれてゐる言葉も、また我が尊い國語に外ならない。(略)國語を尊べ。國語を愛せよ。國語こそは、國民の魂の宿る所である。」(巻九「國語の力」)というのである。国語には国民の魂が宿っている。だから「君が代」を歌うときはもちろん、聞こえてくるだけでも直立不動の姿勢をとらされた。本気かどうかはしらないが、先生もそうだった。
 もうひとつ例示しよう。「萬葉集」(巻十二)という教材がある。書き出しの部分を引用する。
 「今を去る千二百年の昔、東國から徴集されて九州方面の守備に向かつた兵士の一人が、
     今日よりはかへりみなくて大君のしこの御楯(みたて)と出立(いでた)つわれは
といふ歌をよんでゐる。『今日以後は、一身一家をかへりみることなく、いやしい身ながら、大君の御楯となつて、出發するのである。』といふ意味で、まことによく國民の本分、軍人としてのりつぱな覺悟をあらはした歌である。」というのが冒頭に位置づく。つづけて、
 「次の言葉は、今日國民の間にひろく歌はれてゐる。
     海行かば水(み)づくかばね、
     山行かば草むすかばね、
     大君の邊(へ)にこそ死なめ、
     かへりみはぜじ。
 『海を進んだならば、水にひたるかばねとならばなれ、山を進んだならば、草の生えるかばねとならばなれ、大君のお側で死なう、一身をかへりみはしない。』といった意味で、まことに雄々しい精神を傳へ、忠勇の心が躍動してゐる。」とつづく。以下は省略する。
 両歌とも、中学生になってから、よく歌わされた歌である。直立不動の姿勢で歌わされた。「大君」という言葉があれば、いかなる時でも、不動の姿勢をとった。反射的に反応するまでに訓練された。まるで、犬の躾(しつけ)であり訓練だった。が、みんなと荘重に厳粛な雰囲気で歌っていると、その気になるのである。すくなくとも、防人(さきもり)や大伴家持(おおとものやかもち)の心境になりたい、ならなければならないと思った。
 これは教師になってからのことである。〈追体験〉という概念を学んだとき、これこそが、その極致だったと思った。主体性を剥奪し喪失させる。そして同化をせまる。だが『サクラ読本』一期生には、その剥奪する主体性さえなかったような気がする。古典もこうした部分、こうした切りとり方で教材化された。


忠・勇の追体験
 さらに、忠義と武勇を推奨する、軍記ものの教材をあげてみよう。巻六あたりから増えてくる。「千早城(ちはやじょう)」「錦の御旗(みはた)」「くりから谷」「ひよどり越え」「扇の的」「弓流し」「靜寛院宮(せいかんいんのみや)」……古典も美談にしたてて〈追体験〉を積み重ねさせる。
 近代では、陸軍が軍神にしたてた「橘中佐」と「水師營の會見」の掲載を要求すれば、海軍も軍神「廣瀬中佐」「日本海海戦」の掲載を求めたのではないか。
 要求すればと書いた。当時、教科書は今と違い、何年度版と一挙に改定されるのではなく順次改定されていった。十二巻を改定するには、すくなくとも六年の期間が必要である。その間に、時局は満州事変から、二・二六事件を経て、日中戦争に展開した。当然、軍の発言力が、強くなる。編集にも口ばしをいれたと思われるからである。
 これは、後になってわかったことだが、当時、陸海軍は若い人材の確保を競っていた。陸軍が幼年学校を復活させれば、海軍は少年飛行兵(予科練のはじまり)の募集をするといったようにである。高等小学校卒業を待って、志願させていた。したがって、小学校高学年になるにつれ、軍隊生活を明るく描いた教材が多くなる。さきに紹介したもの以外から列挙してみよう。
 まず陸軍。「ニイサンノ入營」「犬のてがら」「軍旗」「兵隊」「ほまれの記章」。海軍関係では「海軍のにいさん」「潜水艦」「軍艦生活の朝」「水兵の母」「「我は海の子」とつづく。
 そのほかにも「參宮だより」「天長節」「明治神宮」「御民(みたみ)われ」「皇國の姿」「日本刀」……などの類がある。これらは、解説ぬきで内容の想像はつくだろう。想像のつかないものもある。たとえば「玉のひゞき」(巻十二)という題。頁を開くと「明治天皇御製・昭憲皇太后御歌」と副題がついている。天皇は優れた歌人でもあったらしい。
 またたとえば「僕の子馬」(巻九)という教材がある。僕が子馬「北斗」の世話を引き受けるという話だが、結びはこうだ。「北斗は、きっと軍馬に買上げられるに違ひありません。さうして、りっぱな乘馬になり、軍人さんを乘せて、意氣揚々と歩くでせう。其の勇ましい様子を思ひ浮かべると、僕は北斗のために喜んでやりたいのです。」と軍馬に結びつける。
 もうひとつ例示しよう。「大阪」(巻七)。煙の都、水の都の紹介だが、これも結びは「昔、仁徳天皇は、此の地に都をお定めになって、堀江をお開きになり、又三年の間租税を免じて、民のかまどの煙の立つやうになつたのを大そうお喜びになりました。(略)今日のやうな大都會となったのには、まことに尊いいはれがあるといはねばなりません。」である。


 一期生のその後
 例をあげればきりがない。『サクラ読本』の紹介に終わってしまった。
 一九三三年小学校入学の一期生は、二十歳が敗戦の年。小学校から世代形成期の全てを、こうした教育で飼い慣らされた。だれもが「しこの御楯」となる覚悟をきめていた。中学校四年生(旧制)から、海軍甲種飛行予科練習生に志願した級友のおおくは、帰らぬ人となった。小学校から机を並べていた親友、U君もそのひとり。彼は敗戦の四日前、八月一一日に、必死の兵器「回天」で特攻出撃した。光基地で死ぬための訓練を記した日記も紹介したかった。また、五年生になって、陸軍士官学校・海軍兵学校に大勢が志願した。
 ちなみに私は、師範学校に進学した。が、教師に必要な勉強はせずに、徴用されて兵器増産に励んだ。また、それまでは二十歳だった徴兵検査が一九歳に引き下げられた。一期生組が、最後の徴兵検査になった。私は「第二乙種」にランクされた。それでも級友と、陸軍特別幹部候補生に志願した。が、不合格。幹部候補にもなれなかった。二等兵として召集される日を待っているうちに、敗戦。
 「ススメ ススメ ヘイタイ ススメ」「ヒノマル ノ ハタ バンザイ バンザイ」の過ちを、繰り返してはならない。教え子を再び戦場に送ってはならない。


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