資料:鑑賞主義論争――解説に代えて
『人間喜劇の文学 西鶴』1994年4月(こうち書房刊)所収
(「V 西鶴文学研究史――戦中から戦後へ」 「三 〈美の十字軍〉の西鶴観/岡崎義恵」「4 〈美の十字軍〉の見事な破産」)   

 〈美の十字軍〉の見事な破産     荒川有史

 戦中・戦後の木に竹をついだような西鶴論は、ところで、故岡崎義恵氏の文芸認識論と深いかかわりをもっている。ここで岡崎の『日本文芸学』(一九三五・昭和10年 岩波書店刊)をめぐる鑑賞主義論争をふりかえってみることも、決して無駄ではないであろう。
 鑑賞主義論争は、現象面で見ると、故近藤忠義氏の「国文学の普及と〈鑑賞〉の問題」(『解釈と鑑賞』一九三六年七月)、「国文学と鑑賞主義」(『国文学誌要』一九三六年七月)の発表を契機として展開した、と言えるだろう。
 それは、二・二六事件に象徴されているように、天皇制ファシズムヘの志向が明確な形を取りはじめたころである。しかし、暗い谷間への底流は、まだ、一つに整理されきっていたわけではない。二・二六事件の翌年、四月総選挙における社会大衆党の大きな進出に読みとれるのは、やはり、軍部の戦争政策に対する国民の批判であった。
 こうした時期において近藤は、理論と実践の統一課題として国文学の新しい普及という問題を提起したのである。従来とて、そうした普及がおこなわれなかったわけではないけれども、そのよびかけは、恣意に終始する鑑賞主義をささえとするものであった、という。だから、「徒に煩瑣な、無目的な、無政府状態」にある文献学上の研究をも、ほんらいのあるべきところに位置づけることはできなかったし、また、国文学の真の発展を約束することもできなかった。いわゆる好事家風の国文学者ないし古典愛読者を増加させただけである。
 それゆえ、近藤によれば、新しい再出発にあたって吟味されるべきことは、第一に、国文学の方法として無反省にとりあげられている鑑賞主義の実体であり、第二に、普及の対象である〈大衆〉そのものであった。つまり、学問がたんにそれ自体のために、あるいは趣味上の楽しみのために構想されるものでないかぎり、「生々しい社会的現実を呼吸しつつ社会と共に成長して居る」大衆をささえとしなければならず、同時にそうしたよりよき実践に応えるためには、学問が自己の体内から非科学と呼ぶほかない要素をすべて追放しなければならなかった。
 ところで、この実践上の課題は、それとして妥当性をもっているけれども、立ち入って検討すると、きわめてあいまいな部分を秘めていた。たとえば、〈国文学の普及〉の〈国文学〉とは日本文学に関する科学としての研究をさすのか、あるいは古典をも含めた日本文学の総体をさすのであろうか。また、普及の対象としてどんな階級・階層の人々を想定しているのであろうか。大衆といってもほんとうに労働者や農民のことを考えているのかどうか。さらに、鑑賞主義批判が学界内部における理論闘争としてよびおこされたというより、〈大衆への普及〉という実践上の要請からだとすれば、そうした動きにはどのような内容をもっていたのであろうか等々である。
 鑑賞主義批判における概念規定の混乱も、近藤の場合、右の不明確な視点の設定とわかちがたく結びついている。「鑑賞そのものが既に文学とは不可離の血縁関係にあるものだと無反省に信ぜられている」というように、文学研究を意味して使われた〈文学〉ということばが、文学作品の意に受けとられても仕方のない叙述のため、また、鑑賞のしくみやはたらきを論理として分析せず、鑑賞すなわち「国文学の主観的・現代的〈享受〉」ということばのおきかえだけで論を進めたため、近藤たちは、作品における鑑賞の役割、あるいは文芸学の対象としての鑑賞まで否定しさった、という思わぬ誤解をも結果した。 こうした実践上の視点の不明確さと叙述の不正確さにもかかわらず、近藤が追跡したことは、鑑賞が科学の方法として要請されえない、という一点である。近藤によれば、「〈鑑賞〉という言葉を、文学研究の世界から抹殺することに、一抹の不満と不安とを感じるのは、……文学研究に際して、我々の感受性に与へられる分け前に関する問題と結びつくからである。」けれども、そうした研究者の感受性は「一つの自然的条件」であり、作品を理解するための一資料にすぎない。「この自然的条件を学的研究に於ける条件に組み変へるものは、他ならぬ彼自身の〈方法〉」だった。研究にあたっては、一つの自然条件にすぎない自己の鑑賞を、享受者全般にわたって通用しうるかのような錯覚と傲慢さをもって主張してきたところに、従来の混乱と停滞があったのであり、近藤の右の指摘は、大きな意義をになっている。つまり、近藤は、鑑賞がいかに学問上のよそおいをこらそうとも、それとして、国文学の方法に位置づけられないことをはじめて批判の対象にしたのである。
 近藤忠義の問題提起を受け、今後のよりよき展望を示したのが、熊谷孝・乾孝・吉田正吉の三氏による「文芸学への一つの反省」(『文学』一九三六年九月)であった。それは、論争における真の起点にあたいするものであった。
 「一つの反省」では、故岡崎義恵氏の『日本文芸学』がまず、問題にされている。それというのも、客観性を志向すべき国文学が、個人の好悪やそれをいくらか綺麗事に仕立てた見解においてとやかく論じられている現状で、岡崎はきっぱりと、「学者として立つ以上、いかに対象が芸術であり、芸術の愛から出発したとしても、一応科学的軌道を守らなければならないであらう」と言いきったからである。だから、「指針を求めて模索してゐた多くの後進が、自らの進むべき方向を競ってこれに求めたのは自然のいきほひであつた。」
 しかし、岡崎は、最後まで、〈料学的軌道〉を守ったわけではない。「文芸学が、精神科学的である以上、恐らく自身の内に文学体験を包蔵する事のない人が、これに参与するといふ事は、労して功なきものであらう。文芸学者はかくて、程度の差こそあれ、自身文芸家であるのが当然である。若しさうでない時は、最もよい場合でも、文芸を文芸でないものにしてしまつて、対象化する結果となる」と言い、やはり、「主観的な鑑賞といふ段階を方法としての資格において要請」しているのである。で、熊谷たちは、自他ともに〈誠実〉な学究と見なされる岡崎でさえ、ある種の伝統と密着した鑑賞主義から抜けきっていないという現実を直視しつつ、鑑賞主義の種々相を分析する。すなわち、
  ――鑑賞主義といはれるべきものに三種類あつて、その一は文芸作品を芸術品として正当にあつかふ為には、それを〈味ふ〉の一途しかなく、これを評価したり、貶褒したりするのが第一よくないといふことを、度合の差こそあれそれぞれ主張するものであるが、これはそれ自身、〈科学〉としての資格を放棄してゐるのだから問題にならない。次は、文芸作品の価値は飽くまで芸術品としての価値なので、したがつて外の基準からの制約を受けるべきものでなく、この〈芸術品としての価値〉とは鑑賞によつてのみ獲られるものであるとするのである。これはしかし、自明の様に、好悪といふことを科学的な評価と混同してゐるのである。最後のものは、いちばん〈科学的な〉外見を偽装してゐるものであつて〈歴史的な〉〈客観的な〉評価の基準を認めつつ、しかもその欠く可からざる前提として〈鑑賞的立場〉を要請するものである。
 そして、この第三の立場こそ、「鑑賞者としての立場と科学者としての立場と、それから亦過去の読者の立場、果ては作者の立場などを自由自在に超越したり転換したりする鮮かな曲技」を演じ、「資料主義や素朴な鑑賞主義が世間に通用しなくなりかけてゐる今日」、「伝統的国文学の最後の護り」となるものであったと指摘する。
 なお、ここで、当時すでに熊谷たちは、「鑑賞をまつて芸術作品がはじめて芸術たりうる」と明言し、社会現象としての文学現象は読者の創造完結によってはじめて成立する、という見解の原型を明らかにしている点に注目しておきたい。さらに、「自己の体験の抽象面を規定する座標軸を自覚しない、理解者の主観的な全体感が本来の意味の鑑賞である。」と定義し、だからこそ鑑賞はそれとして文芸学の方法たりえない、と語っていることである。
 しかし、こうした批判に対し、岡崎はさいごまで誠実に対話しようとしなかった。論争の展開を打ちきったものは、次のような岡崎の特高まがいの発言であった。
 ――「古典」といふ言葉を瞬間にして消滅する過去を意味するだけのものと考へるのは、歴史といふものを全く単なる転換と解するものではなかろうか。
 ――然も、かかる見地は今日所謂国文学界においては歴史的・社会的立場として認められてゐる。歴史といふものを持続的なものとして見ず、社会といふものを階級的限界内のものとしてみようとする立場が此処にある。前に引用した論文の如きは尚微温的であり、従つて穏健とも考へられるものであるが、中にはかなり極端な左翼的位置に立つ者も、此一類に見出されるのである。思ふにこれはマルクス主義の亜流である。左翼文士の活躍した頃の論文には見られた口調が、此処には著しく面影を留めて居る。今日では余程偽装しても居り、軟化しても居るが、尚蔽ふ事の出来ない赤化思想への傾きを見出さないわけにはゆかない。唯物論研究などといふ雑誌とも連絡があるやうであり、ソヴィエット文芸学への追随の跡も認められる。此派を行くところまで行かせると、当然赤化行動に迄進むに相違ない。「文芸史における古典の評価は、その作品を問題とすることの現代的意義の評価にはじまり、それの歴史的意義の評価に了る、唯その一つの基準を基準としておこなはる可きものなのである。」(「文学」五の四、熊谷孝氏「古典評価の基準の問題」)といふ如き言葉を、唯これだけ見ると、従来の保守的な実証主義的歴史学者などをも首肯せしめさうに思はれるのであるが、此処にいふ「現代的意義の評価」なるものは、階級闘争によるプロレタリアの進出を助ける如きものを価値ありとする事であり、「歴史的意義の評価」なるものは、かかるプロレタリアのイディオロギーに理論的基礎を与へるやうな、階級闘争の為に役立つた文芸の実践力を明かにする事ではなからうかと私は考へる。これについて此派の人人は強ひて十分な説明を施さないやうであるが、私の想定は誤つて居るであらうか。若し誤つてゐないとすれば、かかる立場に立つ潜行的マルクス主義者が国文学界に活躍し、教育界に巣食ふといふ事は、いかやうに考へてよいものであらうか。(『古典及び古典教育について』/岩波講座『国語教育』一九三七年九月)

 学問精神とは無縁の、この野蛮な発言は、〈美の十字軍〉をめざしたものの、理論上の不幸な帰結である。岡崎が自己の印象――鑑賞体験の要約を絶対化して作品分析をすすめる姿勢の、それは率直なあらわれであった。 戦中・戦後の西鶴論のある種の強引さも岡崎の日本文芸学の方法と深くかかわっているのである。〈中世的気魄の芸術家〉より〈西洋的日本人の芸術家〉という看板の安易なかきかえにも、時流に抗しても真実を追求しなかった人の姿勢が反映されている。
  しかし、戦後はじめての西鶴論の著作として、1 芭蕉と西鶴を統一の視点において見ようとする姿勢、2 詩精神と散文精神とのかかわりの中で西鶴文学を見ようとする見地の提出は、その後の西鶴研究に、貴重な示唆を投 げかけたことになる。
 
  


資料:鑑賞主義論争