西鶴・芭蕉・近松      
  
東京堂刊『世界思想教養辞典・日本東洋編」(1965.12)所収-- 


   西 鶴 〔日本・江戸〕 さいかく  井原(いはら)西鶴 1642-1693 8/10 (寛永一九〜元禄六)
 浮世草子(うきよぞうし)作者・俳人。一説にしたがえば、本名、平山藤五(ひらやまとうご)、もと大阪の富裕な町人であったという。西鶴はその号。別号、鶴永(かくえい)・西鵬(さいほう)。一五歳のころ俳諧にこころざし、二一歳のころ点者(宗匠)となった。三〇歳を中心に、談林(だんりん)派の代表的な俳人として、古風(貞門)打倒のこの派の運動の先頭に立って活躍した。俳諧制作上のしきたりや約束ごとを無視したその作風は、阿蘭陀(おらんだ)流などと呼ばれ異端視されたが、俳諧(連句)の内容・形式を、新興町人階層の詩として再編成し方向づけた点にその活動の意義がある。四一歳のとき、浮世草子の第一作『好色一代男』を発表。以後、連句的な発想と説話的な手法による独自の簡潔な文体によって、『西鶴諸国ばなし』『好色五人女』『好色一代女』『本朝二十不孝』『懐硯(ふところすずり)』『日本永代蔵(えいたいぐら)』『武家義理物語』『西鶴織留(おりどめ)』その他一連の作品集を書いた。晩年の『世間胸算用(むねさんよう)』『西鶴置土産(おきみやげ)』『万(よろず)の文反古(ふみほうぐ)』などの収められている諸短編には、説話の域をこえた、小説ジャンルの胎動と成立がみられる。その描写の根底にあるものは、身分制度や家族制度、金貸資本や商業資本の圧迫による封建的人間疎外への抵抗であり、同時に民衆の人間(人間性)にかけるこの作者のかぎりない期待と信頼である。そのころ、すでに階級分化への道をたどり、相互の連帯性を見失いはじめていた新興町人社会の現実を、物心両様の面で追い詰められた「常(つね)の町人」(小市民)の視点でみつめ、この疎外状況における多彩な人間模様を、諷刺をこめた軽妙な笑いの中にリアルに、つぶさに描きだしている。人間の可変性がそこにさぐられ、人間性回復への無限の可能性が、疎外された人間自身の内面においてさぐられる。近世散文文学における最高の達成がそこにあった、といっていいだろう。(熊谷 孝)
〔参考〕 山口剛編・校訂『西鶴名作集』上・下(日本名著全集刊行会)、頴原退蔵他編・校訂「定本西鶴全集』全一五巻(中央公論社)、麻生磯次他校注『西鶴集』上・下(岩波書店『日本古典文学大系』四七・四八)、暉岡康隆・野間光辰編著『西鶴』(三省堂『国語国文学研究史大成』一一)



   芭 蕉 〔日本・江戸〕 ばしょう  松尾芭蕉 1644-1694 10/12 (正保一〜元禄七)
 俳人。本名、松尾宗房(まつおむねふさ)。通称、甚七郎・忠左衛門など。芭蕉はその号。別号、桃青その他。伊賀(三重県)上野の城下町に手習師匠の子として生まれ、一〇歳のころ上野城主の一族、藤堂(とうどう)新七郎家の嗣子良忠(俳号、蝉吟)の小姓となり、俳諧(貞門俳諧)にしたしむ機会を与えられた。二三歳のとき蝉吟(ぜんぎん)の死にあい、武士をやめて貞門俳人の道をえらんだ。二九歳のとき江戸の下り、しだいに談林(だんりん)の俳風への接近を深めていった。しかし、やがて三七歳ごろにはこの一派とも訣別、「野ざらしを心に風のしむ身かな」の『野ざらし紀行』の旅において、『冬の日』(『芭蕉七部集』第一編)の歌仙が名古屋で興行されるころ(一六八四、四一歳)には、その独自の俳風(蕉風)を樹立するにいたった。蕉風の到達点のひとつは、『奥の細道』の旅の後、『猿蓑(さるみの)』の興行(一六九〇・九一、『七部集』第五編)において示された「さび」の境地である。それは、中世和歌文学の「さび」の伝統につながり、それに媒介されつつ、封建的な人間疎外に苦悩する元禄期民衆の悲哀を、離俗の姿勢において歌いあげようとするものである。しかも、そのような哀感を、俳諧が体質的にもつ「をかしみ」の中にとらえようとするのである。さらに、そうした「さび」に徹し、そこを越えたところに、やがて「軽み」の境地が生まれる。『七部集』の第六編『炭俵(すみだわら)』(一六九四)は、蕉門の人々が最後に到達した、そのような俳境の所産であった。かれのことばを引いていえば、「俳諧の益は俗語を正(ただ)す」点にある。それは、「実ありて、しかもかなしびを添ふる」ものでなければならない。しかし、「高く心を悟りて俗に帰る」こと、すなわち、「浅き砂川を見る如く、句の形、付心ともに軽き」句境こそ、風雅究極の理想にほかならない。「門しめてだまつて寐たる面白さ 芭蕉」の境地である。(熊谷 孝)
〔参考〕 大谷篤蔵・中村俊定校注『芭蕉句集』(岩波書店『日本古典文学大系』四五)、杉浦正一郎・宮本三郎・荻野清校注『芭蕉文集』(同上四六)



   近 松 〔日本・江戸〕 ちかまつ  近松門左衛門(もんざえもん) 1653-1724 (承応二〜享保九)
 浄瑠璃(じょうるり)・歌舞伎作者。本名、杉森信盛(すぎもりのぶもり)。近松はその号。別号、巣林子(そうりんし)。武士の家に生まれ、青少年時代を京都ですごし、一時、堂上貴族に仕えた。二〇代なかばから作者生活にはいり、七二歳で没するまでに、坂田藤十郎(さかたとうじゅうろう)たちのために歌舞伎脚本を二七編、初代・二代の竹本義太夫(たけもとぎだゆう)や宇治嘉太夫(うじかだゆう)たちのために浄瑠璃を約一〇〇編書いた。はじめ、藤十郎を座元とする都万太夫座(みやこまんだゆうざ)の座付作者になったが、五三歳のとき竹本座の座付作者に転じ、以後、浄瑠璃の制作に専念した。義太夫との提携は、しかし、かれのために『出世景清(しゅっせかげきよ)』を書いた三四歳のときに始まっている。かれが主力を注いだのは、この『出世景清』をはじめ、『用明天皇職人鑑(ようめいてんのうしょくにんかがみ)』『国姓爺合戦(こくせんやかっせん)』など一連の五段形式の時代物であった。しかし、すぐれた芸術的達成において問題を投げかけているのは、むしろ、『曽根崎心中(そねざきしんじゅう)』(一七〇三)にはじまる、『堀川波鼓(ほりかわなみのつづみ)』『心中重井筒(かさねいづつ)』『冥途(めいど)の飛脚(ひきゃく)』『心中天(てん)の網島(あみじま)』など二四編の三段形式の世話物である。義理をおもんじると同時に人情をいつくしむ、この世話物の主人公たちは、まさにそのような姿勢において実人生に対処しようとすることで、家族制度や商業資本の圧力のまえに、「死の勝利」というかたちでの自己疎外と、生活者としての敗北を経験するのである。かれが、民衆の悲哀を歌いあげた悲劇作者であるとされる理由である。しかし、晩年の『女殺油地獄(おんなごろしあぶらのじごく)』(一七二一)あたりになると、部分的には喜劇的手法への方法的転換の姿勢がみられる。封建的な義理に束縛された夫婦関係、親子関係の中で疎外され尽くした人間(主人公・与兵衛)の、いたましいという以上に無頼で滑稽な姿が、劇の進行との必然的関連においてそこに描かれ、そのことで封建的諸矛盾に対する遥かに広い展望と批判が用意されるに至っている。(熊谷 孝)
〔参考〕 重友毅・守随憲治・大久保忠国校注『近松浄瑠璃集』上・下(岩波書店『日本古典文学大系』四九・五〇)
 
 熊谷孝 人と学問熊谷孝 昭和10年代(1935-1944)著作より熊谷孝 昭和20年代著作より熊谷孝 近世文学論集(戦後)