児童観の推移と日本児童文学     熊谷 孝        (『文学と教育』45 1967.7)

 * 「文学と教育」第45号に「第二回文学教育研究集会/報告レジュメ――児童観の問題と文学教育」が掲載されている(総括報告:熊谷孝、朗読と解説:夏目武子、歌唱と解説:大内寿惠麿)。この報告レジュメ中、「資料」として組み込まれた部分が「児童観の推移と日本児童文学」である。
 * この「資料」は、1967年4月30日にNHK(ラジオ)から放送された熊谷孝氏の企画・解説・司会による教養特集番組「児童文学の世界」(同年5月4日に再放送)の前半解説部分「児童観の推移と日本児童文学」を再構成したものである。なお、放送(60分)の後半には、前半部分をうけた座談会が位置づけられている。出席者は波多野完治・滑川道夫・いぬい とみこの各氏、司会は熊谷孝氏。座談会には夏目武子氏の発言なども織り込まれている。
 * 当ページへの採録にあたって、本文中の「(省略)」箇所は放送の録音テープにより可能な限り補充した(【 】は補充部分であることを示す)。
 * なお、後にこの論考は一部改編の上、『文学と教育』76(1972.8)に「児童観の推移と日本児童文学」として再録された。


(1) それはひとにぎりの子どもの文学でしかなかった(明治中期の児童文学)
 「よい文学を子どもたちに」ということは、私たちの共通のねがいですけれども、それじゃ一体、どういうものが子どもにとって「よい文学」といえるのか、ということになりますと、その判断と判断の基準は、ひとによって、かなり、まちまちなんじゃないかと思います。
 ところで、私たちの日本の児童文学の歴史は、ざっと八十年の歴史をもっております。が、児童文学の八十年のこの歴史は、じつはこの、何が子どもにとっての「よい文学」なのか、ということに対する(後注子どもというものを、どういうものとして考えるかという子ども観・児童観の)人々の考え方のちがいや、考え方の対立、またその考え方の移り変わりの歴史である、ということも出来るのであります。 そこで、きょうのこの放送番組では最初に、日本の近代児童文学のあゆんできた足どりを、ごくとびとびにですけれども跡づけながら、そういう考え方(後注児童文学観とその底に横たわる児童観)の移り変わりを見てまいりたい、と思います。
 児童文学のこの歴史が映し出している、さまざまな考え方の中に、あるいは私たちの考え方と一面ふれあうものを見つけることが出来るかもしれません。そのことで、また、私たちの考え方を整理し、まとめていく足場を見つけることが出来るかもしれないのであります。
 さっそく、明治二十年代の、児童文学の草分けの時期の代表的な作品である巌谷小波(いわや・さざなみ)の『こがね丸』という作品について、それがどんな調子、どんなスタイル(文体)の作品なのかを、ごいっしょに聞いてみたい、と思います。
(『こがね丸』の書き出しの部分の、俳優による朗読。省略。)
⇒【補充】


【 むかし或る深山(みやま)の奥に、一匹の虎住みけり。幾星霜(いくとしつき)をや経たりけん。躯(からだ)尋常(よのつね)の犢(こうし)よりも大(おおき)く、眼(まなこ)は百錬の鏡を欺き、鬚は一束(ひとつか)の針に似て、一度(ひとたび)吼ゆれば声山谷(さんこく)を轟かして、梢の鳥も落ちなんばかり。一山の豺狼麋鹿(さいろうびろく)、畏れ従はぬものなかりしかば、虎はますます猛威を逞しうして、自ら金眸(きんぼう)大王と名乗り、多数(あまた)の獣(けもの)を眼下に見下(みくだ)して一山万獣(いちざんばんじゅう)の君とはなりにけり。
 頃しも一月初
(はじめ)つ方、春とはいへど名のみにて、昨日からの大雪に、野も山も岩も木も、冷たき綿に包まれて、寒風坐(そぞ)ろに堪えがたきに、金鉾は朝より洞に籠りて、独り蹲(うずくま)りゐる処へ、兼てより称心(きにいり)の、聴水といふ古狐、岨(そば)伝ひに雪踏み分て、漸く洞の入り口まで来たり。雪を払ひてにじり入り、まづ慇懃(いんぎん)に前足をつかへ、「昨日よりの大雪に、外面(そとも)に出(いず)る事もならず、洞にのみ籠り給ひて、さぞかし徒然(つれづれ)におはしつらん。」
(以下略)】


 むかしの子どもは、ずいぶん、むずかしい文章を読んだものだ、本当に読めたのかしら? という思いがなさるでしょうが、実際に読んだし、読めたし、たいへんな人気だったようですね。そのころ行なわれていた、子ども向けの雑誌や読み物の文章の調子とくらべてみまして、特別むずかしいというほどのものではないのです。
 だいいち、子ども向けの読み物というのは当時非常に少なくて、子どもたちも、おとなの読み物を読んで育った、ということが前提にあるわけです。が、しかし何といっても、これはむずかしい。それも実はそのはずなのでありまして、児童文学とはいっても、これはごく一部の階層の、ごく一部の子どもたちの読み物だったわけです。
 明治二十年代の小学校ですが、学齢期の子どもは、ざっと四百万人ぐらいいたわけです。その中で実際に小学校に入学したのは、その半分の二百万人にも満たないのですね。
 で、その二百万人の児童の中から、中学校や女学校などの中等学校に進学できるのは、また二万人そこそこだったようです。当時の代表的な小学生向けの雑誌といえば「少年園」という雑誌ですけれど、これが一万五千部から二万部ぐらいの発行部数なんだそうです。つまり、中等学校の生徒数とそれが大体一致するわけです。
 ということは、こういう子ども向けの雑誌なり児童文学作品というものが、中等学校や専門学校、あるいは大学に子どもたちを進学させることのできるような家庭の子どもの読み物だった、ということに、どうやらなりそうです。
 つまり、それは、四百万人の日本の(後注―学齢期の)子ども全体の中の、せいぜい〇・五%か〇・六%にすぎない二万人前後の子どもの読み物だった、ということになるわけでして、こんにちの児童文学の置かれている状況とは全然おもむきが違う、という点が考えられなくてはなりません。
 〇・五%の子ども、二百人に一人の割り合いの子どもしか文学に接することのできない当時の状況と、現代の、ほとんどすべての子どもが家庭で(家庭ではともかく)少なくとも学校の教室や図書館では文学に接することのできる、こんにちの状況とでは、児童文学のありかたも変わってくるはずですし、また変わらなくてはならないわけですね。

(2) 童心主義文学の成立(大正期の児童文学)
 明治のこうした状況から、現代のこの状況(後注―児童大衆社会的文化状況、文学状況)への児童文学の移り変わりの、割り合いハッキリしたスプリング・ボードの役割りを果たしたのは、ところで「赤い鳥」という子ども文化雑誌を中心とした、大正中期から昭和初期の童心主義の文学運動であったかと思います。
 ヨーロッパ各国の童話が(後注―この時期に)小波の書いた「世界お伽噺」とはちがった新しいかたちで翻案され再話されて子どもの読み物になるわけですが 、創作の面では、何といっても「童話」の時代です。北原白秋、西条八十、野口雨情といった多くのすぐれた童謡詩人の作品のかずかずが、すぐにも私たちの胸に浮んでまいります。
 北原白秋作詞、山田耕筰作曲の『この道』を、ごいっしょに聞いてみましょう。
 
(『この道』を二連まで、子ども歌手の独唱できく。省略。)⇒【補充】

【 この道はいつか来た道
ああ そうだよ
あかしやの花が咲いてる

あの丘はいつか見た丘
ああ そうだよ
ほら 白い時計台だよ】


わが幼き日の、最良の日の思い出をたどることの中に、みずからの詩情をかき立てているのであります。
       こ の 道 は   い つ か き た 道
         あ あ    そ う だ よ

なのであります。
 当時の代表的な児童文学作家であります小川未明は、次のように語っております。「文学はモラルの追求だ。われわれの童心文学は、そこなわれない、美しい子どもの心、すなわち童心によって、何が人の世の善であり悪であるのかを探ぐるのだ」という意味のことを語っております。文学の追求するモラル――それは、明治絶対主義がつくり出した「上からのモラル」「修身道徳」とはまったく別個のものだ、というのであります。その基準が、すなわち「童心」だ、というのであります。

(3) 明治から大正への児童観の推移
 話が前後しますが、小波の『こがね丸』の生まれる以前に、実はやはり、神の心に通じる美しい子ども心に語りかける文学として、いわば永遠の子どもへの祈りをこめて『小公子』のような作品がクリスチァンである若松賤子
(わかまつ・しずこ)の手で翻訳されておりますが、その伝統は、その後断絶されたかたちで大正期まで来てしまうわけです。それが、鈴木三重吉北原白秋たちのこの童心文学の運動においてふたたび息づいた格好になるわけなのであります。
 明治の児童文学――それは、児童文学だったにはちがいないが、そこで考えられている「児童」というのは、おとなと区別して考えられる「子どもというもの」であるよりは、未発達なおとな、小さなおとな、ともいうべきものだったようです。
 そこまでいってしまっては、間違いになるでしょうけれども、子どもというよりは、わからず屋の「がき」ですね。非理性的でどう仕様もない、小さなおとなですね。その使いものにならない「おとな」を、一刻も早く一人前のおとなに仕立てるために、つまり、子どもである期間をできるだけ短縮するために、読み書きが出来るようにする、体力をつける、という、そういう教育観とマッチするものだったわですね。
 そういう風潮に対して、巌谷小波なんかも初めの中はずいぶん闘ったようですけれども、結局、妥協せざるをえなかったようですね。(後注―主観的には、それは妥協ではなかったのかもしれませんが。が、いわば予見される「明らかな敗北への道」をあゆむことを彼がやめたときに、明治児童文壇の大御所の地位が約束された、というふうにはいえるのではないかと思います。)
 で、「この道は いつかきた道」の「赤い鳥」の時代、大正の時代まできて、初めて「子どもには子ども特有の世界がある」ということが、比較的一般に認められるようになったわけなのであります。
 そのことが一般に認められるようになった、というより、文学の実践を通してそういう子ども観をおし広めて行ったところに、童心文学運動の偉大な役割りもあった、ということになるのだと思います。
 けれど、童心――子どもの心の世界を認めることが、子どもの心の絶対化と神秘化にすべり、つまり童心主義に滑ったところに、その児童観の限界もあったわけなのでありましょう。
 さらに申しますと、おとなが、自分たちの子どものころへの郷愁の中に、「いつかきた道」をたどり、そこにさぐり当てた自分の子どもの心をあらゆる階層の子どもの心全般に通じるものと錯覚して、眼の前にいる実際の子どもや、その子どもの心をきわめて不十分にしかキャッチできなかった、という点にその限界があった、ということになるのでありましょう。

(4) 児童大衆文学と坪田文学
 そういうことの結果は、もうこのごろでは明治中期とはちがいまして、全児童人口の90%以上が小学校に入学するようになり未就学児童の数はずっと減っていたわけですが、この小学生たちの多くの関心と興味は、雑誌でいえば、講談社の「少年倶楽部」――そのキャッチフレーズによれば、「面白くてためになる話」を満載した「少年倶楽部」などの大衆読み物、大衆児童文学に子どもたちは惹きつけられていたわけであります。
 「ためになる」というのは、イデオロギーないしモラルの面でいえば、「君に忠、親に孝」という忠君愛国の観念を養ううえに「ためになる」ということなのですけれども、しかしそういうイデオロギッシュな問題として考えただけでは片のつかない、子どもたちの持っている、素朴だけれど、そのかぎりまっとうな正義感や愛情に対して、力強く訴える何かがそこにはあったわけです。
 それは、また、じつは手法や文体の問題でもあります。生きた、なまみの子ども心にしみとおっていく文体――こんにちの児童文学が受けつぐべき、大正・昭和の児童大衆文学が獲得した文学的手法の問題がそこに横たわっています。佐藤紅緑の『あゝ玉盃(ぎょくはい)に花うけて』ですか、吉川英治の『神州天馬侠(しんしゅうてんまきょう)』ですか、また大仏次郎の『鞍馬天狗』の少年版などですね。
 本当はここのところで、坪田譲治の昭和初期の作品にふれなくてはならないのですが、(後注―というのは、それが一種の童心文学でありながらも、描写の対象を小市民のこどもに限定して、いわばその小市民という階級性においてリアルに眼の前の子どものもつ具体的な子どもの心をつかみとっている、という意味においてなのですけれど)時間があったら後でふれるといたしまして、やはり昭和初年の、プロレタリア児童文学に話題を進めましょう。

(5) プロレタリア児童文学の児童観、その功罪
 当時の代表的なプロ児童文学の評論家であり作家でもあった槇本楠郎(まきもと・くすお)の『文化村を襲った子供』という作品の一部を、ごいっしょに聞いてみましょう。
(槇本楠郎の、俳優による朗読。省略。)⇒【補充】

【「おまえのおとうさんはなんだ?」
松はおこって、ひたいにすすきのほをくくりつけた顔でにらみつけました。
 「おれのおとうさんは職工だ。労働者だよ。」
 「だから戦争ごっこを知らないんだよ。」松はニコニコしながらいいました。「刀できられたら、みんなねころがらなきゃだめだよ。」
 「だってプロレタリアは、そんな手きずぐらいでたおれちゃだめだって――死ぬまでは、なんどだって起きあがって、たたかわなくっちゃだめだって――うちのおとうさんはいうよ。」
 「プロレタリアってなんだ?」】


 プロレタリア児童文学にもいろいろありますけれども、大体こういった調子のものです。
 「子どもといえども超階級的な存在ではない。それは具体的には、プロレタリアの子どもだったり、ブルジョアの子どもであるわけだ。その階級性において子どもの姿、子どもの心をつかんで描かなくては、生きた子どもを描いた児童文学にはならない」というふうな主張のもとに書かれたわけなのであります。
 童心主義の作家たちが、抽象的な子ども一般を考えて書いたのとは違って、また、坪田譲治などが意図せずして(?)プチ・ブルの子どもに描写の対象をしぼって、子どもの人間像をそのかぎりリアルに追求したのともちがって、ここでは具体的に、階級的人間としての子どもを描こうとした、ということは新しい発見だし、大きな前進だったと思います。
 けれども、いまの作品朗読で多分、みなさんがお感じになったでありましょうが、子どもというものの、つかみ方が観念的なのですね。具象性に乏しいのですね。
 普通にこれは、観念は進んでいたが、手法的に肉づけが足りなかったんだとか言われていますけれど、そうじゃなくて、やはり、これも作家の主体内部の子ども観の弱さや、ひずみに関係するところの、文学としての弱さなんだ、というふうに私は考えております。
 つまり、階級的存在として子どもをつかみなおそう、としたのはいいんだが、こんどは逆に、子どもを子どもでないものにしてしまっている。いいかえれば、明治の児童文学が子どもが描けないで、「小さなおとな」を描いたのと構造的には同じような、「小さなプロレタリア」「未熟なおとなとしてのプロレタリア」を描いたにとどまった、という点に問題があったんじゃないか、と考えるわけです。
 が、階級的人間という枠組みで子どもをつかみなおしたということは、新しい発見なのでして、そういう新しい子どもの把握の仕方が、さまざまの民主的な動きが――その中には文学運動もふくまれますが――抑圧されてしまう、次の日中戦争の段階になって逆に、その時期の児童文学の心棒となり支えとなって、もはや観念的とはいえない、生き生きとした作品を生みだすことにもなるのですね。

(6) 戦中・戦後の作品
  さっそく、そういう作品をつづけて、いくつか聞いてみることにしましょう。まず、
塚原健二郎『子供の会議』をごいっしょに聞いてみましょう。
 (作品朗読。俳優による。省略。)【補充】

【「今晩七時、下のものおきべやに、七歳以上の子どもはめいめい紙と鉛筆をもって、ぜんぶお集まりください。なるべくおとなに気づかれないように。」
 その晩七階に住んでいるエリナばあさんが、まごのレオンのポケットから、子ども用のとう写板ですった、こういう紙ぎれをみつけたのは、七時十五分すぎでした。なんだろう、(…)
 「まあ、おとなに気づかれないようにだって。しかたのない子どもたちだね、ほんとに。――もうエレベーターなんかまっちゃいられない。」といって、二三歩階段のほうへかけ出しました。
 と、その時エレベーターが、スーとあがってきました。そしてなかから、元気のいいポオルの声で、
 「おまちどおさま。」
 ちょうどそのころ、下のものおきべやには、十六人の子どもが集まっていました。一番大きいのは、ほっき者のレックスです。(…)
 「みなさん、ぼくたちがこんやあつまったのは、クリスマスのときのように、てじなや活動をやるためではありません。それは、ぼくたちのもっともふしあわせな友、ポオルくんのことについて、みんなで一つになって、このアパートじゅうのおとなたちに頼むためです。アンリくん、筆記してくれたまえ。――そこで、一(ひとつ)、ポオルくんからすて子というなまえをとること。一、ポオルくんが、夜だけでもいいから学校へ行けるようにすること。一、エレベーター・ボーイでも、リボンのついたノートをもって(も)さしつかえないこと。一、夜おそく、よっぱらってエレベーターにのりこんで、ポオルくんをこまらせないこと。」
 こんなふうにして、会はきっちり八時までつづきました。

 こうして子どもたちは、自分たちの親であるアパートの大人たちから、捨て子だということで、また、学校へ行かないということで――じつは、行かないんじゃなくて行けないんですけれど――、エレベーターボーイとして働いている、そういうことだけで差別待遇を受けておりますポオルという子どものために、みんなで抗議と要求のための会議をするわけです。茶目っ気やユーモアもありまして、とっても楽しい作品です。子どもを集団の中でとらえ、子どもの集団的な行動をじつにいきいきと描いているんです。
 続けて、太平洋戦争の始まるちょうど一年前、昭和十五年に書かれました『牛づれ兵隊』
という作品を朗読していただきましょう。作者は宮原無花樹(みやはら・むかじゅ)です。

兵隊さんは、長いあいだうつらうつらとしていました。
 夕がたからひどい熱がでてきて、ガタガタふるえてしかたがありませんでした。わらのなかへぐんぐんもぐりこんでしまいましたが、それでもふるえはとまらないで、歯と歯がガチガチぶつかってなりました。
 マラリヤにやられたんだな……。」
 兵隊さんは、じぶんでそう思いましたが、苦しさは、どうすることもできませんでした。

 中国で戦っている、ある兵士の姿がそこに描かれております。マラリアの熱に苦しんでうつらうつらしているうちに、この兵士は部隊からとり残されてしまいます。それと気づいて兵士はあわてふためきます。

朝になると兵隊さんは元気がでてきました。(…)でも、おなかのすいたことはどうにもなりませんでした。(…)
 「なにか食べるものはないかな、(…)」
 兵隊さんはそういいながら、一けんのおうちへはいってゆきました。(…)
(と、)なんだかうらのほうで「ゴト、ゴト」とあやしげなもの音がしました。だァれもいないと思いきっているとき、少しでももの音がすると、ギョッとするものです。
 「なにかいるな……。」
 兵隊さんはきんちょうすると、きゅうに思いだしたように、剣をぬいてすぐに銃のさきへつけました。
 「にげおくれた住民がまごまごしているのかな? それとも敗残兵が、やはり食べものでのさがしにやってきたのかな?」
 そーっとまどのやぶれから、うらの庭をのぞいてみますと、庭のまんなかに大きなめうしが、牛ごやから放たれたまま、目だまをギョロつかせて、かた足でゴトゴト土をけっているのが見えました。
 「なァんだ、牛のやつか……」兵隊さんは、ほーっとして、「たいしたビフテキにはちがいないが、どうもおれひとりのてにはおえないなァ。」と、ひとりでじょうだんをいっておかしがりました。】


  (以下、省略。)⇒【補充】

【 そのあとこの兵隊はこの牝牛(めうし)をつれて、はぐれた原隊のあとを追うわけです。この牝牛には仔牛がいまして、これもついてくる。何日かこの親牛仔牛との旅が続くわけなんですけど、牛の親子の仲むつまじい姿を見てますうちに、いつしか情がうつってくるわけです。この兵隊には母国に残した数えで三つになる子どもがおりました。彼の出征したあとに生まれたものですから、顔はまだ見ておりません。けれど、ふとまどろむうちに、その子の夢を見るわけなんです。
 このへんの描写は、どうぞみなさんご自身の目でお読みになっていただきたいと思います。胸をうつものがあります。
 やがて原隊に追いつける時が来るのですけれど、最初は、連れてってビフテキにして戦友たちといっしょに食べようと思っていた牛なんですが、もうとてもそういう気にはなれなくなりまして、そのまま放してやってしまいます。二匹の牛は、じいっと立ったまま兵隊を見送っております。
 「おーい! まごまごしていると敗残兵に食われちまうぞォ!!」
という兵士の声にくるっと向きを変えまして朝もやの中をとっとと駆けだして行ってしまう、というところでこの作品が終わるわけなんです。
 宮原という作家は、プロレタリア文学時代に新人として登場してきた作家です。が、ぎりぎりに追いこまれ追いつめられたこの時代になりまして、追いつめられる中で、しかし抵抗の最後の一線は守り抜くという、何かこう緊迫した、張りつめた気持ちと姿勢の中でこうしたヒューマンな作品が書けたわけなんです。
 戦後の児童文学も、敗戦直後のあの配給された自由の中での開放感に酔っている間は、戦後でなくては書けないような真新しい作品は生まれえなかったように思います。2.1スト以後の厳しい現実との対決の中から、緊迫感に支えられつつ、たとえば岩倉政治の『空気がなくなる日』とか壺井栄の『あたたかい右の手』のような幅と厚みのある、すぐれた意味できわめてエモーショナルな作品も生まれえたように思われるのです。
 問題のありかを探る展望の最後に『あたたかい右の手』を皆さんとごいっしょに聞くことにいたしましょう。

 B組で、いちばんよくできる子、それは、名前も、いっとうめずらしい慈雨ちゃんでした。いちばんおとなしく、そしてやさしい子、それも慈雨ちゃんでした。(…)
 竹子はその慈雨ちゃんと大のなかよしでした。(…)

 「慈雨ちゃん、あんた、お人よしね。すこし気がよわすぎるわ。(…)じぶんがわるくもないのに、だまってひっこんでるなんて」
 すると慈雨ちゃんは、竹子にだけはこたえるのです。
 「だって、わたし、いいあって、きらいなんですもの」
 それは、ケシゴムをなくした子が、慈雨ちゃんにうたがいの目をむけて、ひにくをいったときのことだったのです。慈雨ちゃんはポロポロなみだをこぼしながら、自分のケシゴムをあいての子にわたました。あとからでてきたので、うたがいはとけたのだけれど、その子はいいました。
 「へんな人ね慈雨ちゃんて、じぶんのものなら、そうだとはっきりいえばいいのに、くれたりするから、うたがうじゃないの」
 それでも慈雨ちゃんはだまっていました。(…)

 「わたしたち、あさってが遠足なの、もういまからテルテルぼうずを作っているのよ」
 いつもひかえめの慈雨ちゃんが、そのときはめずらしくじぶんから話しかけてきました。よほどうれしかったのでしょう。そしてその遠足の日の、あくる日、竹子は(…)学校にゆくと、大さわぎがおこっていました。(…)
 「たいへんよあんた、慈雨ちゃんが死んじゃったのよ。しっている?」(…)
「汽車の中でおしつぶされたんだってよ。」(…)
 
 のりこんだ汽車は貨物列車の一りょうでした。(…)のりこんだときには、まだゆとりのあった汽車の中も、ひとつひとつの駅にとまるたびに人がふえていって、大宮という駅では、大波のようにのりこんできました。(…)さきにのっていた人ほどおくのほうへおしこめられるのが道理で、生徒たちのさけび声は、しだいにはげしくなりました。そしてそのさけびがきわだったかたまりとなって、ひとすみからさけびつづけられたとき、慈雨ちゃんは気をうしなっていたというのです。(…)

 「慈雨は、美しい心のまま、神さまにめされていったのですから、(…)」
 慈雨ちゃんのおとうさんがそういうと、おかあさんもなみだをかくして、
 「みんなみんな神さまのおぼしめしですから、(…)神さまはやはり、はやくおそばへ慈雨をおよびになりたかったのでしょう」
 竹子はびっくりしてしまいました。(…)
 
 お家の人、どうして、だれもかわいそうがらないの、(…)あんないい子だったのに、慈雨ちゃんたらまた、どうしておされっぱなしでがまんなんかしたんだろう。どうしてどうして、おしかえさなかったの慈雨ちゃん、それをわるいことだと、思ったんでしょう……
(…)
 いつまでもしゃくりあげている竹子のかたに、おかあさんは手をかけ、そっとひきよせるようにして、
 「ないてあげなさい。ないてあげる人もいなくなっちゃ」
 そしてつぶやくようなちいさな声で、
 「人間が貨物列車にのせられるなんて、みんな戦争のせいよ。あれも、これも。わかるでしょ」
 それにこたえるかのように、竹子は、うなづきながらかたの上のおかあさんの手を、かるくにぎりしめました。あれてがさがさしたその手は、あたたかい右手でした。

 いい児童文学とは何か、ということを考える手がかりを求めまして、以上のような展望を行ないましたけれど、これから座談会に移ろうと思っております。】


 (後半の座談会、省略。)

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