言語過程説とその国語教育観についての若干疑問    熊谷 孝        (『文学と教育』26 1962.11)
はじめに
 あらかじめ、お断りしておきます。これは、外部へ向けての公的な意味をもつ文章ではありません。次回の文教研・月例ゼミに、こんなふうな共同討議をやってもらえまいか、という、サークルのナカマたちへ宛てての「私信」みたいなものです。
 僕の希望というのは、こういうことです。こんどのサークル・ゼミプログラムに、拙稿『国語教育以前の問題から』(教育科学・国語教育、12月号)の合評という項目が組みこまれているそうですが、でしたら、ことのついでに、やはり同一のテーマを扱った、時枝誠記先生の『国語教育研究はどうあるべきか』という論文(前掲誌・同号)と相関的に検討・討議してもらえないだろうか、ということなのです。
 というわけは、時枝論文と僕の書いたものとでは、問題の個々の点に関する発想においては十分ふれ合うものがありながら、その結論においては、もはや妥協の余地はまったくない、といっていいような意見のくい違いを見せてしまっている、ということがそこにあるからです。なぜかお互いがお互いを意識してものでないにもかかわらず、時枝論文は拙稿に対して徹底的に批判を加えた、という形のものに結果として なっていますし、僕の文章がまた、やはり、先生の論文に対して疑問を提出したというのと同じ結果になっております。
 つまり、そういうことがあるので、第三者としての忌憚のない意見や判断を、サークルのみなさんに聴かせてもらいたい、とそう思うわけです。当日の討議にレジュメを提出する意味で、以下に問題点を一、二拾って書きつけておくことにします。

時枝氏の国語教育観
 「国語教育観の対立は、根本的には言語に対する見方である言語観に基づくので、国語教育の研究は、この言語観の相違を無視したり、またこれをあいまいにして置くことは許されない」云々、――上記、時枝論文からの引用です。
 この点、僕もまた、ほぼ同様の考え方をしております。とり立てて言語観だけが、というふうには考えませんが、言語観の問題を含めて《国語教育以前》の問題に対する理解の仕方や、問題のつかみ方、それの処理の仕方といったものが、その当人の《国語教育自体》を方向的に規制する、というのが僕の考え方です。くわしいことは、上記の拙稿についてご承知ねがいます。
 つまり、右のような点については、ほぼ、まったく同意見なのですが、次のような問題の理解になると、考え方の相違がハッキリしてまいります。(1)国語教育の目的(ないし目標)は何か、(2)国語教育における人間形成とは何か、(3)教材観等々の問題に関してであります。

 さて、先生のご意見は、だいたい次のようなものです。
 (1)「国語教育の目標は……ものを読んで、そこに書かれた内容を理解出来るやうにしてやることで、国語教育は、書かれてゐる内容に目標であるのではなく、内容を獲得する手段方法の教育に目標があるのである。」いいかえれば、それは、「児童生徒が、話すこと、聞くこと、書くこと、読むことが出来るやうになることを目標とするもの」であり、「理科や社会科において前提とされてゐることを受持ち、これらの教科が、遅滞なく成立する基礎を作るところに、国語教師の使命がある」云々。したがって、「国語科が、もし特定の思想感情を生徒に植付けることを目標とするならば、その時は、国語科はその本質的使命を放棄したことになる」云々、というわけなのであります。
 このようにして、「言語過程説の立場においては、国語教育の目標は、聞くこと話すこと読むこと書くことの実践的活動の完成である」とそう語られた先生は、さらに、(2)「この立場における人間形成とは、聞くこと、書くことそれ自体の中にある」ことを指摘され、「先入観を捨てて相手の真意を読み取る。故意に相手を誤解に導くやうな表現をすることを不徳義として斥ける。相手に聴取り易くするために、発音を明瞭にする。これらのことが、すべて、国語科における人間形成である」という見解を披瀝しておられます。
 このようにして、また、「言語の思想内容に生徒を触れさせることによって、生徒の人格に何等かの変化をもたらすことを期待し、そこに人間形成があると考へる」ような「言語実体観」は否定されねばならず、(3)「生徒に読ますべき教材の思想内容」を「重要視」し、「生徒の読むものは、すべて生徒に何らかの感化を与えるものとして、その取捨選択を前提条件としたような「教科書批判」は、その言語観ぐるみ反省されねばならぬ、という見解へと展開していくことになります。

わたしの国語教育観(一)
 右の(1)国語教育の任務や目標について、僕が上記の拙稿に書きつけたのは、次のようなことでした。
  教師その人にとって必要とされるのは、まず、「あらゆる教育の場が国語教育の場となる、という国語教育意識」であること、いいかえれば「国語教育の勝負のしどころを、国語の狭いわく の中だけに求めてはならない」こと――そのことが指摘の第一点です。
 つまり、「事物をさし示すことで、コトバに具体的な裏づけを与え、概念に実体を与えることで国語教育を内容のあるものとするのは、むしろ社会科や理数科などの指導の実際面において」であるからです。それと同時に、「コトバをコトバ本来の、思考(内部コミ)と伝えの媒体としての機能と役割において、それをいきいきと使うことで事物をつかむ、ということをやるものも」文学教育や「この他教科において」であるからです。
 
 このようにして、「国語科プロパアな任務の一つは、その意味では、コトバでつかんだ事物を、さらにもう一度コトバにかえしてきて整理することで、子どもたちのコトバ体験を確実なものにする、という点に求められる」ということになります。コトバの学習に始まって、コトバの学習に終る――これが国語科プロパアな任務であり作業です。
 コトバの学習に始まって、コトバの学習に終る――しかし、それも、あくまで、コトバ体験、(コトバによる理性体験)を確実なものとするために、であります。この点をハッキリおさえておかないと、よく話せるようににするということがただのオシャベリをつくることになったり、書けるようにするということが、やはり、ただの「作文」上手をつくるようなことにもなりかねません。ともあれ、以上が指摘の第二点です。
 
 指摘の第三点は、右のことに関連して次のようなことです。
 「国語教育は、コトバの教育なのだからして、そこでは、ただ、コトバの操作の形式面をつかませればいいんだとか、その内容面のことは、これは国語科のような形式教科・道具教科のわく外の任務である、といった考え方ぐらい、バカげたものははい」という、つまりそうした点に関してです。いいかえれば、国語科は事実教科ないし内容教科なのであって、いわゆる形式教科ではない、という点の指摘です。
 というわけは、「たんに書くとか話すということ、つまり実体のない“書く”ということ一般、“話す”ということ一般というふうな、コトバの無内容な使い方というものはどこにもない」からです。“話す”というのは、何かを、いかなる仕方においてかだれかに向って話す、ということ以外ではないからです。さらにいえば、コトバを使うということは、「つねにそれを、ある条件刺激の媒体として操作する」ということであり、究極において「第二信号系をくぐってコトバ体験をつくり上げる」ということにほかならないからです。
 ダメおしをすると――子どもたちに「コトバを操作させるということは本来、そのコトバを媒体としてある種の概念をつかませ、またその概念を使ってものを考えさせる」ということでありましょう。さらにまた、「概念を組み立てて一まとまりの思考活動をくりひろげ、そこにある種の認識を成り立たせる」ということにほかなりません。(ある種の認識を成り立たせる?……認識を変革する、と言ってもいいのですが。)或いはまた、「ある種のイメージやイメージ体験をそこに成り立たせ、事物を象徴(意味形象)としてつかんだり、あらわしたりということが、コトバを操作するということの実質的内容にほかならない」というふうにもいえるかと思います。
 
 そういう課題の追い方からして、コトバを教えるということがとりもなおさず思考や認識をそだてることである、ということにもなり、必至的・必然的に「国語教育はその本質的使命」として、(時枝先生のいい方をそのまま使えば)「特定の思想感情を生徒に植付ける」ことに一つの目標を見つけることにもなる、というのが、僕の考え方です。
 「特定の思想感情を植付ける」――これは、しかし、なんとも、いやな感じのことばです。時枝先生がどういうニュアンスをこめて使っておられるのかは分かりませんが、戦前派の僕には、戦前戦中のファシストどもの用語・用語法が想起されてきて、ちょっと妙な気分になってまいります。もっとも、これは僕の個人的な感情であって、先生ご自身となんの関係もないことです。それはそうなんですが、やはり、引っかかるものがあるので註を添えます。
 正確にいえば、それは「植付ける」なんてものではなくて、子どもたちが、まっすぐに、すなおに伸びてさえくれれば、そういう思想、そういう感情の持ちぬしに育っていくような、「特定」の思想、「特定」の感情だということなのです。いいかえれば、こんにちの民主教育がその教育活動の全領域を通じて育ぐくもうとしている、それは「特定」の――つまり民主的でヒューマンな思想・感情だ、ということなのであります。
 国語の教育だけが、そういう思想や感情のわく組みからはずれて行なわれていいはずはないし、また、思考や認識の陶冶を離れては行ないえないコトバの訓練を任務とするところの、国語教育の作業が、そうした「特定」の思想・感情と直接 とり組むようになるのは、むしろ当然の(あるいは自然な)成りゆきだ、と思うのです。

わたしの国語教育観(二)
 (2)「国語科における人間形成」は、「聞くこと、書くことそれ自身の中にある」という考え方、たとえば「先入観を捨てて相手の真意を読み取る」という姿勢を確立することの中に、子どもたちの人間形成が実現するのだ、という時枝先生の考え方そのものに対しては、とくに意義はありません。疑義は、(1)の目標観および(3)の教材観とそれを関連させてみたときに生じてまいります。それは例示すれば、次のようなことです。
 国語科における人間形成は聞くこと、書くことそれ自身の中にある、というのですが、「聞くこと、書くことそれ自身」とは何なのでしょう? 聞くことも、書くことも(そして話すことも読むことも)、それは(感じる ということを含めて)考える ――思考する、ということ以外ではないはずです。それは、コトバを媒体として外なるものを内化し、また内なるものをコトバを媒体としつつ、何かを、いかなる仕方においてか考える ということにほかなりません。一般的にいって、コトバを操作するということは、コトバを思考の媒体として操作しつつ内(うち)・外(そと)に向けてコミュニケートする、ということなのであります。
 ところで、(1)および(3)(その目標観・教材観)から推して判断される、時枝先生のいわゆる「聞くこと、書くことそれ自身」とは、聞くこと、書くことの形式面――思考ということを抜きにしてつかまれた、コトバの操作の形式面のことらしいのです。
 ……となると、僕としては反対の意を表明せざるをえません。形式を内容から切りはなして、形式(形式面)だけを扱うというようなことが、「聞くこと話すこと読むこと書くことの実践的活動」(時枝氏)として果たして可能か? 教材の文章についての教師の初紋と生徒の応答、また生徒相互の討議・話し合いといった、国語教室の実際をおもってみれば、答はおのずから明らかでありましょう。
 このようにして、((3)の面にふれていえば)「生徒に読ますべき教材の思想内容」は、やはり「重要視」されなくてはならないし、「その取捨選択」には慎重な配慮が必要だ、ということに、僕の国語教育観からはなってまいります。。せっかく「先入観を捨てて」「読み取」った「相手の真意」が愚にもつかないようなものであったり、ゆがんだものの考え方や感じ方によるものであったり、というような「教材」であっては、教材として失格だと思うのです。もっとも、批判教材というものもあっていいわけですが、しかし、それとこれとは話がおのずから別です。

言語観の問題を中心に
 そこで、時枝先生のいわれる「先入観を捨てて相手の真意を読み取る」というような態度や姿勢も、じつは、内容をぬきにしたコトバの形式面の、ただの形式的な指導からは生まれてまいりません。
 「人はパンのみにて生くるものにあらず。」という表現の、それこそ字づら通りの意味の理解にしても、「人」とか「パン」とか「生くる」といった、語い なら語い の意味する事物の観念(――その概念や形象)が、表現の受け手(理解者)の体験ないし準体験において成り立っていなくては、それは実現不可能です。事物(事物の観念)を与えることなしに、コトバそのものをこね回してみても、それはただ、コトバが空回りするだけです。それは、オオムの「コトバ」であって、人間のコトバ――第二信号系としてのコトバではありません。
 つまり、そこではコトバがコトバとして機能しない。コトバがコトバにならないのです。いわんや、そこに、「人はパンのみにて……」という、バイブルのこのコトバの「真意」を読みとることなど望み得べくもありません。

 上記の論文のかぎりでは、先生の主張される言語過程説以外の言語観は、すべて言語実体観に立っている、といっておられるみたいな印象ですが、実際に先生がどう考えておられるのかは、僕には分かりません。僕として明らかなことは、僕自身の言語観がいわゆる意味の言語実体観ではないにもかかわらず、先生の考え方、問題のつかみ方について上記のようなズレを自身に感じる、ということです。
 あえていえば、先生が『国語学原論』あるいはその『続論』において展開しておられるような、言語の本質論――コミュニケイションの過程を重視し、過程的構造に言語の本質を考えておられる、その考え方は、同時に僕自身のものなのであります。にもかかわらず、上記のようなズレがそこにあるということには、(僕のほうからいわせると)言語活動ないし言語過程がそれとして完結するものであるかのような考え方を先生がしておられることに関係するのではないか、という気がしてならないのです。
 先刻、その点にふれたように、事物(事物の観念)との対応関係においてのみ、コトバがコトバとして機能する――つまり、言語過程が成り立つ、というふうに、僕なんかは考えております。初めにコトバありき……ではなくて、やはり、初めに事物(世界)があるのだと思います。いや、初めに だけではなくて、終始 そうなんだと思うのです。
 具体的に申しましょう。
 理解を伴なわない表現であるとか、表現を前提としない理解というようなものはありえない、という意味のことを、『続論』の初めのほうで先生は指摘しておられます。
 表現を前提としない理解はない……まことに、その通りだ、と思うのです。が、その表現は、ある事物についての表現であり、またその理解は、表現(コトバによる条件刺激)によって媒介され喚起された、その事物に対する自己のひごろの(いわば習慣化された)反応様式を、実は前提としたものであるはずです。
 ―― 「ジロちゃんめがけて、一ピキのイノシシが、まっしぐらに、かけてきました。」
というようにな表現も、だから、猪がどういう動物か見たことも聞いたこともないような子どもには、スリル感は起こりません。いや、起こりようがないのです。そこには、ただ、i n o s h i s h i という音声があるだけです。実はその音声さえ、正確に伝わっているかどうか疑問です。事物(事物の観念)の裏づけを伴なわない音声言語は、音声の面さえ正確に伝わりにくいのです。それがいくら「明瞭に」「発音」されていたとしても、であります。
 つまり、表現を前提としない理解はありえない、ということは確かですが、その事物に対する理解があらかじめ成り立っていないことには、表現も、また理解も実現しない、ということを僕はいいたいのです。受け手の内側に表現理解が成り立つためには、事物そのものに対する理解が先行していなければならない、ということです。ギュヨーだったでしょうか、「作品に示された感情を理解できるためには、読者は、あらかじめ、その感情を自分の内側に持っていなければならなぬ」という意味のことを語っていたのは――。表現と理解との間には、つまり、そういうことがあるわけです。さっき、言語過程はそれとして自己完結的なものではない、と僕がいったのも、やはりそういう意味においてであります。
 先生はまた、「時代、思潮、あるいはイデオロギーといふやうなものが」「研究のあるべき姿を決定する重要な要因になるとは考へにくい。」「学問の体系は自らそれとは別」である、という学問観をそこに述べておられますが、上記の先生の言語観とこの学問観との間には、ある函数関係が求められるように僕には思われます。
 (国立音楽大学教授)
 HOMEデジタル・アーカイヴズ熊谷孝デジタルテキスト館(『文学と教育』掲載)